マオちゃんと二二六事件

 

G君はソロモンのお土産に「タイヨー、ツナ缶」と「ココナッツ油の石鹸」をくれた。ツナ缶はなつかしい。

 

京都大学総合博物館、結構立派な博物館なのだが、訪問客が極端に少ない。広い館内に全部で十人もいるだろうか。

「いつもこんなに空いているんですか。」

と、コンピューターの横におられた館員の女性に不躾な質問をしてみる。

「今、『マオちゃん』が出てはる時間ですし、皆さんテレビみてはるのと違いますかねえ。」

と彼女は言った。

「えっ、『マオちゃん』、それ誰?毛沢東?」

「浅田真央のこと、スケートの選手や。」

と、G君が助け舟を出してくれた。

そうそう、途中で飛行機に乗って移動したのですっかり忘れてしまっていたが、今ヴァンクーヴァーオリンピックが開催中。日本へ発つ前は、中継やハイライトを「ユーロスポーツ」で、結構一生懸命見ていたのに。今日はメダルに期待の高い女子フィギュアスケートの決勝。日本では正午頃の放送になることを思い出した。

 京大の生協に行き、会員であるG君は一割引で本が買えるというので、彼のカードを借りて数冊の本を買う。その後、G君と別れる。雨脚が激しくなり、歩くのを諦め、百万遍からバスに乗った。しかし、今日は鞍馬口から岡崎、市役所前、京大とよく歩いた。

 夕方、父の家、つまり僕の実家に立ち寄る。義母は留守だった。

「今日は二月二十六日、『二二六事件』の日や。」

と父が二二六事件の顛末を話しだした。僕はその話の展開に驚いた。最近父は、社会問題には余り関心を示さず、自分の身の回りのことばかり話す傾向が強まっていた。そこへいきなり歴史上の事件が登場したのだから。

「総理大臣の岡田啓介は女中部屋へ逃げ込み難を逃れ、その身代わりで義弟の松尾伝蔵が殺されたんや。」

しかし、父の記憶力は素晴らしい。その日、新聞が発行されなかったことまで覚えている。その事件を記念して、「昭和維新の歌」と言うのが作られ、父は軍隊でその歌を唄ったという。そして、その歌の一部を披露してくれた。はっきり言って、僕は八十九歳の父の記憶力に完全に脱帽。この人は「ボケ」という言葉とは関係ない人なんだと、つくづく思った。

 継母が帰ってきた。案の定、母はフィギュアスケートを見ていた。開口一番、

「真央ちゃん惜しかったなあ。」

浅田真央選手は二位だったらしい。二二六事件からの余りの話題の転換に戸惑いながら、僕は母の話を聞いていた。母が話し始めると、もう父も僕も言葉を挟む余地はない。

 その夜は父の家で夕食をとり、その後、銭湯へ言った。銭湯でもフィギュアスケートの話題で持ちきり、女湯から中年のおばちゃんの声が聞こえてくる。

「真央ちゃん、惜しおましたなあ。」

 

話題のマオちゃん。うちの末娘ポヨ子と同じ十九歳。

 

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