第二の夜

 

 若者は数週間後のある夜、再び哲学者を訪れる。哲学者は若者を迎え入れる。若者は、

「前回から色々考えましたが、あなたの考えに、どこか素直に賛成できない自分がいます。あなたは、全てに目的があると言うが、今の自分の目的が何なのか、自分が何の役に立つのか分からないのです。」

と言う。

「つまり、きみは、自分の長所を見つけることができず、自分が短所ばかりだと言うんですか?」

と哲学者が反問する。若者がそうだと言うと、

「自分で自分のことを好きじゃないから、短所にしか気づかないんですよ。まあ、自分を好きにならないことにも、利点があるんですが。で、きみに不足している点は何だと思いますか?また、きみは、自分の短所や欠点を考える時、どんな気分になりますか?」

「短所はいっぱいあります。それについて考えると、不機嫌な気持ちになります。もし、他人なら、そんな僕を好きにならないでしょうね。」

「自分のことが考えにくいなら、他の人の例を出しましょう。男の人の前で赤面して、話せなくなるという女子大生がいます。『もしこの癖が治れば、思っている男性に告白できるのに。』と彼女は考え、私に相談に来ました。でも、赤面するという症状が出るのは、それが彼女にとって必要だからなのです。もし、告白すれば拒絶されるかも知れない。彼女は告白しなくていいという口実が欲しかったにすぎないのです。」

「つまり、彼女自身が、その症状を創り出した?」

若者が尋ねると、

「そのとおり。」

と哲学者答える。

「で、彼女はどうすればいいんですか?」

若者がさらに尋ねると。

「私は何もしなかった。」

と哲学者。若者は呆れた調子で、

「そんな無責任な。」

と叫んだ。

「もしOOだったらXXができるのに。そう考えている限り、OOが起こることはありえません。私は、今の自分の状態を認識するように、彼女に言っただけです。最終的には、彼女はその男性に告白して、二人は今一緒に暮らしているそうです。」

哲学者は話を続ける。

「では、きみ自身の問題に戻りましょう。どうして、きみは自分のことが嫌いなんですか?どうして、自分の悪い所しか見つけられないのですか?おそらく、それは、他の人から嫌われること、人間関係が壊れることを、怖れているからじゃないでしょうか。つまり、きみは、女子学生と同じように、他人から拒絶されること、それによって自分が傷つくことを怖れているのではないでしょうか。そうなるくらいなら、他人との関係を持たない方がましだと思っていませんか。つまり、きみの『目的』は自分を傷つけないこと。そのために、色々な理由をつけて、他人との関係を絶っているのだと思いますが、どうでしょうか? 女子学生が自分の赤面症を利用したように、きみは自分の性格を利用し続けてきたのではないでしょうか。」

若者はさすがにムッとする。

「あなたはサディストだ。」

と彼は声を荒げる。哲学者は言う。

「他人との関係を持つ中で、他人を傷つけなかったり、自分が傷つかなかったりすることは、あり得ません。アドラーは、そのためには、完全に一人で生活する以外に道はないと言っています。」

「もし、世界に自分一人しかいなければ、耐えられないような孤独を感じるでしょうね。」

若者は皮肉めいた答え方をする。それに対して哲学者は、

「いや、孤独は他人との関係の中で感じるものです。人間は常に他人を意識しています。そういう意味では、完全に一人ではありません。」

若者は尋ねる。

「ということは、もし宇宙に一人だけなら、対人関係の問題は起こらないということですね。」

「アドラーは、『全ての』問題は、対人関係の問題であると言い切っています。」

哲学者は断言する。若者はまだ納得できない。

「人間関係が、多くの問題の原因であることは認めます。でも、『全て』と言い切るのは。ちょっと行きすぎじゃないですか。例えば、自分自身の問題はどうですか。幸せ、自由、人生の意味とか。」

「きみ自身の問題も、元はと言えば、対人関係の問題なのです。『対人関係の問題』を別の角度から見ると『劣等感』ということになります。」

哲学者はここで新しい言葉を持ち出す。

「そうそう、僕が言いたかったのは、その『劣等感』です。僕は常に劣等感を感じています。例えば、同じ年代の人間が成功し、金持ちになっているのに、自分はそうではない。他人は楽しそうなのに、自分はいつも落ち込んでいる。僕は、毎日劣等感の中で生きているようなもんです。」

哲学者は突然話題を変える。

「私を初めて見たとき、どう思いましたか?」

「思っていたより背が低いなと・・・」

「私は一メートル五十五しかありません。確か、アドラーもそんなものだったかな。若い頃、後二十センチ、いや十センチ背が高かったら『まともな人生』が送れるのでは、そう思っていました。そんなとき、友人がこう言いました。『もっと背が高かったらどうなるんだ。背が低いことで、何の不便があるのだ。』それを聞いて、私は考えを変えました。『身長が一メートル五十五である』ということは客観的な事実です。しかし、それに『意味』を与えるのは自分なんですよ。それは、主観的なものです。『身長に対する劣等感』というのは、あくまで他人との比較の上で感じるものです。『劣等感』は、他人との比較の上に成り立つ、あくまで主観的なものなのです。『客観的な事実の主観的解釈』そう言ってもいいでしょう。客観的事実なら変えることはできないが、主観的な解釈なら変えることができるでしょう。」

哲学者は若者に問う。

「劣等感は、自分の価値判断と密接に関係しているんですよ。ダイヤは只の石、貨幣はただの紙です。それに価値を与えているのは、人間の判断なんです。そして、この『価値』の問題をよく考えると、また、対人関係に戻ってくるんです。」

若者が口をはさむ。

「劣等感は、対人関係から生まれる、それは何となく分かるような気がします。でも、超金持ち、超美人、オリンピックチャンピオンなどの人は、劣等感とは無縁ですよね。」

哲学者が答える。

「ちょっと待ってください。劣等感は誰もが持っているし、本来、悪いものではないのです。人間はもともと個としては弱い存在であり、その弱さから抜け出したいという願望は、誰もが持っているものなのです。誰も、他人より優れたい、今の自分よりよくなりたい、そんな願望を持っています。赤ん坊だって、先ず立とうとして、言葉を話そうとするじゃないですか。劣等感と向上心は表裏一体なんです。今の自分が不十分だと思うからこそ、向上しようという気持ちが生まれてくる。アドラーは、『劣等感は成長の糧である。』と言っています。」

「では、劣等感は、一種の起爆剤であると・・・」

若者が確認しようとする。

「その通りです。人間は、現在に満足しないからこそ、もっと良くなろうと努力をする。しかし、そうでない人もいます。『努力をしても変わらない』、『自分はどっちみち良くはなれない』、そう考えている人がいます。それは『劣等感コンプレックス』と呼ばれ、『劣等感』とは区別されています。『コンプレックス』とは本来『異常な精神状態』を表す言葉なんです。」

「なるほど、『マザコン』、『ロリコン』、否定的な意味に使われますよね。」

「劣等感は、向上の原動力になります。劣等感コンプレックスは言い訳にしかなりません。それは『AだからBになる』という短絡的な紐づけから生まれているにすぎません。」

若者が反論に転じる。

「ちょっと待ってください。『教育のレベルが低いので、いい職業に就けない』これは、言い訳でなく、事実ではありませんか。」

哲学者が答える。

「アドラーはそれを『見せかけの原因』と呼んでいます。フロイトは『両親が離婚したから、自分は結婚できない』と考えます。それに対して、アドラーは『自分は結婚したくない、そのために両親の離婚を言い訳に使っている』と考えます。この場合『両親の離婚』は『見せかけの原因』なのです。」

若者がさらに反論する。

「でも、教育レベルが低ければ、よい職業に就きにくいというのは、『事実』じゃないですか。」

「それは、本人が、成功したくないからです。一歩踏み出す勇気がないからです。」

哲学者は若者の反論を一蹴する。

「そんな人は、『もしいい教育を受けていたら、もっといい職業に就けたのに』と考えます。前にも言ったように、『もしOOだったらXXができるのに。』そう考えている限り、OOが起こることはありえません。アドラーはまた、『誰も、長時間、劣等感を持ち続けることはできない』と言っています。劣等感は、現在の自分に不足を感じているということでしょう。当然、どうしてその不足を埋めようかと、人間は考え始めるわけです。しかし、世の中にはそれをしない人もいる。それを、先ほどの『劣等感コンプレックス』と呼ぶんです。しかし、そのうち向上できない自分を、許容できなくなってくる。そこで、自分が他人より優れていると思い込ませようとするわけです。それを『作られた優位性』と呼びます。その一つが『代理』です。他人の力、別の物を使って、自分をよく見せようとする。つまり、優れている人や物に自分の代理をやらせるわけです。例えば、指に宝石の入った指輪をはめまくるとか。」

哲学者は続ける。

「また、やたら昔の成功談をすることも、『劣等感コンプレックス』の症状です。しかし、その人たちは、本当に、過去に優れていたのでしょうか。アドラーは、『自慢話をする人の大部分は、劣等感コンプレックスに陥っている』と言います。もし、現在本当に優れた人なら、昔に舞台を移す必要はないわけですから。」

若者は思い出したように、

「そうそう、自分は不幸なんだという話ばかりする人もいますよね。そんな人は『優越感コンプレックス』とでも言うんでしょうかね。誰かが慰めようとすると、『あなたには私の気持ちが分かるはずがない。』と言う人が。」

哲学者の説明は続く。

「そんな人は、自分の不幸を通じて、自分を他人から引き立たせようとしてるんです。人間には、『特別でありたい』という願望があって、その一つの形です。劣等感を利用して、他人の注目を集めようとしているんです。そんなことをすれば、周囲の人は、誰も話しかけてこなくなるのですが。きみの友人の、部屋に引き籠っている人も、その典型でしょう。」

「アドラーは『我々の文化では弱点が武器になる。』と言っています。自分の弱さを武器にできるんです。その意味では、赤ん坊はこの世で一番強い存在かも知れません。その弱さで、周囲の大人を支配できるのですから。『あなたには私の気持ちが分かるはずがない。』ということは、ある程度は真実かも知れません。しかし、それを利用する限りは、周囲の人間は皆離れていくでしょう。アドラーは、劣等感や、他人より優越したいという欲望は普通のものだと言っています。しかし、それが度を超すと問題なのです。」

若者はまだ完全には納得できていない。

「じゃあ、どうしたら、人に対して優越感を持ちたいという心を抑えることができるんですか?」

哲学者は答える。

「アドラーは、人々が一律に前に進んでいる状態を理想だと考えています。途中で、誰かが誰かを追い越すということではないのです。人生は他人との競争ではありません。自分が、前に進むことだけを考えればいい。他人を追い越そうなどと考えないで。」

若者は異議を唱える。

「そんなこと不可能ですよ。我々は常に他人と比較されています。」

哲学者は言う。

「『正しい劣等感』とは、他人との比較の上に生まれるのではなく、『理想としている自分』との比較の上に生まれるものなのです。人は皆違います。人そのものは同じではない。それぞれが、同じだけの価値を持つということなのです。」

「大人も子供も、同じだけの価値を持つんですか。」

若者が質問する。哲学者は答える。

「知識や経験、責任などは、もちとん大人の方が上です。しかし、それらは人間の価値とは関係がない。子供は大人と比較してではなく、人間として扱われるべきなんです。」

「人間は同じと言いますが、劣等感を持った人も、優越感を持った人もいるじゃないですか。」

哲学者は続ける。

「人の前に来ようが、後ろに来ようが、そんなものはどうでもいいのです。我々は平らな二次元世界に生きているのではないのです。三次元の世界なので、上にジャンプできるんです。私はあらゆる競争から身を引いています。勝者や敗者になることには興味がありません。」

それに対して若者は言う。

「あなたのような老人はそれでもいいかも知れないが、若者にとって、競争はエネルギーの源だと思います。」

哲学者は言う。

「競争に相手は必要ないのです。」

若者はきょとんとした顔をする。

「競争は、理想とする自分とするものなのです。他人と競争する限り、人々は幸せになれません。それは、他人との競争の中で『勝者』、『敗者』が生まれるからです。Aは私よりいい大学に入った、Bは有名な会社に就職した、Cは美人の嫁さんを貰った、勝ち負けを考えるから、そこから優越感、劣等感が生まれるのです。」

「他人がライバルになるのですね。」

哲学者が若者の言葉を続ける。

「『ライバル』?いや、『敵』になるんです。他人を敵だと考えると、周囲の人々が自分に不安を与えるようになります。そして、周囲の人間がだんだん信じられなくなり、世界は危険な場所になるのです。勝っていても、負けていても、敵を作ることに変わりはありません。」

哲学者は続ける。

「ある男の子が、毎朝長い時間鏡の前に立って、自分の容姿を気にしていました。お祖母さんがそれを見て、『誰もあんたの恰好なんて、気にしちゃいないよ。そんなことを気にしているのは、あんただけだよ。』と言いました。その一言で、その男の子は気が楽になったといいます。つまり、他人と張り合うことの無意味さを知ったからです。」

若者は自分の少年時代を語る。

「僕は、ティーンエージャーのときから、常に周囲の人を『敵』として捉えていました。僕には三歳上の兄がいます。兄は、運動も勉強もできて、明るい性格で皆から好かれていました。両親も、兄にだけを可愛がるようになり、だんだん僕には関心を示さなくなりました。兄との競争に敗れて、僕は劣等感の塊になってしまったわけです。」

哲学者がコメントする。

「他人は他人、お兄さんはお兄さん。別の存在なのです。人間関係を競争と捉えてはいけません。周囲の人は『敵』ではなく『味方』なのです。一緒に助け合っていく人たちなのです。その人たちの幸福は、きみの敗北ではありません。と言うことは『敗北』を怖れる必要もないのです。もし、他人を『味方』と考えたら、世界観が変わります。世界は、きみにとって、そんな危険な場所ではなくなるはずです。また、『もし、別の両親の下に生まれてきていたら、もし兄がいなかったら』そんな風に過去に原因を求めてもいけません。」

「でも、トラウマは存在しますよね。人間は過去から逃れられない。」

若者がそう言うと、

「確かに、人間は過去に戻れません。しかし、過去の出来事に、どのような意味を見出すのかは、現在のきみなのです。」

「あなたは、人間は怒りの感情は、自分で作り出されるものだと言いましたよね。じゃあ、社会や政府に対する怒りはどうなるんですか?」

若者は別の切り口から質問をする。

「確かに、社会に対して、感情が高ぶることはありますよね。でも、それは冷静な分析に基づくものなのです。個人的な怒りの感情と、社会の不公正に対する憤りは違う。前者は一時的なもので、後者は持続的なものなのです。」

「でも、あなたも怒ることはあるでしょう?他人に侮辱されたときとか。」

若者がそう尋ねると、哲学者は答える。

「そんなとき、私は相手の人間の隠された目的を考えます。」

「隠された目的?」

若者は驚く。

「子供が、大人の前で、わざと行儀の悪い行いをすることがありますよね。それは、大人の注意を自分の向けるという目的があるんです。だから、目的を達したら、子供はそれを止めます。これが『隠された目的』です。きみが友人と政治について議論をしている。そのとき、友人が個人攻撃を始めたらどう思いますか。」

「耐えられませんね。」

「そうでしょう。そんなときは、友人の『隠された目的』を考えるのですよ。おそらく力比べを挑んでいるんではないかとか。そんなときは巻き込まれないことが大切です。反論すべきではありません。もし、そこで止めないと、次の段階に進むことになります。」

「次の段階って?」

哲学者は、さらに新しい概念を導入する。

「『復讐』ですよ。その場は納まっても、人間は次に復讐を考えるものです。例えば、親に虐げられた子供が非行に走るのは、親への復讐なんです。それは結果ではなく、目的を持って行われているんです。」

若者は驚いて聞く。

「親を困らせることで復讐をしているんですか?」

「その通り。そして、人間関係が復讐の段階まで悪化したら、修復することはほぼ不可能です。」

若者と哲学者の問答は続く。

「じゃあ、相手から攻撃されたら、どうしたらいいんですか?」

「何も答えないで、その場から立ち去ることです。」

「その際、どうして怒りの感情を抑えるのですか?」

「感情を怒りに変化させないようにするんです。怒りも一種のコミュニケーションの形ですが、怒りがなくてもコミュニケーションは取れるはずです。怒りなしで、対処することを学ぶことです。」

「じゃあ、他人が怒りを露わにしたら?」

「怒りは忍耐を通り越したものでなく、コミュニケーションの手段として意識して選ばれたものです。他のもっと効果的なコミュニケーションの方法に持って行くようにしたいですね。また、どんな場合でも、相手を批判してはいけません。それだけで、相手との力比べに巻き込まれることになります。」

「もし、自分が正しいと、思っていてもですか?」

「自分は正しい、と言うことは相手が間違っているということになります。そうなると、相手に勝たねばならないという競争が生まれる。もし、自分が正いと信じていたら、争う必要さえないでしょう。また、自分の誤りを認めることは、負けを認めることだという考えも間違っています。謝罪することや、争いから引き下がることは、負けではないのです。勝ち負けにこだわっていれば、正しい判断力を失います。」

若者は、少し理解したという表情になった。

「なるほど、人生は他人との競争ではない。他人は敵ではなく味方なんですね。」

「そうです、不幸な人に欠けているのは、幸せになろうという『勇気』なんです。そして、そんな人は、『人生の課題』から逃げているのです。

「アドラーの心理学には、二つの確固とした目的があります。それは、

�@        自立すること

�A        社会と協調して生きること

です。そのために必要なことは、

�@        自分には能力があるという自覚

�A        他人は自分の味方であるという自覚

ということです。」

「でも、自立していて、しかも、社会と協調するというのは、ちょっと難しそうですね。」

哲学者は、また新しい概念を持ち出す。

「その目的を達成する鍵となるのが、『人生の課題』です。アドラーは『人生の課題』を三つのカテゴリーに分けています。

�@        職業上の課題

�A        友人との課題

�B        愛の課題」

若者はまだよく理解できない。

「その『課題』って、納税のように義務なんですか?」

「ここでいう『課題』とは『社会との結びつき』と言ってもいいです。それらは、『距離』と『深さ』で表すことができます。つまり、『職業上の課題』ということは、職業を通じての、社会との結びつき」と言うことです。」

「なるほど、何となく分かったような。」

若者は少し理解した。

「ではまず、『職業の課題』から始めましょう。職場で、人々は同じ目的を持って働いています。良い成果を挙げたいとか。そして、勤務時間が終わったり、仕事を辞めたら、その関係はなくなってしまいます。きみの友人で、働かないで閉じこもっている人は、おそらく、仕事そのものよりも、仕事の上での人間関係を避けたがっているのでしょう。仕事そのものではなく、職場で、他人から批判され、自分の尊厳が失われるのを怖れているのだと思います。」

若者が話を進める。

「じゃあ、友人との関係における『課題』はどんなものになりますか?」

「仕事上の関係に比べると、強制力は少ないですね。でも、場所が限られていないので、仕事上の関係以上に難しいでしょう。私は若い頃、友人と呼べる人物がいなかったんです。自分でも欲しいと思わなかったし、先生も『友達が必要ない人間もいる。』と言ってくれました。唯一、友人と呼べる人物ができました。彼は大学に行かないで、登山に熱中し、今はアジアの国でジャーナリストをやっています。今でも、友人は数が多ければいいというものではないと思っています。友人関係で言うと、自分が変われば、他の人の自分に対する態度も変わるということです。つまり、自分を変えることは、他人を変えることでもある、と言うことです。」

哲学者は付け加える。

「私は、きみの訪問により、若い友人が一人できました。」

若者が驚いて聞き返す。

「ええっ。僕とあなたが友人ですか?」

「同僚でもない、カウンセラーと患者でもない、だったら友人でしょう。かけがえのない。」

若者は当惑した顔をする。

「では、次に『愛の課題』について考えてみましょう。分かりやすくするために、『恋愛関係』と『親子関係』を別々に考えていきましょう。まずは『恋愛関係』。同僚や友人が恋人になると、全てが変わりますよね。距離はより短く、関係はより深くなる。アドラーは、恋愛のパートナーの行動を制約することを、認めていないんです。相手が嬉しければ、自分もそれを喜ばなければいけない。」

「そんなことをしたら、不倫や浮気を増長することになりませんか?」

若者は少し不審げな顔をする。

「いや、私は不倫や浮気のことを言っているんじゃない。もし、関係が強制と制限に支配された、その人の前で自由に振舞うことができなければ、それはもう愛と呼べないということです。劣等感も、優越感も持たないで、リラックスして付き合えなければ、愛とは言えません。アドラーは、パートナーと上手にやって行こうと思ったら、対等の人間性を持たなければならないと、言っています。恋愛や結婚は、まだ『別れる』という選択肢がありますよね。でも、親子関係はそれができません。恋愛関係を、『赤い糸で結ばれている』と表現するならば、親子関係は『鉄の鎖でつながれている』とでも言えるでしょうか。逃げることはできません。それだけに、一番難しいと言えますね。」

哲学者は続ける。

「人間は、完全に一人で生きてくことはできません。社会的な環境の中で『個人』として生きてくだけです。アドラーの心理学では、『個人としての自己責任』と『社会の中での共同作業』が最終目的になっています。そして、そのために克服しなければならない課題は、『仕事』、『友人』、『恋愛』における人間関係だと、言うことができます。」

若者が質問する。

「人生の『課題』から逃げていると、他人を味方ではなく敵だと捉えてしまう、その理由が分かりません。」

「例えば、きみが、ある人を嫌っている、それは、その人の持つ欠点からだとします。しかし、それは、その人と関係を持ちたくないという『目的』を達成するために、きみが欠点を探してるだけにすぎません。」

若者は納得できない。

「どうして、そんなことが言えるのですか?」

「一度好きになって人の別れを考えてみるといいですよ。欠点があって、一度好きになって、一緒にいたじゃないですか。その場合、相手の人は何も変わっていなんです。きみの中に、その人と一緒にいたくないという目的がまずあって、そのために材料を探したにすぎません。人間はエゴイストで、他人の欠点を見つけては、自分のために使おうと考えているんですよ。その結果、他人を敵だと思い始める。それは、人生の課題と向き合うことを避けて、よい人間関係を遮る行為なのです。人間が、人生の課題と向き合うことをさけるために行う方法を『人生の嘘』と呼んでいます。自分の課題から逃れるために、他人のせいにする、それが一つの例です。」

若者はちょっとムッとして言った。

「でも、僕がどうして嘘をついていると言うんですか?あなたは、僕について何も知らないでしょう。」

「確かに多くは知りません。しかし、今の君のライフスタイルを選んだのはきみ自身、他の誰でもないということだけは、知っています。」

「とんでもない!」

若者は叫ぶ。

「もし他人が選んだなら、きみは責任から逃れることができます。しかし、自分で選んだなら、自分で責任を取らなくてはいけない。」

「他人を嘘つきだ、臆病者だと言って、全ての責任を他人になすりつけているのは、あなたじゃないですか。」

「道徳的に良い悪いの問題じゃなく、単なる勇気の問題なのです。」

「なるほど、アドラーはとにかく『勇気の心理学』であることは、よく分かりました。」

哲学者は続ける。

「アドラーの心理学は、同時に『応用の心理学』でもあります。人の価値は、どこで生まれたかではなく、どのように使われたかによって決まると。フロイトの心理学は『所有の心理学』でう。その人が何を持っているかが重要で、決定論的です。それで、どのようにっ自分を使っていくか、どのように行動するかを決めるのは本人なのです。アドラーは、人間はトラウマに支配されるほど弱くない、人生というライフスタイルを自分で選ぶことができると説いています。」

若者は不満げである。

「じゅあ、僕を勇気のない人間だっていうのですね。『勇気を持て』そんなことなら、どんなスポーツのコーチだって言いますよ。そう言われても、勇気が湧いてこない、それが問題なんです。」

哲学者は議論を終わりにする。

「分かりました、どうしたら勇気が持てるのか、考えていきましょう。今日はもう遅い。これくらいにしましょう。『勇気』について話す前に、まず『自由』について話しましょう。自由とは何か、次回までに考えておいてくれますか。では、また、近いうちに。」

 

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