第四の夜

 

 若者は四度目に哲学者を訪れる。若者は切り出す。

「課題を分けるということに、どうしても納得がいかないんです。線を引いて、ここまではあなた、ここからは私、そんな風に分ければ、問題は少なくなると思います、しかし、それが本当に正しい人生なのでしょうか。僕には、とんでもない『個人主義』のように思えるのですが。そんな考え方は、人間を孤立、孤独に導くのではないかと思えてきます。あなたはアドラーの心理学を、まさに『個人の心理学』と言いましたよね。」

「じゃあ、『個人の心理学』の本当の意味を説明しましょう。ギリシア語で『個人』を表す『インディヴィドゥム』の本来の意味は『これ以上分けられないもの、一番小さい単位』という意味なんです。アドラーの心理学では、心と体は一体で、分けることができません。つまり、ひとりの人間は、それ以上分けることができない『全体』なのです。」

「でも、我々人間は、身体と精神、感情と理性、意識と無意識を分けていますよね。」

「でも、きみが普段行動をするとき、それを意識していますか。分けていないでしょう。『今怖いという感情がある』、『だから、大声で叫ぼう』、そんな段階的な行動をしていないでしょう。『怖いから叫ぶ』、それは全体としての自分がやっていることではないですか?細かい単位に分けられない存在を、別の言葉で『ホリズム』と言います。」

「でも、『私は私、あなたはあなた』こんな考え方は、人間を孤立に結び付けませんか?皆互いに干渉しないで、別の道を行ったら。」

「覚えていますか?『全ての問題は人間関係の問題である』、『他人の課題に干渉してはいけない』の二点を。人間関係は、近すぎてもいけない、しかし、遠すぎてもいけないんです。人間関係は複雑です。それを解きほぐす必要があります。『課題の選別』これはそのための出発点で、他にもっと重要なこと、ゴールがあるんです。」

「で、そのゴールは?」

若者は、哲学者を見つめる。

「『共同体意識』です。自分はある共同体に帰属しているという考え、これは、アドラーの最も大切なコンセプトの一つです。二日目に、周囲の人を敵と見るか、味方と見るか、それについて話し合ったことを覚えていますか?もし、周囲の人が味方だったら、そこに、逃げ込める場所、避難所があるということになります。また、味方と何かを分かち合いたい、そんな感情も生まれるでしょう。そんな気持ちを『共同体意識』って言います。きみは『共同体』って聞いたら、何を連想しますか?」

「学校とか、職場とか・・・」

「アドラーの言う『共同体』とはもっと広いものです。学校や職場を越え、全てを含んだもの、それどころか過去、現在、未来も、無生物でさえ含んでいます。」

若者は余りの壮大さに驚く。

「そんなに広げていいんですか?」

「アドラーのいう『共同体』とは、全宇宙なのです。これこそ、アドラーの心理学を理解するうえで、とても大切なことです。」

「対人関係は、多くの不幸の源であると同時に、幸せの源でもあるのです。そして、『共同体意識』は、幸せを得るうえでの、大きなきっかけとなるのです。『共同体意識』は別の観点から見ると、『社会への興味』と言ってもいいと思います。ところで、一番小さい『社会』って何だと思いますか?」

若者は少し考えこむ。

「家族かな?」

「『きみと私』ですよ。人間が二人いれば、それで社会が成り立ちます。そして、大切なことは『自分への関心』を『社会への関心』に変えることなんです。『自分への関心』を『自己陶酔』、『自己中心的』と呼ぶこともできます。きみの目から見て、どんな人が『自己中心的』ですか?」

「独裁者のように振舞って、他人を支配しようとする人とか。他人のことを考えないで、グループの中のハーモニーを乱す人とか・・・」

「もう一つのタイプがあります。それは『他人と自分の課題を分けることができない人』、『他人からの承認を常に得たいと思っている人』、そんな人も『自己中心的』であると言えます。」

若者は不思議に思う。

「他人からの承認を欲しがる人間は、自分自身を見ないで、他人ばかり見ていませんか?僕のように、常に他人のことを考えて、他人と合わせようとしている人間が、どうして自己中心的なんですか?」

「そんな人は、実は、他人に興味があるようなふりをして、自分のことしか考えていないんです。他人が『自分をどう思っているか』、それのみを考えていませんか。それは正に『自己中心的』でしょう。だって、自分の評判についてしか、興味がないわけですから。きみを嫌いな人がいる、それを、自由に生きている証拠とポジティブに捕らえなくてはいけません。」

若者は少し不機嫌そうに言う。

「何か、心を逆なでするような意見ですね。」

「心配することはないですよ。誰にとってもそうですから。『自分への興味』を『他人を気遣うこと』に変えればいいんですから。」

若者は別の例を思いつく。

「でも、人生を映画だと考えれば、自分はその主人公ってわけです。その主人公にカメラを向けることが、どうして悪いことなんですか?ごく自然じゃないですか。」

「先ほど、『共同体意識』とは、『そこに逃げ込める場所、避難所があるという気持ち』って言いましたよね。その気持ちは、人間の根源的な欲求であると言えるでしょう。誰も『ここにいてよかった』と感じられる場所は欲しいですよね。自分を『主人公』と考えることはいいですよ。でも、同時に、自分は『世界の中心ではない』、『世界の一構成員に過ぎない』と考えなければなりません。自己中心的な人は、往々にして、自分を『世界の中心』だと思っていることが多いようです。そんな人にとって他人は、『自分のために何かをしてくれる人』にすぎません。そして、この人は自分に何をしてくれるか、それを基準に他人を見るようになります。」

「プリンスやプリンセスのように・・・」

「プリンスやプリンセスなら、実際、彼らのために何かをしてくれる人、部下や召使がいるからまだましです。普通の人にはそんな人たちはいません。当然期待していたことは起こらない。自分で傷つき、周囲は敵だと考え始め、その結果友人や仲間を失っていくんです。」

若者は一つの矛盾に気づく。

「でも、あなたは、世界は主観的なものだと言いましたよね。主観的なものなら、どこが中心になってもいい、だから自分が中心になってもおかしくないのではないですか?」

「『世界』の意味が違うんですよ。世界地図は、発行される国によって、中央にくる部分が違うんです。ヨーロッパの地図は大西洋が真ん中で、ヨーロッパが中央にある。中国の地図は太平洋が真ん中で、アジアが中央にある。地球は球体ですから、地球儀を見ると、基本的にどこでも中心になることができるわけです。我々は、地図ではなく、地球儀の観点で、世界を見なくてはいけないんです。」

「じゃあ、『自分が中心だと考えていない』それはどのようにしたら、自分で診断できるんですか?」

「共同体意識は、その共同体にどのくらい積極的に関与しているかで測ることができます。『人々が自分に何かをしてくれる』のではなく『自分が共同体のために何をすることができるのか』、それが指針になるでしょう。積極的な関与があるからこそ、そこが自分のための避難所となりえるわけです。」

若者は「共同体」の意味を徐々に理解し始める。

「なるほど。よい人間関係を築く出発点は、課題を分けること、他人を味方と考えること、共同体に対する帰属意識を持つことなんですね。そこまでは分かりました。しかし、どうしてその共同体の範囲を、現在・過去・未来、宇宙、無生物にまで広げる必要があるんですか?」

「例えば、定年退職を迎え、それまで帰属していた会社という共同体から切り離された人がいるとします。明日から、どうして生きて行こうか途方にくれる。そんな人にとって、最終的にはもっと大きな共同体に属していると考えることは希望につながりますよね。自分の身近な共同体の外側に、もっと大きな共同体があることを意識することは大切です。」

「でも、一人きりで、親の遺産だけに頼って生きている人がいたら、その人は、どんな共同体と関与していると言えるんですか?」

「その人だって、パンを買いに行くことがあるでしょう。そうしたら、パン屋、原材料を届ける運送業者、小麦粉を作る製粉業者、小麦を育てる農家・・・そんな人たちと関わっているんです。人間は、完全に共同体の外で生きていくことはできません。」

「パンを買うときにも、色々と空想を膨らませる・・・」

「これは空想ではない、現実なんです。誰もが大きな共同体と、見えない糸でつながっているんです。」

「話が余りにも抽象的になってきましたね。今おっしゃった『大きな共同体』、『見えない共同体』があるのは認めます。でも、会社や学校のように『見える共同体』、『身近な共同体』も当然あるわけです。先ず、そんな身近な共同体への、帰属意識を磨くべきではありませんか?」

「それでは、どうして『大きな共同体』を意識する必要があるのか、考えてみましょう。家族、学校、職場、国家、この辺りまでは、問題なく意識できますよね。じゃあ、一人の生徒が属している共同体が、学校だけだったとしたら、どうなるでしょう。彼は、学校で苛めに遭い、教師からの体罰に遭い、その学校が好きになれません。彼が、学校の外にある大きな共同体を意識していれば、色々な可能性が生まれてきます。彼が学校の中に避難所を見つけることができなければ、外の世界で見つければよいのですから。もっと大きな共同体を意識していれば、もっと多くの選択肢が見つかるでしょう。」

「でも、今の共同体を離れる、学校を出るという決断は、たやすいものではないですよね。」

「そこには大きな原則があります。『より大きな共同体の声を聞け』ということです。小さな共同体、学校から出てしまえば、苛める他の生徒も、体罰を加える教師も、何もできないわけですから。」

「でも、それさえ時には難しい。」

「それは『俺とお前』一対一の関係に囚われているからです。そんなものは関係でも何でもない、何時でも切り離せると思わなければいけません。」

若者は、まだ完全に哲学者について行けない。

「すみません、『課題分け』から『共同体意識』に至る過程が、まだ十分に説明されていないように感じるんですが。」

「そこに大切なことは『水平的な人間関係』、『横の人間関係』を確立することですね。」

「水平的な人間関係?」

「子供を仕付けるのに、叱責する、賞賛する、どちらがより有効だと思いますか?」

「もちろん、褒めることがいいに決まってます。」

「どうしてですか。例えば、動物に芸を仕込むとき、二つの方法がありますよね。上手く行ったら褒美を与える、間違えたら罰を与える。結果は同じかも知れません。でも、芸をする動物の『動機付け』が全く異なりますよね。」

「なるほど。アドラーの心理学では、叱責は言わずもがな、褒めることもしてはいけないのです。」

若者は驚く。

「そんな馬鹿な。人間、褒められるから、何かをするんじゃないんですか?」

「きみは、『よくやった。』と褒められたらどう感じますか。」

「正直嬉しいです。」

「その中に、何かネガティブな要素はありませんか?」

若者は少し考える。

「上から目線だなって・・・」

「正にその点です。賞賛は、できる人間が、できない人間に与えるものなのです。食器を洗った子どもに対して、『よくできたわね』という母親は、同じことをした夫に対して、そうは言わないでしょう。賞賛は、階層的、垂直な人間関係に基づいていて、どちらかが上、どちらかが下であることが、明確に表されているのです。更に進んで言うと、『褒める』ということは、他人を自分のやり方に導くように制御するということになります。」

「でも、子供の立場からすると、褒められるから、勉強をするんじゃないんです?誰もが褒められたいと思っているし・・・ 第一、褒められたら嬉しいでしょう。」

「それは、その人たちが、正に『垂直な人間関係』の中に生きているからです。アドラーは『水平な人間関係、水平な社会』を理想としています。これがアドラー心理学の神髄であるのです。『人は皆同じではない、しかし皆が同じだけの価値を持つ』と言うことなのです。夫が妻に対して、『不自由なく暮らしていけるのは俺が働いて稼いでいるせいだ。』と言ったら、どう思いますか。」

若者は即座に答える。

「耐えられない。」

「夫は外で働いている、妻は家で働いている、やっている内容は同じではない。しかし。同等の価値を持つのです。おそらく、夫は、妻が自立することを怖れているのかも知れません。そして、それは自らの劣等感から来るものかも知れない。夫婦が水平な人間関係を築き、相手に同等の価値を認めていれば、夫の言葉はあり得ません。」

哲学者は話を続ける。

「どうして、他人の課題に干渉したがる人がいるのでしょうか。そこには、垂直な人間関係があるからなんです。他人を自分のコントロール下にあると思いこみ、その人をマニピュレートできると思っているからです。典型的な例が、親が子どもに勉強させようとすることでしょう。」

「でも、勉強が出来ないで困っている子供がいれば、親として手を差し伸べるのは当然だと思うし、それは干渉と言えないのでは?」

「それは『支援』です。他人の課題に踏み込んで、意見を言うことが干渉です。それに対して、自発的にそうするように仕向けるのが支援です。子供が勉強するように、自発的に決断するように仕向けることです。その際は、叱りもしないし、褒めもしません。力づけること、助言することはしますが。」

哲学者は続ける。

「もし、課題が達成できなかったとき、能力がなかったのではなく、途中で勇気を失ったと考えるべきです。そして、失った勇気を、復活させることを考えるのです。」

「でも、そこで褒めちゃいけないんですよね。」

「褒めるというのは、それまでできないと思っていたことが、できたからです。相手の能力を認めていないことになります。できる者が、できない者を褒めるんです。」

「褒められて、自分の本来の力に気づくということはありませんか?」

「褒められて嬉しいということは、垂直の人間関係を認めていることになるんです。そして、それは他人の価値観を受け入れていることになるんです。きみは、両親に褒められて、両親の期待に沿った行き方をして楽しかったですか?」

若者は言葉に詰まる。哲学者は「支援」についての説明を始める。

「それでは、力づけること、激励することの、そのやり方に話を進めましょう。」

「叱りもせず、褒めもせず。じゃあ、どんなふうに言えばいいんですか?」

「もし、対等の立場の人に助けてもらったら、きみは何て言いますか?」

「『ありがとう』でしょうか。」

「その通り、『感謝の気持ちを伝える』、それができることが、水平な人間関係の証拠なんです。相手を判断しない。まず、感謝、尊敬、喜びの言葉に絞るべきです。」

「なるほど。でも『ありがとう』の一言が、失った勇気を取り戻すほど、そんな大きな効果を持つものなんでしょうか?」

「褒められるということは、他人に『良い』と判断されたことになります。そこには、他人の価値判断が入っている。しかし、『感謝』には価値判断が含まれていませんよね。」

「でも、自分に価値があると思えば、勇気が湧いてくるのではないでしょうか?」

「他人の価値であってはいけません。価値は、主観的なものです。自分で、自分は価値があると思わなければ何もなりません。自分に価値があると思うからこそ、自分の課題を成し遂げようとする勇気が湧いてくるんですよ。」

「じゃあ、自分に価値があると思うようになるには、どうすればいいんでしょう?」

「共同体に対して、何か役に立つことをすればいいのです。私は誰かのためになることができるという感情を持つこと、それが、自分に価値を感じる一番の方法です。これまで出てきた �@他人への興味、 �A水平な人間関係、�B人を激励するテクニック、これらは全て、他人の役に立っているという感情に基づいているんです。」

若者は混乱してくる。

「他人の役に立つことが自分の価値だとしたら、誰の役にも立たない人間は、何の価値もないということになりませんか?老人とか、赤ん坊とか?私の祖父は、認知症で寝たきりです。そんな人間は、価値がないということですね。」

「他人の『行動』を基に、『あの人は何をしたかって』、その人を観察しているところに問題があるんです。その人の『存在』を基に、観察する必要があります。つまり『あの人がいることによってどんないいことがあるか』ってことですよ。人間は、存在することだけで、価値があるんです。」

「存在することだけでの価値?」

「もしお母さんが交通事故で生死の境をさまよっているとしたら、どう思いますか。お母さんに退院してから、何かをしてほしいと思いますか。お母さんが生きているだけでいいと思うでしょう。と言うことは、お母さんが『存在していること』にきみは感謝しているのです。」

「それって、ずいぶん極端な例ではないでしょうか?」

「人間は自分勝手に『理想』を作って、それと現実を比べて失望するのです。例えば、両親は勝手に理想的な子供を想定し、それと自分の子供を比べて減点する。しかし、もし今ある現実と子供を比べれば、減点もなく、失望することもないでしょう。」

「学校にも行かないで、部屋に閉じこもっている子供に、どうしたら感謝できるのですか?」

「学校に行って勉強している子供は、あくまで両親の作った『理想』なのです。もし、その『理想』と比べなければ、現実を受け入れることができると思いますよ。」

そこには、まだ完全に納得できない若者がいた。

「確かにそうかも知れませんが、あなたの言っていることは、理想的ではあるが、どうも現実的でない気がします。」

「アドラーはこう言っています。『何かを始めなさい。他人がそれに協力的でなくても、それは他人の問題で、あなたと関係ありません。』って。」

「じゃあ、何を始めればいいんですか?僕は、自分にそれほどの価値があると、どうしても思えないんですけれど。」

「どうしてですか。」

「図書館で働いていて、主な仕事は、本を元の場所に戻すことです。でも、そんなこと、誰にもできます。おそらく機械でも。僕が今辞めても、誰も困らないでしょう。そんな僕に価値があるとは思えません。」

「自分の価値を見つけるためには、まず他人との間に水平関係を作らなければいけません。それが出来れば、十分です。」

「でも、両親、上司、同僚との間には、どうしても垂直関係がありますよね。水平関係を築くなんて、難しいですよ。会社は階層的だし、階層社会を無視したら、会社としての秩序が乱れませんか?」

「もちろん、年長者は尊敬しなければいけないし、会社内には、責任のレベルがあります。しかし、それでも、同じ価値を持つ人間として行動することはできると思います。」

「でも、それって、社会的な規範に反することもありますよね。『上司の考えに口を挟むな。』ってことになりませんか。ずっとそんな風に扱われると、結局は自分で責任を取れない人間になってしまいますよ。」

「でも、もし、上司の命令に従って、悪い結果になったら?」

「それは上司の責任、組織の責任です。でも、そこに、反対したり、逆提案をしたりする余地はあったはずです。しかし、垂直な人間関係に囚われて、それができなかった。」

「それは、理論的には可能ですが、現実的ではないでしょう。」

「前にも言ったように、きみと私は、今、かけがえのない友だちです。私たちは、水平な人間関係を持っていると言えます。」

「しかし、それをそのまま受け止めるのに、ちょっと抵抗があるんです。年の離れた人と友達になったことはないし、友達としての責任を果たしていけるかどうかも不安です。」

「友情と愛に、年齢は関係ありません。友達としての責任を負うことを、徐々に学んでいけばいいのです。」

「ちょっと、考えさせてください。あなたは本当におそろしい人だ。でも、まだあなたを言い負かすことを諦めてはいませんから。作戦を練って来ます。」

若者はそう言って、哲学者の家を出ていった。

 

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