最後の夜
約一か月後、若者は哲学者の家を訪れる。
「僕はこの一か月、共同体意識について考えてきました。確かに、『どこかに属している』という意識はいいものです。でも、その帰属先が、宇宙だとか言われると、何か、宗教かカルトのような気がして。」
「アドラーがこの理論を最初に唱えたとき、同じような反論が起きました。心理学は科学であるはず。そこに主観的な『価値』を持ち出すのは、科学じゃないというものです。」
「あなたは、より大きな共同体との関係について話しましたよね。でも、基本的に、僕たち人間は、自分のことしか考えていないのではないですか?」
「どうして、我々は、自分のことについて考えたいか分かりますか?」
「例えば、ナルシズムかな。自分に陶酔している。でも、僕は元から自分が嫌いなので、自分のことについては考えたくないです。」
「きみは、どうして、自分のことが嫌いなんですか?」
「自分に自信が持てないからです。会議なんかでも発言できない。こんなことを言ったら、きっと笑われるだろう、まず、そう思ってしまうんです。勇気を出せ、そう言われても、何の役にも立たない。自分に欠けているのは勇気じゃない、自分でも分かっているんです。」
「なるほど。じゃあ、今日は、『幸せとは何か』というところから話してみよう。先ず、きみに発言を思い留まらせる『自信のなさ』だけれど、きみが躊躇なく行動できるようになるためには、何が必要だと思いますか。」
「笑われないこと、馬鹿だと思われないこと・・・」
哲学者は、別の角度から質問をする。
「では、聞きますが、きみは一人で家にいるとき、歌ったり踊ったりしてませんか?」
「あれ、隠しカメラでもあるのかな。はい、一人でいるときは、そんなことをよくしてます。」
「一人でいる時は、自信を持って振舞えるということですね。」
「そう言うことです。」
「誰も、自分一人だと、王様のように振舞えます。しかし、他人がいるとそれができない。そこで必要となるのは、前にも出た『共同体意識』なんです。自分自身の興味を、他人対する興味に、切り替えることです。自己を認めるためには、他人を信頼すること、他人のために何かをすることが不可欠なんです。自分にとって大切なことは、どこで生まれたかではなく、何をしてきたかなんです。人間は、行動により変わっていくことができるんです。」
「ポジティブに振舞えということですか?」
「いいえ。無理にポジティブに振舞う必要はない。大切なのは『自己肯定』ではなく『自己認識』なんです。」
若者は一瞬理解できないという表情を浮かべる。
「もう少し詳しくお願いできませんか?」
「『自己肯定』とは、『自分はできる』と思うこと。プラス思考です。それは優越感につながります。『自己認識』とは、『できない自分も合わせて受け入れる』ということ。プラスもマイナスも合わせて受け入れるということです。その結果、どうしたらもっとよくなれるか、それも合わせて認識できます。」
「そんなことができるのでしょうか?」
「全部できなくても悲観する必要はありません。完璧な人間などいませんから。」
「でも、どうしても変えられない、ネガティブなものもありますよね。」
「もちろん、変えられることと、変えられないことがあります。それが何であるかを知るのも、『自己認識』なんです。変えられると思ったことを、変えていけばいいんです。」
「作家、カート・ヴォネグートの『神は変えられるものと変えられないものを判断する知恵を我々にくれた。』そんな言葉を思い出しました。」
「まさに、その通り。そして、変えていくのに必要なものは『能力』ではなく『勇気』なのです。変えられないことを諦めること、それは『肯定的な諦め』でネガティブなことではありません。その『肯定的な諦め』は現実を直視した後にやってきます。さて、次の段階は、他人への信頼です。『信じること』と『信頼すること』は違うんです。銀行が客に金を貸すのは、信用度や実績に基づくもので、その人を信頼しているからではありません。そこには、色々な条件に基づいている。信頼は、唯一、人間関係に基づいています。そこには、何の条件もありません。」
「それは隣人愛なんですか?裏切られても続くものなのですか?世の中には、他人からの信頼を悪用する人ともいっぱいいるでしょう。」
「もし、きみが誰かを利用したり、騙したりして、その人がまだきみを信頼していたら、それでも利用したり、騙したりすることを続けますか?」
「逆に聞きますが、あなたは、人間の感情に訴えようとしているのですか?」
「信頼の反対は疑うことです。もし、対人関係を『疑うこと』の上に築いたらどうなりますか。相手の人には、きみがその人を疑っていることは、すぐに分かりますよね。そうしたら、きみと人間関係を結ぼうとは思わないでしょう。つまり、限りのない信頼こそが、人間関係の基礎なのです。アドラーは『もし、誰かを無条件に信頼したいと思えば、その人に利用されればよい。』とさえ言っています。利用するかどうかは、他人の考えに基づく他人の課題です。それに手を出すなということでしょう。」
「じゃあ、悪人でも、誰でも彼でも信頼せよということなんですか?」
「そうじゃありません。アドラーは、倫理的、道徳的な理由で信頼しないということは、含んでいません。信頼は、人間関係をより濃くして、水平な人間関係を築くためのものなんです。」
「じゃあ、もし友人に徹底的に尽くしたうえで、結局その人に利用されていたということが分かったとします。その後、『他人は皆敵』という考えになってしまいませんか?」
「もし、ガールフレンドに利用されているのではと疑い始めたら、結果はどうなりますか?もし、その証拠を集め始めたら。だれだって、一つや二つ、つじつまの合わない行動をしているもんです。そうしたら、その時点で関係の維持は不可能です。他人を信頼することを怖れたら、一生深い関係は築けません。」
「確かに、それは理想的な話です。でも、誰でも少しは、『自分は騙されているのでは』と考えるのが現実ではないでしょうか。」
「浅い関係の場合なら、それでもいいでしょう。敗れても傷は浅い。しかし喜びもありません。」
「じゃあ、利用されることを怖れない勇気を、僕はどこから得ればいいんですか?」
「先ほど出た『自己認識』です。自分をありのままに受け入れ、何ができて、何ができないかを判別することです。」
「利用されることは、他人の課題で、それに対しては何もできないと、あなたは言いますが、その時の怒りや失望はどうなるのですか?」
「その時は、純粋に悲しめばいいのです。怒りや失望を味わいたくないと思う気持ちが、深い人間関係をブロックしているのです。」
「自己認識を学び、他人への信頼を作りだしたら、僕の中で何が変わるんですか?」
「他人を信頼すれば、その共同体の一員になれます。心の避難所を一つ持つことになります。『ここにいてよかった。』と感じられる場所があるのは、いいことです。他人を『敵』としか思えない人は、自己認識も浅く、他人を信頼できません。」
「他人を『味方』と考えるだけで、共同体への帰属意識が得られるのでしょうか?」
「その過程で、もう一つ重要なものがあります。『他人のために何かをする』ということです。」
若者は、その言葉の意味を直ぐに理解できない。
「他人のために何かをする?寄付をするということですか?あるいは、自分を犠牲にすること?」
「自己を犠牲にする必要はありません。自分の価値を知り、自分は共同体の中で必要とされている、そう感じるだけでいいんです。逆に言うと、自分の価値を感じるために、共同体の中で何かをやることです。」
「他人のためにやったことが、自分のためになるんですか?自分を満足させるために、他人に何かをする。それは、まさに、あなたが否定していた『おべっか』でしょう。」
「それはちょっと短絡的すぎます。まず、他人のために何をするのかを考えなければいけない。一番身近なものは『仕事』です。仕事は金を得るためだけにするのではない。他人に何かを与える行為なんです。仕事の究極の目的、それは『社会に対する貢献』ではないでしょうか。」
若者は意外な展開に驚く。
「仕事ですか?でも、金を儲けることも、仕事の目的の一つでしょう?」
「有り余る金を持っている人も、働いているのは何故でしょう?それは、社会に貢献して、社会に対する帰属意識を保ちたいからなんですよ。それを通じて、自分の価値を認識したいからなんです。」
「他人のためにやっているように見せて、実は自分のためにやっている。それは一種の欺瞞ではないですか?」
「夕食の後、主婦が台所で食器を洗ってます。夫も子供も手伝おうとしない。そんなとき、この主婦は二通りの考え方ができると思うんです。
�A
どうして私だけが食器を洗わなければいけないの。
�A この後、夫や子供たちは、自分に何をしてくれるだろうか。
主婦が�Aのように考えれば、気持ちは軽くなるし、作業も楽しそうに見えるでしょう。それを見た、夫や子供が手伝ってくれるかも知れません。家庭を共同体、家族をその構成員と考え、『仲間』、『味方』と考えることができます。共同体に貢献している、そう考えればいいのではないでしょうか。自己認識、他人への信頼、他人への関心、これらがつながっていることは、この例でも分かると思います。自己認識をしているからこそ、利用されることを怖れずに、他人を信頼することができる。他人を信頼しているからこそ、他人に関心を持てる。そして、他人への関心が、また、自己認識へと帰ってくるのです。」
「アドラーの心理学の目的は、
�A
自立し、社会と協調して生きること
�A 他人は味方だと考える能力を、自分が持たせること
です。このことは自己認識につながります。社会と強調し、他人を味方だと考えると、それは他人を信頼することにつながっていきます。」
若者は少し煙に巻かれたような気分になる。
「かなり分かりにくい言い方ですね。」
「アドラーは言っています。一人の人間を理解することは非常に難しい。だから、心理学でも個人を研究対象にするものは、最も難しい領域だと。」
「理論はできても、それをひとりひとりに当てはめていくことが難しいということですね?」
「そうです。アドラー理論に基づいて、自分を変えるには、理論を本当に理解していないといけない。そして、歳を取るにつれて、自分を変えるには時間がかかります。しかし、きみはまだ若い。自分を変えるには打ってつけの年齢です。私が、変われる可能性の高い若い人に、もっと話を聞いてほしいのも、まさにこの理由です。」
若者には、勇気という言葉が、まだ引っかかっていた。
「自分を変えたり、他人を信頼する勇気がないのは、全部自分のせいなのでしょうか?他人の影響はないのでしょうか?誰もが勇気を持っているとは思えないし、人間関係で悪い経験をした人も多いと思うんです。」
「確かに、きみに辛い思いをさせる人があるかもしれないが、全員ではないでしょう。全体を見ないで、部分しかみないことで、人生のハーモニーが欠如すると思いますよ。ユダヤ人には『何をしようが、十パーセントの人は批判する』という教訓があります。その十パーセントの人は、きみのことが嫌いで、きみが何をしようが、好きになってくれることはないでしょう。そんな人を気にするくらいなら、残りの九十パーセントに人に力を尽くしたほうがいいと思います。」
哲学者は突然話題を変える。
「きみの知り合いで、吃音の人はいませんか?」
「はい、学校の同級生にいました。」
「吃音を持った人と付き合うのには、どうしたらいいでしょうか。多くの人は、吃音を持った人は普通の人より劣っており、辛い目をしていると思っていますよね。それは、自分の論理で発話をしているからなんです。多くの人は、吃音の人を見て笑わないでしょう。例え、十人に一人くらい、笑う人がいたとしても、そんな人と関係を持たないでも、何の支障もありません。私の参加した読書会に吃音の参加者がいました。彼が読む番になっても、もちろん誰も笑いませんでした。そのまま数日が経つと、誰もその人の吃音が気にならなくなりました。人間関係が上手くいっていないからこそ、細かいことが問題になるのです。もちろん、最初から上手くいかないかも知れませんが、互いに信頼ができれば、最後は上手くいきます。」
若者は少し分かったような気になってきた。
「吃音の人の例は特別です。他に何か、一般的な例はありませんか?」
「じゃあ、次は『働き中毒』の話をしましょう。『働き中毒』の人は、『仕事』という限られたアスペクトだけに重点を置いています。『仕事で忙しい』という理由で、他のことをないがしろにします。でも、それは、家事や教育から逃れたいための口実に過ぎません。」
「父親がまさにそうでした。」
「『仕事』は職場においてだけではありません。家事、育児、社会貢献、趣味なども仕事なのです。会社での仕事は、ほんの一部にすぎません。」
「誰のおかげで、皆が食べられているんだ、と父はいつも言っていました。」
「そんな人間は、自分が家族の誰よりも偉いと思っているんですね。でも、病気や老いで、いずれはその地位を追われることになるのに。仕事中毒の人は、調和を欠いていると言わざるを得ません。」
「ここで、一番最初に出た『勇気』に戻って考えてみましょう。」
若者はハッとした顔になる。
「そうです。幸せになるための勇気って、どんなものなのでしょう?あなたは、全ての問題は人間関係の問題である、って言いましたよね。と言うことは、幸せも人間関係の中にあるのでしょうか?」
「私が、最初に、アドラーの心理学の講義を聴いたとき、教授は『この講義を聴いたものは、即座に幸せになれる。』と言い切りました。最初、その言葉を聞いたとき、抵抗がありました。しかし『幸せとは何か』については考えても、『どうしたら幸せになれるか』について考えていなかった自分に気づきました。」
「それで、あなたは、アドラーの心理学を実践して、幸せになりましたか?」
「もちろんです。」
「最大の不幸は、自分を愛することができないことです。自分の中に価値を見つけることが、自分を愛することの第一歩になります。」
「それが、他人に対する関与なんですか?」
「そうです。他人への関与は、外から見えようが見えまいが、関係ありません。それが他人に役に立つか、それどころか、自分が役に立てたと思えるかどうか、それが重要なんです。つまり、幸せとは『他人の役に立っているという感情』です。」
若者は少し納得する。
「何かをすることで他人に役に立つというだけでなく、いることだけで、他人に役に立っていることもある、そう言いましたよね。そうすると、人間は全員が幸せになるということになりますが?」
「まさにその通りです。全ての人間が幸せになることができます。しかし、それは、全ての人間が現在幸せであるということは意味しません。その人が、自分は他人の役に立っていると感じることが大切なのです。」
「じゃあ、反対に、不幸だと思う人は、自分が役に立つと思っていないということですか?」
「そうです。」
「じゃあ、どうしたら、自分が役に立っているという感情を持てるのでしょう。労働、ボランティアを通じて?」
「それだけではないです。何をするにしろ、その際、他人から認められようと思ってはいけないんです。他人から認められたいという気持ちは、役に立っていると感情を得るための、ひとつの手段にすぎません。他人に認められたい気持ち、承認要求は幸せの根源ではありません。」
「もし、そうだとすると、他人の希望に沿って生きる生活を、ずっと続けることになりませんか?そうなると、自分の自由がなくなりませんか?」
「自由は大切です。幸せは自由のみに宿ると言っていいでしょう。その自由とは、人間関係における自由なのです。もし、他人のために何かをするなら、本来、認められる必要はありません。他人の承認を常に追求する人間は、共同体意識がないと言えます。もし、共同体意識が確立していれば、承認要求は必要なくなります。」
「じゃあ、一体、他人のために何をすればいいのでしょう。自分にしかできないこと?次の世代に残ること?そんなことはできない僕は、単に『何か』をすればいいのでしょうか?また、他人のために何かをする他に、自分を成長させることでも幸せは得られると思うんですが。例えば、目的を定めて、それに到達することで得られる幸せとか。」
「じゃあ、きみが到達したい目標って何ですか?」
「そうですね。例えば、父は常に追い立てられるように生きていました。あんな風に生きたくないとか。」
哲学者は一つの例を挙げる。
「ここで、問題行動を取る子供の例を考えてみましょう。親の言うことをよく聞き、勉強も、スポーツもよくできる子供がいたとします。そして、子供は、親から認められたいからそうしているとします。そんな子が、もし、親がそれを認められなかったら、どうなるでしょう。それまでと反対のこと、つまり問題行動を起こしてしまいます。良い子でいることで両親の注目を浴びられなくなったら、悪いことで、その目標を達成しようとするのです。教室で問題行動を起こす子は、先生や、同級生からの注目を浴びたいからなんです。」
「もっと、重大な罪を犯す子もそうなんでしょうか?」
「他の問題行動も同じだと思います。きみの引き籠りの友人も、おそらく、両親の関心を弾きたいからでしょう。」
「でも、彼は、両親への復讐だと言っています。」
「復讐は、他人から目立ちたいという行いと似ていると思いませんか?」
若者の中では、理論が非現実性と戦っている。
「全ての人間が、ポジティブに考えて行動するなんて不可能でしょう。人には良い面もあれば悪い面もある。一部の天才を除けば、殆どが凡人なんですから。また、自分が正しいと思えば全てが正しいと考えると、殺人や強盗まで正当化できるのではありませんか?」
「それは『ソクラテスのパラドックス』と呼ばれている問題ですね。全ての人が『それは正しい』と思って行動するわけですから。」
「アドラーは『普通であることへの勇気』を説いています。どうして人間は『特別』でありたいと思うのでしょうか。多分『普通である自分』を正当に評価できないからでしょう。だから、良い子が極端に悪い子に変わってしまう、どうして、普通の子じゃだめなんでしょう。」
「自己認識が第一歩、普通であることがその次に来るんですね。」
「普通であることは無能であることではありません。」
「でも、普通であることは、わざわざ決断して実行しなければならないようなものでしょうか?また、人間は、自分にしかできない何かを残したいと、常に思っているのではなでしょうか?」
「じゃあ、どんな犠牲を払っても、特別な存在になりたいですか?」
「自分のできることはここまで、そう考えると向上心が起きないでしょう。ナポレオンなんどの偉人は、普通であることに満足しないで、上の目標を持ったことにより、業績を残せたと思うんですが。」
「そもそも、人生に目標なんて必要なんでしょうか?人生を山登りに例えると、目標はなんですか?」
「もちろん、頂上に辿り着くことです。」
「じゃあ、頂上に辿り着くまでの道のりは、仮の生活、仮の自分なのでしょうか?もし、頂上に辿り着けなかったら、それまでの『仮の自分』は、何の意味を持たないのでしょか?」
「その時は、その能力がなかったのだから、諦めるしかないでしょう。」
「アドラーは『人生は線である』と言っています。フロイトの心理学でも、原因と結果に基づくものであり、生まれてから死ぬまで一本の線でつながっていると考えられています。しかしアドラーのいう『線』とは、点の集合体なのです。つまり、人生は、一瞬一瞬の集まりであるということです。」
「じゃあ、将来への準備をしても無意味ということになりませんか。」
「はい、その通りです。それは不可能です。」
「将来バイオリニストになりたくて、幼い時から練習に励む。弁護士になりたくて勉強する。目的を達成するための、このような計画的な行為はどうなるのですか?」
「その人たちも、実際は『今』を生きていませんか?バイオリニストを目指す少年は、練習のとき、今、正しい音を正しいリズムで弾こうと、集中しているのではないでしょうか。人生は、常にダンスをしているようなものです。ある人はバイオリンの練習というダンスを、ある人は弁護士になるための勉強というダンスを。ダンスは、踊ること自体が目的なんです。」
「でも、目的のない人生ってあり得ますか?」
「人生にはふたつの生き方あると思います。目標に向かって進んでいく『ダイナミックな生き方』と、今やっていることを目標にする『エネルギッシュな生き方』です。『ダイナミックな生き方』には、出発点と到達点がありますよね。そしてその間の時間は、スムーズで速いほどいい。しかし、もし到達点に達しないと『未完』として扱われます。それに対して、『エネルギッシュな生き方』は今を生きることが目的です。過程やプロセスが目的なんです。旅行に例えてみましょう。『ピラミッドを見にエジプトに行った』場合、ピラミッドを見た後、直行で家に帰りますか?誰もそうしないでしょう。そんなものは旅行じゃない。ピラミッドを見る前、見た後、予期せぬ出来事を含めて、色々なことを体験する、その『全体』が旅行ではありませんか?人生を山登りに例え、頂上に立つことだけが目的ならば、ヘリコプターで飛べばいいんです。でも、誰もそれをやらないでしょう。」
若者は反撃に出る。
「ちょっと待ってください!それには、色々反論できます。あなたは、過去は存在しない、変えられるのは未来だけと言いましたよね。未来に対する計画を立てることに意味がないとすれば、自分の意思で自分の将来を変えていこうとする行為も意味がないことになる。明らかに矛盾していますよね。」
哲学者はそれに答えず、別の角度から、話をする。
「きみが舞台に立っているとします。きみは、客席の奥の方まで見渡せます。しかし、スポットライトがきみに当たったらどうなりますか?客席は見えなくなるでしょう。人生で、もし『今』に対する光が弱ければ、過去も未来も見えます。でも『今』にスポットライトが当たれば、過去も未来も見えなくなります。」
「それは、つまり、僕たちは、今、ここを全力で生きなければならないということですか?。」
「そうです。過去や未来が気になるのは、現在を真剣に生きていない証拠です。過去に何があっても現在の自分とは関係ない、未来に何が起こるか誰も分からない。そういうことです。フロイトの心理学は、人生を『原因』と『結果』の輪であると考えています。物語のようですね。でも、人生は物語ではない、無数の『今』の集合体なのです。」
「でも、それって、今を楽しむことを最優先する『快楽主義』じゃないですか?」
「いや、自覚を持って生きることです。大学に入りたいがそのための勉強をしない。それは今を生きているとは言えません。大学に入りたいなら、たった今、何かをしなければなりません。そして、その後に『今日はやった』という充実感を持たないと。」
「きみのお父さんは、毎日努力して、毎日を一生懸命生きておられたのでしょう。その意味では、幸せな方だったんですよ。きみ自身も、遠い所に目標を置くべきではありません。目標を置いても、現在をその準備の期間だと思わないで、毎日努力をすることが大切です。」
「でも、今の僕には、その目標さえありません。どんなダンスを踊ったらいいのか、分からないんです。」
「それでもいいと思いますよ。人生は真剣に生きなければなりませんが、あまり真剣すぎるのもよくないことです。さっき言った、「エネルギッシュな生き方」ができるようになれば、きみは完璧な人生を歩むことができますよ。『今』を一生懸命生きれば、そこが完璧なものになるのです。これまで何度も、『人生の嘘』について話してきましたね。ここで、一番大きな『人生の嘘』について話したいと思います。それは、今、この時間を生きないことです。そして、過去と未来についてばかり考えることです。言い換えれば、今の自分にスポットライトを当てることです。過去も未来も、実は存在しないです。」
哲学者は話を一段落させる。
「私は、きみを水場に連れてきました。水を飲むか飲まないかはきみの判断です。」
「何となく、自分が変われるように思えてきました。でも、まだ一つ質問があります。もし、人生が一瞬一瞬の集合体なら、人生全体の意味というのはないのでしょうか?」
「人生そのものには、意味がありません。人生には、戦争や災害など、色々な予測できないことが起きます。途中で亡くなる人もいます。その中で、人生の意味を考えるのは、それこそ無意味です。」
「でも、戦争や、災害が起こったとき、人間はそれに対して、何かをしようと思いますよね?」
「自然災害にあったとき、どうして起こったんだろうと、それを考える人はいますか?今、助かるために、生きていくために何をしようかを考えますよね。そして、その答えは、一人一人が見つけるものです。」
「祖父は、戦争中空襲に遭い、顔にひどい火傷を負いました。祖父は、とんでもない世界に生まれてきたと、呪うこともできました。しかし、祖父は、他人、世界は自分の味方であると考えました。そして、それなりに幸せな人生を歩んだと思います。人生に意味を与えるのは、自分自身です。」
「でも、僕にはまだその自信がありません。」
「それは、きみが他人から嫌われることを怖れているからです。アドラーは、幸せな人生とは『他人から嫌われることをおそれない』人生だと言っています。『他人から嫌われても構わない』その気持ちが人生を導く、羅針盤の働きを果たすのです。」
「なるほど、それが灯台や星のようになるのですね。」
「その星は他人への関心です。その心がきみを導きます。そして、今、ここでダンスをすること。ダンスを続ける限り、いつかはどこかに到達できます。それがどこであるかは、誰にも分かりませんが。そして、それが『エネルギッシュな生き方』なんです。私も、今、一生懸命ダンスをしたおかげで、きみというかけがえない友人を得ることができました。」
「その言葉、信じてもいいんですか。」
「はい、私たちの力は世界も上回るんです。自分の人生を変えれば、世界も変わるんですから。また、そのことに後で気づいて、その時点で花を咲かせることもできるんです。」
「もう少し早くそのことに気付いていれば・・・」
「いや、十年前だったら、アドラーの言葉が、きみの心に刺さったかどうか分かりません。アドラーは言います、『とにかく始めろ、他人が一緒にやるかどうかは関係なく』と。」
「何か、自分が輝きだしたような気がしてきました。」
「きみは、今水を飲んでいます。」
若者は立ち上がる。
「ありがとうございました。近いうちに、また来ます。」
若者は外に出た。彼の上には、冬の星空が輝いていた。