16章:正義――私たちの正義感は時代後れかもしれない

 

正義感も、他の感情と同じように、何百万年もの間に培われ、遺伝子に刷り込まれたものだと思われる。狩猟採集生活時代、狩りに出て、自分だけが獲物を得た場合、その獲物を、何も獲れなかった他の人間に分けていた。それが正義感である。現代人が直面している問題は、人類が昔から持っていた問題と基本的に同じで、規模が大きくなっただけなのだろうか。

規模よりも、複雑さと言えるかもしれない。昔は、個人としての正義感だけで十分だったが、人間の社会が大きくなるにつれて、集団としての正義感が必要となってきた。同時に価値観が多様化した。それぞれ異なった価値観の存在する複雑な社会に、一つの正義感を当てはめようとすると軋轢が生じる。本来、正義感とは、行為とその結果の理解である。例えば、キノコを採って家に帰る途中の人間のキノコを奪えば、その子供たちは腹を空かせる。だからその行為は不正義である。しかし、現代の複雑な社会では、簡単に行為と結果が結び付けられなくなっている。家に居て何もしないことが貧しい人間を痛めつけることになると、左翼の人間は主張する。肉を食うことが動物の虐待になると、動物保護団体の人間は非難する。「私に罪があるの?」と考えても、社会が複雑すぎて、その答えが見つからない。

我々は、自分の食べる昼食がどこから来たのかさえ分からない。狩猟採集時代は、自分の食べる者が、何時、どこで採れたものか全て分かった。また、自分の払った税金が、どのように使われているのかも分からない。これが現代のシステムである。そして、そのことを知ろうとする人は苦しみ、知ろうとしない人は苦しむ必要がない。結果を追い求めようが、それをすまいが、自分たちの生活に変わりはない。社会は、自分たちが何をしているのか掴めないほど、複雑になった。

「盗むな」と教えは、実際の物を盗むしかない時代には効果があった。しかし、今は間接的にそれが可能になった。投資した会社が、環境に損害を与えている場合、例えば川を汚染している場合、「川を盗んだ」と非難されるべきなのか。自分は具体的に何もしていないのに。進んで会社に投資をした場合は、ある程度責任があるかも知れない。では、自分の年金のファンドのポートフォリオにその会社が入ってきた場合はどうなるのか。基本的に、現在では、間接的に他人に害を与えていても、本人にその意思がなければ罪にならないと考えられている。しかし、それにより、「無知」や「無関心」が原因で、犯罪を産んでいることも確かである。

奴隷貿易の会社に、投資者が現場を知ることなしに投資した場合、明らかにその行為は犯罪を産んでいる。また、ドイツでは名誉職として考えられていた郵便局長が、ナチスのプロバガンダに協力させられた。それらを「知らなかった」で済ませることができるのか。「知ろうと努力することを怠った罪」はないのだろうか。しかし、「知ろうとして」、本当に知ることができるのだろうか。現在の社会構造は余りに複雑すぎて、「原因」と「結果」を結び付けることが困難になっている。現在の不正義、不公平は、社会構造的な原因によるものが多い。それを知ることができるように、考えられてはいない。結局は、「皆が加害者である」ということになってしまう。また、一つのグループに加担すれば、別のグループに対して、不正義、不公平な扱いをしていると言える。通常、虐げられた者は社会から無視されるために、誰かがその不正義、不公正を気付くことさえ難しいのである。

「知ろうとした」場合、本当に知ることができるのだろうか。タスマニアの原住民はヨーロッパ人にほぼ全滅させられた。わずかに生き残った人も、ヨーロッパ人の「研究者」により、その生存を脅かされている。しかし、この事実を知る人は、ヨーロッパ人でもほとんどいない。アフリカ出身の女性は、米国に来て、理由もなく警察に止められ、調べられた。彼女は、生まれた場所と、生まれた状態は変えられず、それに甘んじて生きていくことを学んだ。タスマニア人にしろ、黒人の女性にしろ、差別されたグループに属しているが、グループについての理解というより、それぞれ自分の苦労だけを知っている。つまり、当時者にとっても、「真実」を知ることは難しい。また、かつては、地球の裏側で起こった出来事など、知る由もなかった。

真実を知りたいと思っても、それは出来ない。人類の数が多すぎ、多くに地域にまたがっているからである。それを知ろうとして、人々は四つの方法を試みる。

@    問題を身近な問題に置き換える。

A    心を打たれる個人的に話に集中する。慈善団体はこれを利用し、子供の写真や名前を挙げて、寄付を募る。

B    陰謀説を信じる。誰かが裏で糸を引いていると考える。

C    誰か他の人の言うことを全面的に信じる。信仰を持つ。科学的に分析しようとしてもキリがないので、丸ごと信じてしまう。

真実を知るために、何をしたらいいのか。誰を信じたらいいのか。結局辿り着くのは「集団思考」である。真実はないかも知れない。グローバルな社会というものは存在せず、グローバルな問題のみが存在するのかも知れない。フェイスブック、宗教などに参加しても、内部の興味のみに終始し、社会全体の真理は分からない。真理、正義を見つけることは、不可能なのだろうか。

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