第14章:世俗主義――自らの陰の面を認めよ
「世俗主義」とは何か。ここでは、「宗教的な活動をしない人」と定義する。それには肯定的な意味もある。「人間の英知や道徳心は、神によって与えられたものでなく、人間自身が過去から受け継いできた遺産である」と考えている人ということもできる。宗教心の強い人は「AかBかどちらかが正しい」と考えがちになる。世俗主義の人は、そうは考えない。より多くのアイデンティティー」を持つことが可能になる。
「世俗主義」でも、道徳心、モラルは守られる。道徳心は近代社会の根幹をなすものである。正義、平等、自由、勇気、同情などは、無宗教の社会でも存在する。また、宗教のある場所でも、道徳心の崩壊はある。例えば、フランスでは、中世ではキリスト教圏であったが農奴のような非道徳的な制度が存在し、現在無宗教の人が増えても、道徳心は存在している。
「世俗主義」の理想とは何か。それは、宗教に頼らず、真実を「観察」によって見つけようとすることである。自分が教わった歴史は真実なのか、それが真実である証拠はあるのか、それらがまず疑われる。観察を通じて真実を見つけようとする姿勢は、近代科学の手法と同じである。もう一つ、世俗主義の長所は、弱者への道場と、温かい心である。世俗主義者は、それらを神から命じられたからではなく、心の奥底にある同情心からそれを行う。宗教の中には、神が殺すことを命じるというパターンがある。しかし、殺される者の苦しみをまず考える世俗主義者は、その命令に疑問を持つ。また、「正義を貫くために戦争をする」、「弱者を助けるために強者をいじめる」というパターンであっても、世俗主義者は、いろいろな場合を考え、損害が最小になるような行動を取るだろう。
宗教には、幾つかの性に関するタブーがある。幾つかの宗教は、同性愛を禁じている。では、世俗主義者は、その性的な行動規則について、どのように考えるだろうか。強姦は他人を傷つける行為なので、許されるべきではない。では同性愛はどうであろうか。これは、誰も傷つけないので、禁止する必要はないと考えるだろう。他の動物との性交は、近親相姦は、世俗主義者は、それらを科学的な根拠を基に、一つ一つ判断しようとする。
世俗主義者は、他人の苦しみを出来るだけ和らげようとする。その心は平等の考えをもたらす。同情は全ての人に与えられるべきという考え方は、階級を非合理なものとして否定する方向に向かうであろう。また、真実は、自由に観察することにより発見されるということから、自由を大切にするという気風も生まれるであろう。また、世俗主義者は「自分が知らないと認める」ことを怖れない。実際、無知を認め、それを公表することに勇気が必要なのだが。長い間、人々は知ったかぶりをして生きてきた。近代は、これらの「無知を自覚する人々」よって、切り開かれてきたのである。更に、世俗主義者は責任を重んじる。守ってくれる神がいないので、全てが自己責任になるからである。困ったことに直面しても、神ではなく、科学技術の発達が自分たちを助けてくれると信じている。世俗主義者は、宗教を信じる人々とも協力する覚悟ができている。
私は宗教を否定するものではない。宗教を信じている人にも、科学的な業績をなした人は沢山いる。ただ、宗教を信じる人たちは、世俗主義者や、他の宗教を信じる人々と、協調していかねばならないと考える。宗教とその価値観を、他人に強制することに反対をしているのだ。
世俗主義者に、道徳心や責任感が欠けていると非難するのは正しくない。むしろ、それが強すぎるくらいだ。世俗主義の教育は、責任や同情を教えることで、かえって子供たちのためになるかも知れない。現在、戦争や経済危機に直面した時、素早い判断が必要になってくる。そんな時、世俗主義が大きな力を持つ。カール・マルクスは、宗教を支配のための道具として否定した。ということは、共産主義者は世俗主義者ということになる。スターリンは、「革命のための犠牲」ということで、何百万もの人々を殺害した。では、スターリンは、世俗主義者なのだろうか。その答えは、世俗主義の定義による。世俗主義を、「あらゆるドグマ(教義)を信じない人」と定義すると、スターリンはそれに当てはまらなくなる。なぜなら、彼は「スターリン主義」というドグマの信奉者だったからである。
そう考えると、資本主義、自由主義なども、ドグマと言えるかも知れない。自由市場、経済発展を信仰する人たちは、何か悪いことがあって、「成長のための痛み」と片付ける。また、民主主義、自由主義も同じである。彼らは、自分のドグマが、どの国でも通用すると信じている。しかし自由市場、民主主義が成立しない国もある。ほとんどの場合、そのような失敗は、看過されることが多い。
全てのドグマが悪であるとは限らない。役に立つドグマもある。例えば、「人権」というドグマ、人々には生まれながらの権利があるという考え方は、政府が人民に対して過酷な扱いをすることを防いでいる。国連憲章の中の、表現の自由、言論の自由も同じである。これらのドグマは、二十一世紀になり、AIとバイオテクノロジーの時代になると、益々大切になってくる。「人間であること」の定義が変わろうとしているからだ。人間を守るために、権力と戦うために「人権というドグマ」が使われていくだろう。
世俗主義も万能ではない。世俗主義は、人々をそれまでの束縛から解放したが、スターリン主義や帝国主義を抑えることはできなかった。また、病気を撲滅したり、地球温暖化を止めたりすることもできない。むしろ、それらは世俗主義がもたらした弊害であると考える人もいる。キリスト教は、これまで人々を殺し、女性や異民族を迫害してきた。キリスト教の信奉者は、それらを本来のキリスト教の教義が「誤解」された結果であると主張するかも知れない。しかし、それらが「誤解」であったとしても、キリスト教を無害であると判定するには早すぎる。殺戮や迫害は何度も繰り返されたが、少なくとも、キリスト教徒はそれに対して何もしなかったからである。「誤解」あるなら、その誤りを指摘する人間がいてもいいのではないか。
どの宗教にも「影」の部分がある。その部分に気付くことができるのは、世俗主義者だけなのだ。ドグマに冒されていない、自分の不完全さを自覚している世俗主義者でけが知りえることがある。我々は今最大の危機に見舞われている。これまで何が悪かったのか、これから何をすべきなのか、その答えを知るのは、世俗主義者のみである。