13章:神――神の名をみだりに唱えてはならない

 

「神はいるのか?」

その答えは、あなたがどのような神を考えるかによる。

「宇宙の神秘、宇宙の法則を定める者」としての神がいるのかいないのか。誰も分からない。人々は宇宙の存在に畏敬の念を抱き、その最も深い謎を解き明かそうとするとき、神を持ち出す。「何故宇宙が存在するのか」。「物理法則は誰が定めたのか」それは誰にも分からない。その無知を、人々は神に委ねている。

「神」の持つ意味は、人によって大きく違う。ある人たちにとって、神は「この世の規則を定める者」である。服装、食事、セックス、政治の在り方も、神が定めると言う。しかし、何故、神は、ミニスカートや同性愛に対して激昂するのであろうか。また、アルコールに対する考えも、宗教によって、神によってまちまちであるのはなぜだろうか。そんな疑問が残る。

もう一つの「神」は、「人間が失敗したとき、説明がつかないことに遭遇したとき、その理由として持ち出す者」である。「ビッグバン」はどうして起こったのか、誰も分からない。

「それなら、『神』の所業にしてしまえ。」

という考えである。しかし、理由の分からないことが、全て神の意志で起こったというのにも無理がある。

 先ほど述べたが、何故、宇宙の創造者である神が、何故女性の服装に興味を持つのだろうか。どうして、「宇宙の創造者」と「この世の規則を定める者」という二つの概念が、結びついてしまうのだろうか。その多くは「聖なる本」に起因している。これらの「聖なる本」が、「宇宙の起源」と、「細かい規則」の両方を記述しているためなのだ。神が自然界と、その規則を同時に作ったことになっているからだ。しかし、多くの人は同時に、その「聖なる本」が人間によって、「社会に秩序を与えるため」に書かれたことを知っている。 

 旧約聖書の「十戒」の中に「神の名をみだりに唱えてはいけない」とある。「取るに足らない些細なことで神の名を出してはならない」とも解釈できるが、同時に「神の名を使って、権利や私欲を肥やしてはならない」と取ることもできる。現実には、「神」の名の下に、多くの戦争や虐殺が行われている。本当に十戒を守れば、その多くは防げるはずである。「神」という言葉に対する解釈が多すぎるので、私は別の名前を使いたいくらいである。

 道徳心、モラルは神と関係があるのだろうか。基本的に、宇宙の法則は、社会の秩序維持には役に立たない。もし、「神が存在しなければ、道徳心がなくなり、社会にはカオスが訪れる」と考える人がいる。その場合、神を信じることは、少なくとも社会の秩序維持に役立つという、ポジティブな面があることになる。一九六四年、一人の米国の聖職者が、社会の「性秩序の乱れ」に気付いた。彼の偉いところは、教会関係者と同性愛者の交流を始めて試みたことである。その結果、同性愛者がキリスト教会の中でも受容され、市民権を持つようになった。つまり、キリストの教える「隣人愛」が、聖書の教える「同性愛の禁止」に勝った瞬間であった。

 宗教は、人間が道徳心を持つことの前提だろうか。私は、道徳心は、遺伝子に刷り込まれたもの、生まれつきのものであると考える。人間以外の動物には道徳心は存在するし、どんな宗教を信じていても、いや、宗教を全く信じていない人にも、道徳心はあるからである。道徳心とは「他人を憐れむ気持ち」、「他人の苦しみを少なくしようという気持ち」と言えるであろう。人間は基本的に、周囲の人たちを苦しませない方向で行動する。しかし、人間には同時に、「自分の欲求を満たしたい」という気持ちもある。犯罪とは、「自分の欲求が、他人を憐れむ気持ちより大きくなった状態」と言うことができるだろう。

 では、どうして他人に悲しくなってほしくないのか、それは、人間が社会的な動物であり、自分の幸福が、他人との関係に依存するからであろう。人間の幸せは、社会の中にあるのだ。その証拠に、孤独な人は、自分を不幸だと思いがちだ。しかし、自分と全然関係ない人にも、憐みの感情を持つのはどうしてか。これまで、多くの哲学者がこの命題に取り組んできた。どの地域でも、どの宗教でも、「自分に対してしてほしくないことは、他人に対してするな」と教えている。人間は、他人を傷つければ自分が傷つくことを知っているのだ。怒りの感情は自分を苦しめることを知っているのだ。人々は、怒りの感情から解放されたとき、安心感を覚える。人間にはそんな本能が備わっているのだ。

 宗教、神の存在は、人々の怒りの感情を抑え、人々を協調させるのに役立っている。しかし、自分の信じる神が侮辱されたと感じ、それにより怒りの感情が増長されることもある。私は、怒りや争いをもたらす神を信じることには意味がないと思う。そして、神を信仰しないこと、世俗主義もひとつの選択であると考える。

 

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