19章:教育(Education)− 変化だけが唯一不変

 

これまでの神話が、ひとつひとつの定数の変化により、崩れ落ちていく。しかし、新しい神話はまだ成立していない。そのようなとき、子供たちに何を教えればいいのだろうか。今生まれた子供たちは二十二世紀まで生きることになるだろう。しかし、それがどんな時代なのか、誰にも分からない。元々、未来を予測することは簡単ではないが、テクノロジーが日進月歩の進歩を遂げている今の時代では、未来の予測は益々困難になってきている。一〇一八年に、一〇二五年の予想をすることは、さほど難しくなかった。政治は変わっても、人々の生活はほとんど変わらなかったであろう。教育と言っても、男の子には農業や読み書きを教え、女の子には家事を教えておけば事足りていた。今、子供たちに何を教えたらいいのだろうか。おそらく、二〇五〇年には、脳とコンピューターが接続されているだろう。今の子供たちが勉強していることが、二〇五〇年には役に立たないかも知れない。現在の教育は子供たちに情報を与えることに注力している。昔は情報量が少なかったからそれが可能だったが、今は情報量が多すぎる。

二千年前、他国で何が起きているかはほとんど伝わらなかった。また、国家が情報を検閲し、国民に伝わらないようにしていることもあった。学校制度が、情報の伝達に寄与したことは革命的な出来事であった。子供たちは世界中の情報を得る機会を得た。今や、スマホがあれば、世界の奥地でも情報を得ることができ、世界は情報に溢れている。国家が情報を検閲することは、難しくなった。反面、偽情報が横行するようになった。また、情報が多すぎて、何を信じていいのか分からないという事態も生まれた。今後、人間には情報の真偽を判断する能力、断片的な情報から全体像を作り出す能力が必要になるだろう。学校教育では、単に情報を集めるだけでなく、「自分で考える」ことが一層大切になるだろう。教育の目標は、「データを分析し、正しい判断を下せる人間を作る」ということになるだろう。

多くの学校は、情報の他に、その情報を分析する、決まった方法を教えるようになるだろう。例えばプログラム言語がそれに当たるだろう。しかし、その方法が、二〇五〇年でも有効かということは誰にも分からない。二〇五〇年に、どんな能力が必要とされるのか、誰も分からないのである。では、今、子供たちに何を教えればよいのだろうか。大切なことは「変化に対応すること」、「新しい事物を受け入れること」、「外界がいかなる状態でも心の平衡を保つこと」。ドイツ語でいうと四つの「K」、批判的な考え方(kritisches Denken)、コミュニケーション(Kommunikation)、協力(Kollaboration)、創造性(Kriativität)であろうか。そういう意味では、これまでと大きく変わることはない。

一八四八年、農民が大都会の工場に「移民」として移り住んだとき、彼らは死ぬまで、そこで働くことになっただろう。しかし、二百年後、二〇四八年、サイバー空間に来た「移民」は、どんな運命を辿るのだろう。ありとあらゆる仕事がAIに取って代わられるかも知れない。今は十年単位で状況が変わっている。本当のところ、そのとき、どのような状況になっているかは誰も分からないのが正直な見解であろう。変わることだけは確か、しかし「どのように」は誰もがまだ予測できない。

これまでの人々の人生は「教育」、「労働」の二つのフェーズから成り立っていた。「教育」のフェーズでは、情報を知り、自らの能力を高めることが目的になる。「労働」のフェーズでは、培った能力を世界の中で生きていくために使うことが目的なる。二十一世紀には、この二つのフェーズが絶え間なく繰り返されることになるであろう。

変わることは困難であるし、年を取ってくるにしたがって、ますます困難になっていく。若い時は世界を征服しようと考えても、五十歳になると安定を求め、そんなことを考えなくなる。それには脳科学的な理由がある。人間の脳は、歳を取るとともにシナプスを結び付ける能力が落ちる。しかし、二十一世紀では、五十歳を過ぎても、常に学び続けなければならなくなる。そのとき、それまでの経験は余り役に立たなくなることが多い。

これまで出会ったことのないものが、今後次々と登場するだろう。例えば、知能を持った機械、遺伝子操作をされた肉体、十年毎に職業を変える必然性。もし、これまでにない局面に立たされたら、分析できないような量の情報を与えられたら、知らないことが当たり前になったら、どうなるのだろうか。そこで一番必要なものは、精神的なフレキシビリティーと感情の平衡を保つ能力であろう。子供たちにもそれを教えなければならない。フレキシビリティーと反発力を教えなければいけない。しかし、それを教える教師が旧世代に属しているので、それは難しいかも知れない。今の学校教育はベルトコンベア式である。教えている内容は既に破産したものだが、それに代わる新しい方法はまだ構築されていない。

子供たちへのアドバイス、それは「大人たちを信用していけない。大部分の大人は世界が分かっていない」ということだ。二十一世紀の変化はこれまでに比べて特別なのだ。では、子供たちは何を信じたらいいのだろうか。テクノロジーだろうか。しかし、テクノロジーは少数の人々だけを豊かにし、大部分の人々は奴隷になってしまう。テクノロジーは何が必要かを教えてくれるが、何をすべきかを教えてくれない。テクノロジーにコントロールされることは簡単だが、それをコントロールすることは難しい。

信用できるのは自分自身だけなのだろうか。しかし、自分自身の考えだと思っていることが、他人から吹き込まれたものでないと言い切れるのだろうか。また、生化学の発達により、人間の感情を外から操作する方法が、次々と考え出されている。

自分をコントロールするものについて、もっと知らなければならない。「自己を知れ」、それは哲学の原点でもあるのだが、それが今大切になってきている。政府や企業は、人々にどんどんハッキングをかけ、人々の行動を、アルゴリズムを使ってコントロールしようとしている。アルゴリズムに完全にコントロールされる前に、人々は素早く行動しなければいけない。素早く行動するためには、重い荷物は捨て、身軽でなくてはいけない。

 

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