20章:意味(Meaning)−人生は物語ではない

 

「人生の意味は何か?」その答えは、時代と共に、その必要に応えて変化してきた。現在の答えは何だろうか。人間は、過去から学ぶ動物である。だから、どうしても過去の歴史を見てしまう。しかし、指針となるのは、あくまで自分自身の経験、決断だと、私は思う。

ヒンドゥー教で信じられていたのは、人間は「輪廻」の一部分であるという考えだ。繰り返される自然のサイクルの中に個々の存在があり、人生の意味とは、そのサイクルの中で、自分に与えられた役割を果たすことである。その役割をヒンドゥー教では「ダルマ」と呼んでいる。人生の意味とは、個々の人間に与えられた「ダルマ」を完遂することであるという。ディズニー映画の「ライオンキング」では、まさにこの自然のサイクルが描かれている。ライオンの王様の息子であったシンバは、父の死後群れから追い出されるが、最後は王として返り咲き、自分の息子を後継者に定める。彼は「百獣の王」としての「ダルマ」を果たしてわけである。

しかし、この考えでは、人々はこれまで先祖がやってきたことを続けなければならない。それから抜け出そうとすることは、「自然の法則に逆らう」ことになる。また、人間には、そのアイデンティティーが既に存在していることになる。多くの人々は自分のアイデンティティーが何か、見つけられなくて悩んでいる。もし、それが突然分かったとしたら、悩みから解放されるであろうか。

他の宗教では、明確な始まりと終わりがある、直線的なドラマが信じられている。例えばイスラム教では、最初にアッラーがこの世界と律法を創った。人々の目的はその律法を実行し広めていくこと。そして、最後の審判の日、アッラーにより、その人々の人生が総括、判断される。ナショナリズムもまた、直線的なドラマである。例えばシオニズム。ユダヤ人が登場し、祖国を失い、その後に迫害の歴史がある。それがホロコーストで頂点に達する。そして、イスラエルの建国と祖国の奪還。ユダヤ人は自分たちの存在意義を、ユダヤ人としての純血を守ることだと捉えている。共産主義も然り。人類の歴史はブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争の歴史であり、最後は革命が起こり、プロレタリアートが勝利を収め、共産主義の理想郷で終わる。この際、人生の意味は闘争であり、革命である。

直線的な歴史観は、歴史の中に、自分のアイデンティティー、自分たちの生きる意味を求めようとする。しかし、それが永久に続くものなのか。例えば、シオニズム。ユダヤ人は現在、世界の総人口の0.005パーセントを占めるに過ぎない。エルサレムは永遠にユダヤ人の首都であるというが、その「永遠」は高々数千年を指しているに過ぎない。宇宙が出来てから百三十億年、人類が登場してからでも二百万年が経っているのに比べると、シオニズムは極端に短い視点に立っていると言える。太陽が膨張し、地球を包み込むまで百三十億年が予想されるが、ユダヤ人はイスラエルがそれまで続くと本当に思っているのだろうか。私は、子供の頃にそのことを知るにつけ、周囲のユダヤ人がやっている宗教的な行事を、胡散臭いと感じるようになった。他の宗教、他の民族も、宗教も同じである。それらが存在しているのは今だけ。宇宙の歴史に比べれば、ちっぽけな一瞬に過ぎない。

宗教は、人々が人生の意味を見つけるよう、様々なストーリーを作る。それは、完璧なストーリーでなくてよい。ストーリーはふたつの条件だけを満たせばよい。一つは、個々の人間に何らかの役割を与えること。もう一つは、自分の見える地平線を越えた何物かを予感させることである。その結果、ストーリーは人々に生きる意味、アイデンティティーを与えることが出来る。そのストーリーは大きければ大きいほどよい。そして、開かれたままになっていても問題ない。また、限定的であってよく、必要以外のことに触れる必要はない。ナショナリズムは、他の国について触れる必要はないし、共産主義は人類の起源や進化には興味がなくてよい。もし、共産主義社会で、人類の起源や進化について述べる人間が出てくれば、「反革命的」、「非生産的」と言って、握りつぶせばよいのである。

ストーリーテラーは、聞き手を自分の世界に引き込めば、聞き手にそれまでの世界を忘れさせるように努める。ユダヤ教や共産主義を人々に信じさせた後は、宇宙の大きさ、宇宙の歴史などは、意味がないと片付ければよい。「我々の知っていることは、宇宙のほんの一部に過ぎない」そう説明してしまえばよいのである。

自分が死んだ後も、「何か」を残すことが人生の意味だと思っている人が多い。また、次の世界で生まれ変わることを信じている人も多い。つまり、「死」は、次の章の始まりだと。来世があると考えることは、人々の心に安心を与えてくれる。しかし、そこには幾つか疑問がある。スパンが長いことに意味があるのか。また、現世で不幸な人が来世も不幸であれば、悪いことを繰り返すことになるだけだ。ヒンドゥー教や仏教では、このエンドレスループから脱却するために、「前世のことは知ることはできない」という「縛り」を設けている。しかし、私には、現金化できるかどうか分からない空手形を振り出し続けているように思えてくる。

死んだ後も、何かが残ると考えている人は、あながち間違いであるとは言えない。人間は文化的なもの、生物学的なものの両方を、死後も残せることは事実である。詩を残すか、遺伝子を残すか。また、「次の世代が無事に生きていける環境を作ること」が人生の意味だと考える人もいる。しかし、次の世代の問題は「彼らの問題」であり、「自分の問題」ではないと考えることもできる。人生の意味では、ピンを抜いた手りゅう弾のようなものであり、他人に渡してしまえば、自分は安全なのだと。そして、最近は子孫を残さないで死ぬ人も非常に多い。また、文化的なものを残すと言っても、才能のない普通人にはそれは難しい。

人生の意義は、「世界を少しでもよくした」と言うことで十分だと思う。私は誰かを助ける。そして、助けられた人は、別の誰かを助ける。それを通じで、私は世界をよくするために、何らかの役割を演じたと、そんな風に考えることはできないだろうか。「人を助ける」ということは「他人を愛する」と言い換えてもよい。その連鎖が広まれば、愛の対象が全世界に広がる。それは相互作用であり、愛する人は愛されることになる。もし、今誰も愛していないとしても、新たな愛の対象を見つけることが、人生の意味になるかもしれない。

よくできたストーリーは、人々の地平線を広げる役割がある。しかし、それは必ずしも真実である必要はない。それどころか、宗教的はストーリーは、ほとんど真実ではない。つまり、人生の意味は真実を見つけることではないのである。そして、真実はストーリーのように、うまくつじつまが取れていない。では、どうして人々は作られたストーリーを信じるのだろうか。そのストーリーの中に、自分の存在意義、アイデンティティーを見つけることができるからである。子供は、小さい時から、親や教師から繰り返し作り話を聞かせれ、それを信じるようになる。そのストーリーの真実性について問われることはなく、大人になってもその癖は残る。そのストーリーの中には、集団としてのアイデンティティーがある。その真実性を疑うと、その集団の中で仲間外れにされてしまう。それは、ストーリーだけでなく、法律、規則、習慣などについても、言うことができる。

多くのストーリーは、土台の脆さではなく、屋根の重みで潰れるものだ。キリスト教のひとつの弱点は、キリストが本当に神の子であるかどうか、証明できないことであろう。マリアが処女であった証拠はあるのか。このことは、キリスト教を屋根のように上から押さえている。テキストは色々な解釈が可能で、「神の子」という言葉の解釈で、すでに、カトリックとギリシア正教会では対立していた。もし、宗教がひとつのストーリーのみに立脚していれば、そこに矛盾が生じるだけで、崩壊してしまう。それが、「屋根の重みによる崩壊」である。

自分たちに、生きる意味とアイデンティティーを与えてくれるストーリーは、基本的に虚構、フィクションである。しかし、我々はそれを信じなければいけない。それはどのようにして行われるのであろうか。

まずは「儀式」である。儀式には嘘を本当にする不思議な力がある。数千年前から、指導者たちはそのことを知っていた。例えば、「キリストの肉」であると言って、パン切れ口に含む。そのとき「これは私の肉である」という意味のラテン語、Hoc est corpus.と言われる。これが、「馬鹿げた」という意味の「ホーカスポーカス」の由来である。儀式とは、もとより馬鹿げたものなのである。儀式は時代と共に変わり、色々な意味が付加されていく。儀式は政治的なものにも使われる。王冠が、「王の権威の象徴」として作られた。そしてその「王の権威」のために、多くの人々が戦い、命を落とすことを厭わなかった。儒教では「礼」が社会に秩序と平安をもたらすものとして重要視されている。服装、行動などが「礼」として定められ、失敗の本質は、その「礼」の欠如であるとされた。現代の西洋人はそれを、「表面的なもの」として一笑する。しかし、儒教家は人間の本質を見抜いていたのだ。人々が「儀式」によって色々なものを信じるようになることを。儀式は真実を知ることの妨げになるが、社会に安定をもたらすことに寄与してきたことも否めない。儀式は現代社会でも、「国旗掲揚」などで使われている。それにより、漠然とした「国家」という考え方に、具体的なイメージが与えられるのである。

「儀式」に続いて、ストーリーを本物っぽく見せるテクニックが「犠牲」である。例えば「断食」。自己を犠牲にして苦しむことにより、神を信じる力が強くなる。また、説教師はしばしば、国や宗教のために命を落とした「殉国者」、「殉教者」について話をする。そして、「彼らの死が、無駄だと言うのか?」と言う問いを聴衆に投げかける。男性が、女性の歓心を得るために、高価な指輪を贈る。これも、金という犠牲を払うことにより、愛を自分にも、相手にも信じさせようとしているのである。キリストの磔(はりつけ)が、その最大の物であろう。もし、殉教者がいなければ、他人を犠牲にすればよいのである。「魔女狩り」、「階級の敵」として他人を投獄することなど、その例には枚挙がない。一神教では、多神教に比べてはるかに多くの人間を、「犠牲」として、「神の名の下に」殺した。

また、自己犠牲が強ければ強いほど、自分の信仰心が強いと思わせることが出来る。ユダヤ人は土曜日が安息日であるが、イスラエルでは、その日にしてはいけないことのリストが、どんどん長くなってきている。車の運転さえ禁止された。急進派は人々に犠牲を強いることで、信仰を正当化しているが、迷惑を被るのは、社会の底辺の人たちである。モーゼの「十戒」を守らないキリスト教徒はいくらでもいる。犠牲は、戒律を破った人たちへの「埋め合わせ」でもある。人々は理想と現実のギャップを犠牲で埋め合わせる。戒律を守らない(守れない)ヒンドゥー教徒が、喜捨でそれを埋め合わせ、自分を納得させるように。

エジプト人、カナン人、ギリシ人は多神教であった。その場合、ひとりの神がダメでも、他の神が助けてくれる。人々は複数のストーリーを信じ、そのうち一つのストーリーが崩壊しても、次のストーリーが準備されている。人間はそもそも複数のアイデンティティーを持つことができる。人間の脳には、多くの引き出しがあるが、それらはお互いに連絡を取り合っていないように思える。一人の人間は、イスラム教徒であり、同時にイタリア人であり、同時に資本主義者であることができる。人間がひとつのアイデンティティーしか持てないということは、間違っている。

ナショナリストが必ずファシストであるとは限らない。ナショナリストにも、世界には他の国があり、それぞれが独自性を持っていることを認めている人は多い。先ほども述べたが、人間は複数のアイデンティティーを持つことができる。ある男性は、同時に、社会主義者であり、カトリック教徒であり、科学者であり、夫であり、父であり、菜食主義者であることができる。そして、全てのアイデンティティーに、制約と義務がある。

ファシストは、ナショナリストが、他の全てのアイデンティティーを捨ててしまった者と言える。自分の国さえよければ、他の国がどうなろうと関心がない。ファシストには価値基準がひとつしかないため、国が殺人を命じれば、それに従ってしまう。子供たちに対する教育も、国のために尽くすことのみ、それが真実であるかどうかは関係ない。しかし、ファシストは二つの意味で多くの人々を魅了した。一つは、考え方が単純で、難しいことを考えなくていいこと。もう一つは、「自分は最高の物に属している」という満足感を得ることができること。ホロコーストが示す通り、ファシズムの考え方は明らかに誤りである。しかし、人々は、それを感じながらも、どうしてファシズムに従ったのだろう。「ハリー・ポッター」では、どうしてヴォーデモートに従う人がいるのかが、説明されていない。私がそれを説明するならば、悪いものが常に醜いとは限らない、時には、逆らえないくらい魅力的を有しているものもある。ファシズムも魅力的に見える面があるし、またファシズムの鏡に映してみると、どの国も素晴らしい場所に思えてくる。

ファシズムはラテン語の「fascis」から来ている。これは「棒の束」という意味である。一本一本の棒は細くて弱くても、束になると簡単には折れない。個々の人間は弱くても、集団になれば強くなるということだ。しかし、逆に見ると、個々の自由は許さず、集団行動のみを求める考え方と言える。通常、人間は複数のアイデンティティーを持つが、イタリアのファシズムでは、イタリア人としてのアイデンティティーだけを要求している。

ファシズムの失敗は、国民から、他のアイデンティティーを取り去るころができなかったことにある。ナチスドイツの崩壊の時、大部分の人間が、別のアイデンティティーを用意していた。ナチス崩壊のとき、二十パーセントのナチス将校が自殺した。これは、八十パーセントが、別のアイデンティティーに乗り換えたということである。

二〇一五年、イスラム国の自爆テロに対して、フランスがシリアを空爆して、その結果、イスラム国で百三十人の犠牲者が出た。イスラム国は、その犠牲者を殉教者に列して、フランスへの復讐を宣告した。ちょっと待てよ、と私は言いたい。百三十人が天国に行ったならば、どうして復讐が必要なのだろうか。もしフランスが空爆しなければ、その人たちは天国に行けなかったのである。イスラム国の指導者は、互いに矛盾する二つのストーリーに基づいて行動していることになる。八百年前、第七次十字軍が中東に向かった。彼らは戦いに敗れ、一人の騎士が捕虜になる。その騎士の日記によると、彼は、死んだ後天国に行くとは、信じていなかった。信仰があるから十字軍に参加したわけであるが、いざというときに、すのストーリーに対する疑念が生じたのだ。

このように、人間は同時に複数のストーリーを信じ、実のところ、どのストーリーも完全には信じていない。宗教家もそれをよく知っていて、「疑うことは罪だ」と繰り返してきた。しかし、近代になって、「疑うことから全てが始まる」、「信じることはその考えの奴隷になること」という考えが主流になってきた。人生の意味について、全てを疑い始めたハムレットは、現代人のひな型だと言える。

近代では、多くのストーリーがスーパーマーケットの棚に並んでいるような状況である。人々は、それを手に取り、自分に合ったものを選ぶことができる。ある人々は、自分に合ったストーリーを求めて、永遠にスーパーの棚の間をさまよい歩くことになる。自由主義とは、スーパーの中に居れば、最後は自分に合ったストーリーを見つけることができるという考え方である。スーパーの棚の中には、偽物もあるだろう。しかし、その場合は自分が見つけた物を、自分なりにアレンジすればよいのである。

自由主義によると、他人の中に正解を見つけようとしてはいけない。自分を信じることが大切である。表面的によく見えるものが、正解とは限らない。どれも、分子の集まりなのである。美しい物も醜い物もない。人間の感情がそうさせているだけ、その感情を取り除けば、分子の塊が残るだけである。宇宙の中に意味があるのではない。人が宇宙に意味を与えるのである。自分のダルマを決定するのは自分である。自分自身が創造者であり、人生の意味を作るのは自分なのである。

ストーリーを選ぶ際、自由な考えが出来なければ、その選択の範囲も限定されてしまう。自由こそ大切と考えている者は二つの課題に突き当たる、ひとつは、自由を巡る戦い、自然界で定められた規則からどのようにして抜け出すかという問題。もう一つは、創造性、色々なものを作れる力である。自由を得ようとしても、生物学的、物理学的な制約からは抜け出すことはできない。また、自分で表現する、自分で展開する、その「自分」そのものも幻想なのではないかという疑念。私は同性愛者である。それを正そうとすることは、宗教的な、文化的な制約を自分に強制しているわけで、自由とは言えない。どうして、自分の性的な指向を恥じる必要があるのか。宗教的、文化的な考えにとらわれないのが自由なら、無神論者は一番自由なのだろうか。しかし、宗教的、文化的なものを意識して行動することは、それに囚われていることになり、自由でないのではないか?

人間は、自分の外部にあるものはコントロールできない。例えば天気はコントロールの埒外である。では、自分の内部にあるものはコントロールできるだろうか。例えば、血圧などはコントロールできない。では、脳はどうだろうか。欲求や反射はコントロールできない。そうなると、全てがコントロールできないことになり、どうでもよくなってくる。そもそも、自分の思考や行動も、生化学的な反応、分子の揺れにすぎない。そうなると、自分自身も、一つのストーリーに過ぎないのではないか、そんな話になってくる。我々の中に、自分についてのストーリーを語っている者がいるのだ。それは、FacebookInstagramのようなものである。Facebookでストーリーを作って行くと、その際、悪いものは取り除かれ、どんどん美化されていく。ファンタジーの世界の中で、どんどんビジュアル化していく。我々が思っている「自分」も、程度の差こそあれ、このようなものかも知れない。もし、自分自身のストーリーを作りたいなら、Facebookの中の自分のようになってはいけない。そのまままの自分の、心や体の流れに身を任すべきである。自分をよく見せるストーリーを作ってはいけない。

自由主義では、宇宙のドラマを否定し、人間がドラマを作れると考えられた。そして、そのドラマを作ることが人生の意味であると。宇宙自体に意味はない。その意味は人間が付加するものであると。

仏教では、メディテーション、瞑想こそ、自分を見つける唯一の方法だと説いている。身体は単に物質的な一部品であり、それ自体に意味はない。瞑想により、自分が見つけたものにこそ意味があるという。また、仏教では、全ての物は変化して、永遠の真理などは存在しない。ありもしない永遠の真理を探し求め、それを見つけられないところから苦しみは始まる。また、それを見つけられないと、それを阻む者を憎むようになる。釈迦は、この世には意味がない、それを知ることが大切であると説いた。何もするな、ストーリーやアイデンティティーを作ろうとするなということである。しかし、それは簡単なことではない。座禅を組んでいても、次のストーリーを考えていたり、「ストーリーを作らない」ことが、実は次のストーリーになったり。仏教の説く、自分を全ての物から解放すること、それは極めて難しい。そして、仏教徒が政治に加担したり、他社を抑圧したりする場面も見うけられる。

仮に、全てのストーリーが虚構であったとしても、現実は常に存在している。では、人間はその現実の中で何をすればよいのだろうか。釈迦の言うように、「人生の意味とは何か」ではなく「どうしたら苦しみから解放されるか」を考えればよいのだろうか。あるいは、「真実を知ること」が「苦しみから解放される」方法なのだろうか。現実と虚構を見分けることは難しい。しかし、その手掛かりとなるのは「苦しみ」かも知れない。それは、「苦しみ」が一番現実的な感情であるから。

「ストーリーは真実であるか」を考える際に、「そのストーリーの主人公は苦しむか」ということを考えてみたらどうだろうか。ポーランドの作家、アダム・ミキエヴィッチは、ポーランドを「国家の中のキリスト」と呼んでいる。ポーランドは、周囲の国の罪を背負って苦しんできたと主張する。もちろん、国家は肉体や感情を持たないが、彼はそれにより、ポーランドの人々を奮い立たせ、周囲の国の協力を得ようとしたのだ。一見真実のように見えるが、国家はあくまで人々の頭の中にある虚像にすぎない。

では、ロシアのポーランド侵攻の際 強姦された女性のストーリーはどうだろうか。女性の苦しみは百パーセント本物、真実と言える。

私なりに、ストーリーが真実であるか判断する基準は次のようなものだ。

@           政治家の語るストーリーには気をつける。苦悩の振りをした虚構である可能性が高い。

A           「解放」、「犠牲」。「純潔」、「永遠」などの言葉はまず疑ってかかれ。

B           ストーリーを実際の場面に当てはめてみる。

一言で言うならば、人生の意味について知りたいなら、まず苦悩を知ること。そして、既成のストーリーの中に、その答えはないということである。

 

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