17章:ポスト真実(Post-Truth)−いつまでも消えないフェイクニュースもある

 

 現在、ポスト真実の時代に入ったと言われている。(筆者注:「事実」よりも「感情」や「個人の信念」が世論の形成において重要な役割を果たす状態や時代)我々は、真実ではなく、虚構の中に生きている。二〇一四年、クリミアが制服を着ていない軍隊により占領されたが、プーチンはそれがロシア兵であることを否定した。皆がそれを嘘だと知っていたのだが。ロシアの国粋主義者は、「たとえ嘘であっても、正義のためのより高い真実だ」と正当化した。正義のために人を殺すことがオーケーなら、正義のための嘘もオーケーということになる。大ロシア復活を測るロシアのナショナリズムが、ロシア人にとって正義なら、ウクライナ侵攻もまた正義であるということになる。彼らは、ウクライナはロシアであり、それを統合することは必然であるという。しかし、ウクライナが歴史上ロシアと一緒の国であったことは、わずか三百年間しかない。もし「フェイクの国」が存在するとしても、ウクライナはそれに当たらない。ロシアの作った「ルガンスク共和国」、「ドネツク共和国」こそが、そのフェイクの国であると言える。軍事行動だけではなく、歴史や国家の中にも「フェイク」は登場する。

 今が「フェイクの時代」なら、かつて「真実の時代」というものは存在したのであろうか。プロバガンダや誤情報による民意操作は今に始まったことではない。一九三一年、日本による満州国設立、中国によるチベット占領、英国人のアボリジン虐殺、パレスチナ人を無視したイスラエル建国等、枚挙に暇がない。人類は、常にポスト真実の時代を生きてきたと言ってもいい。神話を作り、それを信じている人々を協力させるホモサピエンスの歴史こそ、フェイクニュースを代表例である。初期のキリスト教徒、イスラム教徒は、正にその典型であった。天使や悪魔の話も、一種のフェイクニュースでありながら、当時、聖書やコーランの正しさについて、誰も疑問を挟もうとしなかった。宗教こそ、これまで一番多くのフェイクニュースを広めてきたものである。しかし、多くの人が信じれば、そのフェイクニュースが真実になったのだ。

 私は宗教を否定する者ではない。宗教はこれまで、人類の協調、共同作業のために、大きな役割を担ってきた。しかし、私は、基本的に「聖書」も「ハリーポッター」も同じであると考える。人々の心に温かさを与える本であることには変わりがない。聖書の一句一句は神の言葉であり、全て正しいと考える人がいる。そんな人には、「どうしてコーランが存在するのか」と問うてみたい。その人がコーランに対して言うことは、全て自らに当てはまるであろう。宗教が真理でないことの証拠として、時々変わることがある。天皇はかつて国家神道の中で「神」であったが、第二次世界大戦後、裕仁は「自分は『神』ではなかった」と宣言した。

 一二五五年、英国のリンカーンで、キリスト教徒の少年の死体が井戸の中で見つかった。彼は、ユダヤ人の儀式の「いけにえ」として殺されたという噂が広がる。その結果、十九人のユダヤ人が処刑され、一二九〇年には、全てのユダヤ人が英国から追放された。反ユダヤ主義はヨーロッパにも広まり、ユダヤ人はヨーロッパ中で迫害された。殺された少年は、聖人に列せられた。しかし、その後、その事件がユダヤ人の犯行でないことが分かる、決定的な証拠が発見された。リンカーン大聖堂は、一九五五年に、謝罪文を掲載する。それは、実に事件から七百年も後のことだった。フェイクニュースは七百年もの間「真実」として信じられていたのである。

 「フィクション」、「フェイクニュース」を作って、人々を意のままに動かそうとしたのは、宗教だけではない。近代になっても、共産主義、ファシズム、自由主義さえもそれをやっている。ナチスの宣伝相であるゲッペルスは、「大きな嘘でも繰り返せば、最後には人々は信じる」と言っている。ヒトラーはまさに、この手法を駆使した。

 文字で書かれたニュースだけでなく、写真や映像にも「フェイクニュース」は存在する。例えば、スターリンは少女を抱き上げている写真を撮らせ、それを新聞に掲載させ、その写真は、ソ連中の学校に掲げられた。しかし、その少女の父親が国家反逆罪で逮捕されるや否や、それらの写真は、一斉に他の少女を抱いたものに替えられてしまった。スターリンは、国内での大虐殺を隠し続けた。また、一九三〇年代、ウクライナで大量の餓死者が出たことも。現代では、SNSがあるので、これらを完全に隠し通すことは不可能になってきているが、当時はそれが可能であった。

 宗教やイデオロギーだけでなく、民間企業も「フェイクニュース」を作り、それを通じて企業のイメージを、消費者に定着しようとしている。例えば、コカ・コーラは、宣伝の中に、スポーツをする若者のイメージを繰り返した。その裏で、砂糖の摂りすぎより、大量の糖尿病患者が出ていたにも関わらず。

 そのように考えていくと、「真実がどうか」ということは、人類にとって、それほど大切なことではないかも知れない。「嘘も多くの人が信じれば真実なる」ということは、「真実」と「嘘」は微妙な均衡の上に成り立っていると言ってもよい。これまで、短時間で多くの人が動員されて、一つの方向に動いたことがあった。もし、「神話」、「フェイクニュース」がなければ、多数の人間を組織化できなかったであろう。と言うことは、これまでの、戦争、反乱等は、「神話」がなければ、起きていなかったであろう。

 人々を団結させるためには、民衆に「嘘を真実だと思わせる」ことが大切だ。そのためには「当たり前」のことを言ってもダメである。「当たり前でない」ことでも、信じさせてしまえば勝ちということになる。

 人間の社会は、「神話」だけでなく「企業」や「金」などによっても構築されていることも確かである。しかし、「企業」や「金」も実態のない「神話」に過ぎない。金は「習慣」に過ぎない。人々には、紙幣を見て、それが単なる紙であることを忘れ、価値をあると考える習慣がついたに過ぎない。また、ある人が信じると、その習慣が他の人にも移っていったに過ぎない。「皆が信じるから自分も信じる」、「金」と「宗教の聖典」は根本的に同じ物なのである。

 では「真実」と「虚構」の区別はあるのだろうか。「面白いかどうか」、「持続するかどうか」が、挙げられると思う。人々は小説を読む。読み始める前には、人々はそれを「虚構」だと思っている。しかし、読み進むうちに、それはその人にとって「真実」になってしまう。あるいは、サッカーの試合を見る。それは人間が作ったゲームである。しかし、九十分間、人々はそれを忘れて見ることに没頭する。「面白い」、「持続する」この二つの要素があれば、人々は「虚構」を「真実」と考えてしまう。

 人々を真実から遠ざけているもの、それは「知ったけれど考えない、考えたくない」という人々の態度であろう。「金は虚構である」、「国家はまやかしである」、よく考えれば分かること。しかし、人々にはそれを考える時間も、エネルギーもない。

 「真実」と「虚構」は密接に関連すると話した。しかし、どれはどこかで区別されることになる。それはどこなのだろうか。一般的に「権力」を欲しがる人間ほど、「虚構」を広めていく必要がある。「真実」が明らかになると、自分の権力が危うくなるからである。従って「政府の公式見解」には嘘が多い。権力者は、「人々をまとめていくために嘘を言う」か「対価を払っても真実を伝えるか」というジレンマの上で、常に生きている。そして、本当に強い権力者は、「真実」を超越したものを提供している。歴史上、人類は真実よりも権力を愛してきたと言える。その権力のために、大量の時間と能力が使われた。それを今更変えるのは不可能なのだろう。

 「フェイクニュース」はこれまで日常的に使われており、今更目くじらを立てるほどのことはないのかも知れない。実際、これまで、「フェイクニュース」に対して何もされてこなかったことが多い。ジャーナリズムもプロバガンダも基本的に区別はない。また、人々はフェイクニュースの方に、心を動かされたこともあった。

 しかし、だからこそ「フェイクニュース」の中から「真実」を見つけたいという気持ちにもなる。どのようにして、それが可能になるのだろうか。大きな嘘は、単純である。世界の複雑さを超越した単純さは、嘘である可能性が高い。特に、政治家は話を単純化して、その裏にある複雑な真実を隠そうとする。「単純な話には気をつけろ」これが第一。また、新聞の報道も常に真実とは限らない。どの新聞が他の新聞より信用に値するか、それを見つけることに時間を割くことは大切である。また、情報源にある程度の金を払うことも大切である。只の情報には、必ず相手を陥れる裏があると考えるべきである。また、分からないことは、自分で本を読んで調べること、特に学術的な本に当たることが大切であろう。学術論文はそれなりに検討され、揉まれている。また、サイエンスフィクションも、科学的な情報を与えてくれる。SFも真実を知るには重要なジャンルとなるであろう。

 

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