第12章:謙虚さ――あなたは世界の中心ではない
殆どの人が、自分は世界の中心にいると思っていた。ギリシア人は、文明はギリシアで始まったと考え、中国人は文明が中国の古代王朝で始まったと考えた。そして、他の文明は亜流であると見なされた。ヒンドゥー教の中には、飛行機や原子爆弾でさえ、インド人が考えたと言い張る人もいる。イスラム教徒は、コーランこそ絶対の物であると考えている。アメリカ人、イギリス人、フランス人や日本人は、自分たちの優越性を信じ、周囲の国々を見下す態度を取っている。自分たちの体制こそ「自然」なものであると考えている人が多い。しかし、それらは全て誤りである。
人類が定住を始めてから、はるか後になって、国家や宗教は生まれた。しかし、その遥か前から、人類は道徳心、創造性を持っていた。つまり、それらは、生まれながらにして備わったもの、あるいは遺伝子の中に組み込まれていたものと考えてよい。それを、はるかに後に出来たものと結び付けるのは、誤りであると言える。
ユダヤ人は、自分たちが最も優れた民族であると信じている。インドで始まったヨガでさえも、ユダヤ人は、ヨガがアブラハムにより考案され、それがインドに伝えられたと主張し、その証拠とし聖書の一部を挙げている。ユダヤ人は、聖書は「真実」であると信じ、世界はユダヤ人が「真理」を学ぶために存在すると考えている。ユダヤ人は、信仰こそ、人間のモラル、道徳心の根源であると考えている。このような考えが間違いであることを、ユダヤ人を例に取って、説明していきたい。
私が前に書いた「サピエンス全史」で、キリスト教、仏教、イスラム教についてはかなりのページを割いているが、ユダヤ教のことは殆ど触れていない。私のユダヤ人の友人から、どうしてなのかと、何度も質問された。彼ら、ユダヤ人は、ユダヤ教こそ、宗教の「スーパースター」であると思っている。そう信じざるをえなくなるような教育を受けてきたからである。ユダヤ教における歴史教育は、随分偏っている。多くは、聖書に基づく話を教え、その他の項目は、「シオニズム」や「ホロコースト」のように、ユダヤ人と関係のあるところのみが教えられる。その結果、ユダヤ人は、自分たちこそ世界の中心だと信じるようになる。しかしながら、ユダヤ人は歴史の中で、僅かな役割しか演じていない。しかし、ユダヤ中心の歴史教育を受けた人々に、自分たちがマイノリティーであることを、理解させるのは難しい。
ユダヤ教の世界観は極めて狭いものであった。しかし、ユダヤ教が、キリスト教やイスラム教の土台になっていることは、紛れもない事実である。しかしながら、これまで多くのことを成し遂げてきたのは、ユダヤ教徒ではなく、キリスト教徒やイスラム教徒である。ジークムント・フロイトは大きな功績を残した。しかし、彼の母親については、全くと言っていいほど語られていない。母親がいなかったら、フロイトは生まれて来なかったのに。キリスト教、イスラム教にとってユダヤ教は、フロイトの母のような存在だと言えるであろう。
ユダヤ人には長い苦難の歴史がある。しかし、その「長い歴史」も、地球の歴史に比べると微々たる長さである。また、中国人やアメリカ原住民など、ユダヤ教の影響を全く受けていない人たちもいる。ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」が広まったのも、キリスト教がそれを採用したからに過ぎない。キリスト教世界で、聖書は絵画や文学の題材となったが、大航海時代、帝国主義時代には、余り重要な役割を果たさなかった。また「民主主義」など、多くの非ユダヤ社会で発明されたものが、その後発達を遂げた。
キリスト教徒は地球上に約二十三億人いる。イスラム教徒は約十八億人。しかし、ユダヤ教徒は約千五百万人に過ぎない。ユダヤ人は、キリスト教やイスラム教は、ユダヤ教の「亜流」であると考えているので、世界の大多数の人が、「十戒」など、聖書の説く道徳心を引き継いでいると主張する。しかし、道徳心は、狩猟採取時代から存在したのである。モーゼやキリストを知らなくても、道徳心は存在していた。宗教が人々に道徳心を持ち込んだとは考え難い。道徳心は進化の過程で、人間に刷り込まれていたと考える人は多い。
集団で暮らす他の動物にも道徳心は存在することが分かっている。チンパンジーでは、弱い個体を集団が助けている様子が観察されている。彼らには「弱い物を助ける」という本能があるのだ。聖書が書かれるずっと前から、それは存在していた。また、十戒が定める「殺すな」」、「盗むな」という規定も、他の多くの宗教が採用している。また、「休日」の考えも、他の宗教、国家に存在していた。エジプトにもメソポタミアにも、十戒と同じような規定があり、休日は存在していた。むしろ、聖書が、メソポタミアやエジプトの規定を参考にしていると考える人もいる。ユダヤ人は、そららの「一般的」な規定を、自分たちだけに適用できるものに改めただけなのだ。
そういう意味では、ユダヤ教の規定は、自分たちだけに通用するものである。「隣人を愛せ」と言うが、この「隣人」とは、同じユダヤ教徒だけを意味するのだ。その証拠に、聖書はユダヤ人に対して、非ユダヤ人を殺すことを許している。大虐殺を、宗教が認知、奨励しているである。このように、ユダヤ人が、聖書こそ道徳心の根源だと言うことには大きな疑問が残る。
さて、ユダヤ教の「いいとこ取り」をして発達させ、世界宗教になったのがキリスト教である。ユダヤ人は、自分たちを「選ばれた民族」と信じたが、キリストの弟子パウロは「イエス・キリストの前では平等でで、国家や民族は存在しない」と説いた。しかし、現代の道徳心は、キリスト教によって作られたものでもない。孔子、老子、釈迦等が、キリスト教の生まれる遥か前からモラルについて述べている。特に釈迦はキリストの何百年も前から、隣人愛について語っている。特定の宗教に、道徳心の根源を見つけようとするのは間違っている。
一神教はどこから生まれたのであろうか。一神教という概念を持ち込んだのは、ユダヤ教が最初だろうか。実は、エジプトの王も、一度一神教の導入を試みたことがあった。しかしそれは失敗に終わった。一神教は、人間により良いモラルをもたらさず、逆に人間に非寛容さをもたらした。その結果、迫害や戦争が発生したのである。
「俺たちの神以外の神は偽物である。」
という非寛容。「十字軍」、「ジハード」なども、自分の信じる神のみが正しいという考えがもたらした戦争や虐殺である。インドのアショカ王は、キリストの三千年前に、それまで多くの神が混在していたインドに、一神教を導入しようとした。しかし、それは混乱をもたらしただけであった。ローマ帝国も同じことを考えた。コンスタンディウス帝はキリスト教を国教と定め、それに従わない者を迫害した。その結果、それまで一世を風靡したギリシア文化の伝統が完全に断たれてしまった。全ての一神教が非寛容とは言えないが、一神教のもたらした悪い面も多いことは否定できない。
ユダヤ人は、十九世紀から二十世紀にかけて、科学の発展に大きく寄与した。アインシュタイン、フロイトなど、自然科学系のノーベル賞の授賞者の実に二十パーセントが、ユダヤ人である。しかし、これは個人としての貢献であり、ユダヤ人社会が貢献したものではない。十八世紀まで、ユダヤ人は科学の発展に、殆ど貢献しなかった。ユダヤ人たちは宗教のみを研究していた。しかし、十九世紀になり、「余り信心深くない」ユダヤ人が現れる。彼らは非ユダヤ人の生活様式を取り入れ始め、子供たちを普通の大学に通わせるようになる。しかし、大学を卒業しても、軍隊や政治の世界は、まだユダヤ人に対して門戸を閉ざしていた。研究することを大切にする文化を持っていたユダヤ人は、学問、研究の世界に進出を始める。これが、ユダヤ人が科学の世界で活躍を始めるさきがけとなった。しかし、アインシュタインの相対性理論は全くユダヤ的なものではない。彼がたまたまユダヤ人であっただけである。フロイトにしても同じである、彼の考察の方法は、ユダヤ教の教義と全く関係ない。
注目すべきは、科学の世界におけるユダヤ人の貢献は、主にドイツに住む「世俗的な」、「信仰心の薄い」ユダヤ人により達成されたものであるということ。本来、ユダヤ人は、観察によってではなく、古いテキストを読み込むことにより、真理を見つけようという伝統を持っていた。ユダヤ人は大学に行くことにより、先人の業績、方法論に触れ、それを学ぶことにより、これらの仕事を達成できたのである。私は何も、ユダヤ教の誤りを指摘しようというのではない。宗教は、歴史の中で、それほど重要な役割を果たしていないと言いたいだけである。
長い間、ユダヤ人は閉鎖的な民族であると考えられてきた。また、アンチセミティストはそのプロバガンダで
「ユダヤ人はメディアを支配し、気候変動の原因を作っている。」
などと叫んでいる。しかし、皮肉にも、この主張はユダヤ人の重要さを認めてしまっていることになる。ユダヤ人も、他の民族と同じように、限定的な影響力を持っているにすぎない。多くの宗教が何百万もの人々に影響を与えているが、それは、全体から見れば、限定的なものにすぎない。皆がそれを知り、謙虚さを持つべきであろう。特に、「神に対する謙虚さ」を。