幸福を追い求めることはストレスが大きい

 

多くの人々が必死になって「幸福」を追い求めている。幸福なしでは生きられないと考えている。かつては、生きることの他に、幸福を得るための余分な時間とエネルギーを持っている人は、ごく一握りであった。しかし、今では、多くの人がそれらを持つようになった。幸福を求める余裕ができた人々は、中庸ではなく最大を求めるようになった。しかし、一方で、「ストレスを伴った幸福」、「幸福を失うことへの心配」、「エクスタシーへの中毒」とうネガティブな要素を伴うようになった。

 

何故私たちは大きな幸福を見つけることができないのか

 

ある調査機関が、二〇〇七年から毎年ドイツの約三万人の人々に、「最近四週間で幸せだと感じたことがありますか」という質問をした。多くのひとが「幸福」だと感じているが、その数は毎年ほとんど変わっていない。滅多にないような経験をしたとき、人々幸福だと感じる。したがって、幸福は日常的なものではなく、継続的なものでもない。また幸福は、努力した後の報酬である。幸福を感じるとき、脳がそれを感じさせるホルモンを放出し、全身に知らせる。そして、ストレスを感じさせるホルモンの量が減少する。つまり、幸福を感じることは、化学的な反応なのである。それまで幸福を感じるホルモンが少ないため、それが放出できる。言い換えれば、辛い時があってこそ、幸福を感じることができるのである。つまり、生物学的に言って、「常に幸福」ということは有り得ない。

 ボタンを押せば幸せな気分になるホルモンが放出される装置を使って、ネズミで実験が行われた。ネズミは、食べることも、眠ることも、セックスさえも忘れて、ボタンを押し続け、最後には衰弱していった。人間の身体は、幸福感が続きすぎないように、一過性のものであるようにプログラムされている。それは、人間が未来に対してモティベーションを持ち続けることに役立っている。

 反面、簡単に幸福が手に入ると中毒になってしまう。例えば、麻薬や金も簡単に手に入る幸福と言えるだろう。しかし、その幸福も繰り返されると色褪せてくる。その結果、人々の行動はエスカレートし、中毒症状を呈してくる。幸福は予期しないときに来るから、幸福と感じるのである。また、永続する幸福を追い求めようとする者には、失望だけが待っている。

 毎日キャビアを食べていると、そのうち美味しいと思わない時が来るであろう。幸せだと思ったことに慣れてしまうのである。宝くじに当たる等、大きな出来事も、長い意味では、幸福にそれほど大きな影響を及ぼさない。それは、あたかもトレッドミルの上を歩いているようなものである。もっと上を目指そうと思っても、常に同じ場所を歩いている。

 幸福を予期すればするほど幸福が得にくくなるというパラドックスが常に存在する。同時に、多くの人々は幸福がいつまでも続かないことを本能的に知っている。それゆえに、幸福を追い求める者は、それを失うことに、常に不安を感じることになる。

 人生の意味は何かと聞かれて、「幸福であること」と答える人は多い。「幸福を求める」、それは一種のカルト、宗教になりつつある。しかし、その際「何のために」「何に対して」と問いかけてみるとよい。幸福が起因するものは、大きな恩恵や、課題でなくてもよいのである。人生、「生きていてよかった」と思う瞬間が何度もある。ところが、それに気づかない人も多いし、些細な出来事を好きになることは難しい。特に最近は「幸福を得るためにこうしたらよい」という情報が溢れている。皆、現在持っている事を否定して、新しい何かを作ろうとする。しかし、今あなたの持っている物を評価してみたらどうだろうか。センセーショナルではないが、満足をもたらす何かが見つかるはずである。

 

それでも幸福を追い求めることから学ぶ物は何か

 

前章で、幸福を追い求めることは、中毒に陥り、時には病的で、決して満たされることはないことを述べた。しかし「幸福」を「満足」に置き換えればどうなるだろうか。別の道が開けてくるのではないだろうか。「国民総生産」と同じように「主観的な幸福度」という指標がある。それは主観的な至福と言ってもよい。「喜び」、「傾倒」、「感激」などのポジティブな感情から、「罪の意識」、「怒り」、「後悔」といったネガティブな感情を差し引いた残りということも出来る。したがって、日常の活動の中で、ポジティブな点が多いほど、この指標は高くなる。

幸福であることは自分の心の中の問題だけではない。他人との比較の上で、人々は幸福を感じる。例えばオリンピックの銀メダリストを考えてみよう。彼は敗れたとはいえ、それなりの幸福を感じているはずである。それは、メダルに手の届かなかった大多数のアスリートとの比較によるものではないだろうか。また、ミュンヘンの超高級住宅街グリューンヴァルトに住むことを夢見ていた人が、その願いが叶って、かなり無理をした上で、そこに住めることになったとする。しかし、周囲は本当にリッチな人ばかり。その人たちと自分を比べて、居心地が悪くなることが多いのではないだろうか。

グレンとシュリューダーは、あらゆる社会層に属する二万三千人の米国人に、幸福がどうかを尋ね、その理由を聞く調査を行った。金持ちは貧乏人よりもおしなべてより多くの幸福を感じている。しかし、「同世代の人間に比べて自分はより金を持っている」という点が、幸福を感じる原因となっていることが多かった。つまり、ここでも、幸福は、「同世代の隣人と比べて」どうかという要素が大きかったのである。しかし、自分より成功し、金持ちの人間は常に存在するわけで、上を見れば見るほど、自分の境遇が不満に思われてくるのである。

同時に、組織の歯車のひとつとして働くのではなく、自分で決定できるということが、達成感をもたらすひとつの大きな要素となっている。役所では、下のポジションにいる職員の方が、病欠が多く、寿命も短いことが統計的に証明されている。また、最もストレスが多いと考えられる合衆国大統領の平均寿命を見ると(暗殺された三人を除いて)、同世代の他のアメリカ人と全く同じである。また、入所者を運営に参加させている老人ホームほど、死亡率が低いことが証明されている。「自分で決断できること」これが、幸福度、達成感の要素となっていることが、これでも分かる。

競争社会では、先頭に立つ者が認知され、それを支える大部分の人々が失望するパターンが多い。国民に、政治参加の自由や言論の自由を認めている国は、国民の福祉を促進している。ブータン王国が、「国民総生産」ではなく「国民幸福度」を上げることに価値を置いていることは笑いごとではない。そのためには、公正な社会や経済の発展が、文化の向上、環境の保護と同様に明確な目標となる。人間の幸福や不幸には個人的な要素だけではなく外から要素が重要な役割を果たす。誰もが経済的な安定が必要であるとともに、人生の意味が必要となる。職業の他に、ボランティア活動、趣味、家庭などがあるとなお良い。幸福の追求は、取りも直さず人生の意味の追求である。世界を救うことは不可能なので、取り敢えず、世話をする人、夢中になれるものがあることが大切である。

 

     何故満足を求めることが幸福を求めることより努力する価値があるのか                                                                                                               

 

幸福の追求が挫折することは証明された。しかし、満たされた生活を送りたいと思う。残された道は、気に入らないことも受け入れる、毎日の小さな「良い」という瞬間を楽しむしかない。満足はこれらの全てを含んでいる。満足を得るためには、生きている証として、良い瞬間も悪い瞬間あるがままに受け入れること、不幸のない人生はないと覚悟を決めることが大切だ。不幸そのものよりも、不幸に対する不安が人間の心を蝕むのである。

成功か失敗か、誰も結果は分からない。失敗は怖い。しかし、挑戦しないことには成功も得られない。「塞翁が馬」の例え通り、不幸だと思っていても幸福に転じることもある。職場をクビになったと言ってもクヨクヨする必要はない。それがきっかけになって五年後にはもっと良い職場を見つけて、もっと遣り甲斐のある仕事をしているかも知れないのだから。現状を不満足に感じたり、不幸に遭った人は、うつ状態であると感じるであろう。しかし、それは本当のうつ病とは違うのだ。メランコリー、つまり沈んだ気分であるだけなのだ。そして、沈んだ気分のときこそ、感受性が増し、人生の意味を知る上で良いチャンスなのである。落ち込み、悲しみにさえ重要な意味がある。

問題を抱えた時こそ、人間は新しいことを考える。不機嫌なときこそ、人間はこれまでのステレオタイプを否定する。自分を、これまでの価値観を完全に否定することから、新たな挑戦が始まるのである。

人間の身体は、不機嫌を一種の警告として捉え、そんな時こそ、人間は周囲に対して敏感になる。それが新たな力となることが多い。むっつりした人間は、人付き合いの良い人間より、社会的であると考える人もいる。優れた芸術作品の多くが、作者が悲しみや、うつ状態に苦しんでいるときに作られたという事実もある。悲しいときほど、ストレスホルモンが脳細胞の結びつきを強くし記憶力が増し、悲しい時ほど議論しても一致を見出しやすくなり、悲しいときこそ、懐疑的に、正確に物を見ることが出来るのである。憂鬱な気分は、人間を損なうものではなくむしろその逆である。困難な時期は、人に逆にチャンスを与える。そして、その困難を克服したとき、人は自信を得て、人生の意味を再認識できるのだ。

「ストレス」という言葉の発明者であるオーストリア・ハンガリーの医者ハンス・セルイェもストレスの肯定的な面を予測し、「悪いストレス」、「良いストレス」を使い分けている。ストレスは悪い方にも良い方にも作用するのである。受け身の心地よさではなく、何かを克服して達成したときこそ、真の心地よさを感じるのである。シカゴ大学のミハリー・クシクスゼントミハルイは、何かに没頭して時間の経過を忘れている状態を「フロー」と名付けた。幸福になろうということさえ忘れている時間が一番幸福な時間であるという。老子も「幸福を追い求めようとする努力をしていないときが真の幸福である」と述べている。非常な努力をしなければ得られない魅力的な目標があることを知ることは大切である。その目標を達成した後で、一息入れて新たな力を蓄えることが真の満足と言える。

幸福は過大評価されている。大きな幸福を目指すのではなく、小さな満足を捜すことに意義がある。幸福は外からの刺激で感じ、自分ではどうしようもない部分がある。それに対して満足は内から来るものであり、自分コントロールできる。小さな快い瞬間を再評価することにより満足は得ることができる。満足はパーソナリティーに根差しており、継続性があり、外の世界と関係なく得ることができる。そう言った意味で、幸福と満足の関係は、恋愛と愛情の関係に似ていると言える。毎日、ご馳走の並ぶ食卓に着いたらどう感じるだろう。継続して良い気分になりたければ、満足を学ぶしかない。

「はい」という肯定的な返事は何も結婚式のときだけではない。常に、特に困難なときほど必要になってくる。満足を得ることは、自分にとって何が重要かという問いに答えるところから始まる。また満足を得る訓練もできる。それは、人生が上手くいっていないときも、自らを「満足している」と答えさせるようにする訓練である。