第三の夜

 

 二週間後、若者は再び哲学者を訪れる。若者はその間、悶々とした日々を送っていたという。哲学者が切り出す。

「今日はまず、『自由』について話しましょう。きみは、自由について、何か考えてきましたか。」

若者が答える。

「図書館にあった、ドストエフスキーの本の中に、面白い言葉を見つけました。『金は硬貨の形をした自由である』。どうですか、これ、なかなかの皮肉でしょう。お金があればある程度の自由が手に入ります。また、自由に暮らすには、ある程度、経済的な裏付けが必要でしょう。しかし、幸せはお金では買えない。」

「なるほど、面白い言葉を見つけましたね。じゃあ、お金が十分にあるのに、幸せに辿り着けないとしたら、何が問題だと思いますか?」

哲学者が質問する。少し考えた後、若者は答える。

「人とのつながりだと思います。もし、お金があったとしても、誰ともつながっていなければ不幸だと思います。人は、人間関係から逃げることはできないと思うんです。」

「じゃあ、人間から自由を奪っていく人間関係とは何だと思いますか?」

哲学者はさらに聞く。

「あなたは、他人を味方と考えれば、世界が変わると言いましたよね。でも、それだけでは完全に説明しきれない何かがあると思うんですよ。例えば両親との関係とか。子供の頃はサポートしてくれたけれど、年と共に干渉がきつくなって、だんだん耐えられなくなってくるとか。」

哲学者は話題を変える。

「きみとご両親の関係について、少し話してみてくれませんか?」

「大学に行くまでは、両親の意向を無視できないでいました。しかし、だんだん耐えられなくなって、大学を出た後の仕事は、自分で選びました。両親は、父の仕事を継いでほしかったんですが。今は大学の図書館で司書をやっています。しかし、今でも両親は『敵』ではありません。両親の希望した大学に入った時は、反発心もあったけれど、これで両親からも認められるだろうという、両親の希望を叶えたという安心感もありました。」

哲学者はそこで口をはさむ。

「他人から認められる必要はありません。」

若者は納得できない。

「何ですって、他人から認められたいという欲求は自然なものでしょう。その気持ちがあるから、社会は進歩するんじゃないですか?」

「確かに、承認されたら嬉しいでしょう。しかし、必ずしも承認される必要はありません。」

若者と哲学者の議論は続く。

「他人から認められたら、自分に価値があるように思えてくるでしょう。そうしたら、劣等感から抜け出して、自分に自信が持てるじゃないですか。」

「じゃあ、きみが職場でゴミを拾いました。それについて、誰も何も言いませんでした。きみはどうしますか?」

「そうですね、もし、誰も褒めてくれなければ、次からはしないかな。」

「なるほど、褒めてもらえなければ、動機を失うわけでうね。それは『報酬』と『懲罰』によって行われた教育の、悪い影響です。もし誰も褒めてくれなければ正しいことをしない、と言うことは、もし罰せられることがなければ、悪いことをしてもいいということになります。ゴミを拾うことは、褒められるという目的があるから、つまり、他人の期待に応えるために何かをするということになります。この世の中、他人の期待に応える必要はありません。」

若者はすこしずつ興奮してくる。

「じゃあ、自分のことだけ考えて生きろっていうんですか?」

「ユダヤ人の教訓に『自分の人生を自分のために生きなければ、誰のための人生なのか。』というのがあります。」

「自分のためだけを考える。それは虚無主義、ニヒリズムでしょう。」

「いや、むしろ逆です。他人の評価を気にして生きるということは、他人の人生を生きていることになります。それは、他人の人格なることを意味します。」

若者は更に反論をする。

「自分が承認されたいと思うときは、まず、他人を承認してくてはいけないでしょう。お互いに認め合うことで社会は成り立っているんです。あなたの考えは、人々を、他人はどうでもいいという、孤立主義へ導いていくことになりませんか?。」

哲学者は反論に反論する。

「他人から認められないと幸せになれない、そんな生活って健全なのでしょうか?神が見ているからいいことをする。神がいなければ何をしてもいい。人間とはそんなものでしょうか?」

「社会的な承認はどうなりますか?社会で成功し、死後も讃えられたい、皆そう思うでしょう。」

「では、社会的な承認を受けたら、人は皆幸せでしょうか?労働の目的は、他人を満足させることなのでしょうか?そうではなく、自分自身を向上させることではないですか?」

「じゃあ、利己主義者、エゴイストになればいいんですか?」

「『他人のことは考えるな。』『他人の課題に手を出すな。』それが、アドラー心理学の根本なのです。」

哲学者が話題を変える。

「勉強に、全く興味を示さない子供がいるとします。きみが父親だったらどうしますか?」

「いい学校に入れて、家庭教師をつけて、家でも厳しく勉強をするように仕付けます。自分も、そんなふうに育てられましたから。」

「それで、きみは勉強が好きになりましたか?」

「いいえ、全然。」

「でしょう。アドラーの心理学では、勉強が誰の『課題』かを、一番に考えます。勉強しようが遊ぼうが、それはあくまで子供の課題。親の課題ではありません。子供に無理矢理勉強させることは、他人の課題に対する干渉なのです。そして、干渉が発生すると、必ず争いが生まれます。対人関係の多くの問題は、他人の課題に干渉することで始まるのです。」

若者が哲学者に尋ねる。

「ある物が誰の課題なのか、誰が決めるんですか?子供に勉強させることは、親の課題でもあるのではないですか?」

「その方法は簡単です。その結果を誰が受け取るのか、それを見ればいいんです。勉強しないことにより、結果を受け取るのは誰ですか?両親ではなく、子供です。もし、よく考えの回る両親なら、子供がそんな状態になる前に気づいて、対策を打つでしょう。それは、子供を思う心で、干渉ではありません。」

まだ納得のいかない若者は言う。

「勉強することは、子供の課題であると同時に、親の課題でもあると思うんです。子供が勉強しないとき、黙って見ていればいいんですか?」

「干渉しないことは、理解しようとしないことではありません。子供についてよく知ろうとすることは、子供を助けることになっています。また、子供が自分で勉強できるようにサポートすることは、干渉ではありません。その時の親の役割は、アドラー心理学のカウンセラーの役割りに似ています。カウンセラーの役割りは、相談者を変えることではありません。はっきり言って、相談者がライフスタイルを変えようが、変えまいが、カウンセラーの知ったことではありません。」

若者はムッとした表情で反発する。 

「そんな無責任な。それは役割り放棄ですよ。」

「もちろんサポートはしますよ。『馬を水場に連れて来ることはできるが、水を飲ませることはできない。』これがカウンセラーの立場です。人生を変えることができるのは、自分だけです。」

「じゃあ、引きこもりの友人にも、課題分けを勧めるんですね。彼の両親の課題は何でしょう。」

「今の状態から抜け出すことは、言わずもがな、彼自身の課題でしょう。まず、彼と両親の間に信頼関係を築くことが大切でしょう。」

「もし、あなたの息子が引きこもりだったらどうしますか。」

「息子にこの問題で、できるだけ注意を引かないようにします。同時に、息子をサポートしていると言う姿勢を見せるようにします。そうすれば、息子は父親の変化に気づくでしょう。多くの人は、『子供は自分の命である』と考えますが、子供は子供、別人格なのです。例え親子であって、他人の期待通りに生きることはできません。特に、家族の間では、課題を明確にして、境界線を引くことが大切なのです。」

境界線という言葉に、若者は更に引っかかる。

「境界線を引いて、区別してしまったら、誰も信じられなくなりませんか?」

「『信じる』ということも、他人の課題を干渉していることになります、何故なら、他人が自分の期待通りに動いてくれることを、期待しているからです。それは一種のストーカー行為です。他人の課題を引き受けようとすることが、人生を複雑にします。ここからは自分の課題ではないという、明確な境界線を引くこと、それが大切なのです。」

哲学者は話題を変える。

「きみのご両親は、きみが今の仕事に就くとき、反対したんでしょう。」

「はい、大反対でした。『この分からず屋!』って言われました。」

「その言葉はご両親のもので、きみのものではない。気にすることはないですよ。」

「じゃあ、両親がどれだけ悲しんでいても、関係ないと言うんです?親への尊敬は?」

「きみの将来への判断はきみの課題。それに対してどう思うかは、他人の課題です。と言うか、他人のことが気になるのは、きちんと課題が分けられていないからです。お祖母ちゃんの言葉を思い出してください。『誰もあんたの恰好なんて、気にしちゃいないよ。そんなことを気にしているのは、あんただけだよ。』って。」

哲学者は更に別の例を出す。

「別の例を挙げましょう。会社の人間関係が上手くいかないと考えている男がいるとします。彼は上司が自分の意見を聞こうとしないし、自分の努力を認めようとしないと文句を言っています。」

「まさに僕の上司です。」

「しかし、職場での『目的』は、上司に好かれることでしょうか。他人に承認されることでしょうか。」

「でも、直属の上司が反対していれば、仕事は続けられないでしょう。」

「そこが、問題なんです。『あの上司がいるから、仕事が上手くいかない』と考えるのは、『あの上司がいなければ、仕事は上手くいく』ということでしょう。本当は、仕事ができない、いや、したくないのは自分自身なんですよ。それを上司に責任転嫁して、言い訳に使っているにすぎない。とんでもない上司は、その人が作り出したものなのです。」

「じゃあ、上司が僕に叱責を始めたら?」

「もし、上司がきみに当たり散らしても、それは上司の課題です。きみは、自分の課題に集中すればよろしい。そのためには、これは誰の課題が、明確にしなければいけません。境界線を引いて、他人の課題の中に入るな、自分の課題の中に他人を入れるな、そうするべきです。」

哲学者は少し間を置いて話し始める。

「次に、いよいよ、『自由』について話しましょう。」

「分かりました。他人との間に課題の境界線を引く、でも、それは心理学的に正しくても、倫理的、道徳的にも正しいのでしょうか。また、『元気ですか。』と聞くのも、干渉になるのでしょうか。」

「じゃあ、ここでアレクサンダー大王についてのエピソードを考えてみましょう。アレクサンダーは、ゴルディオスの神殿で、『この結び目を解いたものはアジアの覇者になれる』と伝えられる、紐の結び目と対峙します。これまで、色々な人々が、結び目を解こうとしてきましたが、余りにも複雑で、誰も成功しませんでした。アレクサンダーは刀を振り上げ、その結び目を、一刀の下に切り離しました。複雑な結び目を人間関係と考えたら、思い切って断ち切ってしまうというのも、一つの、新しい方法なんです。」

「でも、人間関係を断ち切ったら、孤独になってしまうでしょう。」

「ただ、課題を分けることは、人間関係を整理する入り口にすぎません。ゴールではないのです。次の点は、よい人間関係とは、近すぎても、遠すぎてもいけない。手を差し伸べるが、干渉はしない、そんな絶妙な距離が必要なのです。」

「例えば、親子では?」

「例えば、小さい子供が宿題をしようとしない。両親はそれに対して何かしたくなることがありますよね。両親は早く片づけたいから、無理矢理勉強をやらせる。しかし、それは子供から『課題』を取り上げていることになるんです、それが繰り返されると、子供は、自分で考えて何かをしようとしなくなる。『課題』に直面する機会を奪われた子供は、『課題』を避けようとする。」

「しかし、それは親の感情を無視していませんか?人間としての温かみがない。」

「もちろん批判もあるでしょう。しかし、アレクサンダー大王のやり方だって、批判する人は多いでしょうから。」 

若者はなかなか納得がいかない。若者の口調は激しくなる。

「あなたの言うことは、全て机上の空論のように思えます。言うことは簡単です。大人が一方的に、若者は意気地がない、無責任だと言っているようなものです。結局、大人は批判だけを行い、やはり自分では責任を取らない。」

「では、きみは干渉されたいですか。」

「多分、時には干渉されたいかも。誰もが確固とした目的を持って生きているわけではないし。他人の期待に沿って生きている方が楽でしょう。」

「確かに、その方が楽なときもあるでしょうね。」

「また、他人からの承認を、自分を律することにも使えるでしょう。神様が見ているから、正しい行いをする。他人の目が、正しい道を進ませる、方向付けになることあるかも知れませんよ。」

「他人から承認されることを望む、他人からの承認は期待しないで自由に生きる、どちらを選ぶかは、各人の判断です。ただ、前者を選んだ人は、『他人から嫌われたくない』と常に考えて生きていくわけで、とても不自由な道です。」

「それは、言い過ぎではないでしょうか。誰も『他人から嫌われたい』って言わないでしょう。」

「もし、他人に嫌われたら、どんな不便がありますか。他人に嫌われないためには、常に他人の顔色を窺っていなければいけませんよ。十人が周囲にいたら、十人全員に好かれることができますか?もし、できたとしても、それは誰かに嘘をついていることになりませんか。例えば政治家です。有権者に気に入られようと思って、誰に対しても耳障りのいいことを言います。最後はその矛盾がバレて、墓穴を掘る政治家も多いでしょう。他人の課題と、自分の課題の間に線を引くことは、自己中心に生きるということではありません。他人に干渉することこそが、自己中心的であると思いませんか。」

若者は呆れて言う。

「あなたはアナキストだ。」

「他人に好かれるように生きていくことは、不自由な道を選んでいることになるのです。では、次に、いよいよ『自由』について話しましょう。」

「自分は他人に嫌われるのが嫌だ。そもそも、嫌われたいと思っている人なんていないでしょう。」

「しかし、実際、きみが嫌いな人間もいるし、きみのことを嫌いな人間もいるでしょう。きみは、誰かに嫌われているって思ったら、どんな気分になりますか?」

「打ちひしがれたような気分ですかね。『どうしてなんだ』という、後悔が入り混じったような気持ちでしょうか。」

「人に嫌われたくないという気持ちは、人間に備わった自然なもので、哲学者のカントはそれを『傾向』と呼んでいます。『本能的な欲求』と呼んでもいいかもしれません。でも、その『傾向』の奴隷になってはいけません。『崩れた自分を立て直す』ことが人間にはできるのです。石は、重力の法則に従って落ち続けます。しかし、人間は、自分で落ちていることに気付き、それを止めることができます。」

「でも、人間は一人で暮らすことはできないでしょう。」

「自由に生きるということは、他人に好かれないことだと考えてください。誰かに嫌われることにより、その人の自由度を試せるのです。」

「でも、人に嫌われることは、不愉快なことでしょう。もし可能なら、僕は、人から嫌われないで生きていきたいです。」

「しかし、人から好かれようとして暮らすことは、極めて不自由な生活を選ぶことなのです。」

「それが本当の自由なんでしょうか?」

「自由とは、家や国家から抜け出して行くことじゃないんです。仮に、抜け出すことができたとしても、他人から好かれようと思っている限り、本当の自由ではありません。でも、人に嫌われるために、何か悪いことをしろというわけではありません。そこは誤解しないようにしてください。」

「でも、人間はそんな自由に耐えられるでしょうか。」

「もし、きみを嫌う人間がいても、それはその人の課題、自分の課題ではないと考えることです。もし、『全ての人が自分のことを好きな世界』と『中には自分のことを好きでない人がいる世界』があるとすれば、私なら、躊躇なく後者を選びます。きみのことを嫌いな人がいたとしても、きみはその人に対して、何もできないのです。馬を水場に連れて行くことはできますが、馬に水を飲ませることはできないのです。結論として、『幸せになるための勇気』は『他人に嫌われることを怖れない勇気』なのです。」

若者は少し呆れて言う。

「まさか、人に嫌われるように勧められるとは思っていませんでした。」

「最初から、理解されるなんて思ってはいませんよ。きみは時間をかけて考えればいいんです。今日、終わる前に、きみに言いたいことが一つあります。私の個人的な話です・私は、父親と折り合いが悪かった。私は、アドラーの心理学と出会うまで、父親のことを本当に理解することができませんでした。」

「どうして、お父さんとの関係がよくなかったんですか。」

「私は、子供の頃、父によく殴られました。私は常に父を避けていました。アドラーの心理学に出会う前は、私はそれをトラウマだと思っていました。アドラーの心理学に出会って、私は『今』父との関係を持ちたくないために、過去を持ち出していたと気づきました。父との関係を正常にしない方が、自分にとって都合がよいからだと。�@『父に殴られたから、父との関係を持ちたくない』と�A『今父と関係を持ちたくないから、過去に殴られたことを引き合いに出している』。このふたつのどこが違いますか?�@のように考えると、もう自分では何もできないですよね。�Aのように考えると、自分は変えることができる。つまり、自分が『カード』を持っていることになります。」

「でも、心の中のどこかでは、�@のように考えていませんか?」

「子供を殴る、それは父の課題です。�@のように考えると、『カード』は永遠に父が持っていることになります。例えば、『父に気に入られるように、自分はどのように行動すればよかったのか』なんて考えることがその例です。アドラーの理論に出会って、父は父、私は私と考えることで、私は、別の味方ができるようになりました。変われるのは自分だけです。自分が変わることにより、他人が変わることもあれば、変わらないこともある。それはあくまで、その人の課題なのです。他人の承認を期待している限り、カードは他人にあります。他人がカードを持ち続ける人生を歩むほど、つまらない人生はありません。」

「お父さんは変わりましたが?」

「父は最後動けなくなり、私が介護しました、ある日父は私に『ありがとう』と言いました。そんな語彙が父の辞書にあるなんて、そのとき初めて知りました。」

若者は帰って行った。

 

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