防御的な方法と攻撃的な方法

 

タイヤがパンクする、雨が降り続く、家賃が上がる、自分の意志に反して不運なことは常に起こりうる。そのとき、どのようにすれば平静さを保てるのであろうか。例えばタイヤがパンクしたとき、

「大切な約束のある昨日でなくて良かった。」

「自転車に乗るという少しでも健康なことが出来るチャンス。」

と考えるとか。自分の意に反したことが起こったとき、それを克服するには「防御的」、「攻撃的」という二つの方法がある。防御的方法は、その出来事を避けられないものとして受け入れる。つまり、要求、期待度自体を下げる、攻撃的方法は、満足を得るように努力する、つまり、そのような出来事が起こらないように努める方法である。

 人間、こうしたいと思っていることをなかなか実行、実現できないことがある。例えば、両親は子供に色々なことを期待し、その通りにならずに失望する。しかし、それに対して、何が悪かった、誰が悪かったのかを捜すことは、何ももたらさないし、かえって悪い気分になるものだ。欠点や逃がしたチャンスばかり捜す者は、自動的に不満足への道を歩むことになる。それは自分自身に対してだけでなく、世間に対しても同じことだ。理想に比べて悪い点を減点することを繰り返していると、マイナス点がどんどん溜まっていき、理想と現実のギャップが年と共に大きくなるばかりである。悲しいことは常に起こりうる。しかし、それに囚われていてはいけない。何かをしないといけない。防御的に理想を変えるか、攻撃的に現実を変えるかを通じて。しかし、もうできないことも沢山ある。例えば、六十歳を過ぎて別の職業に就くとか、四十歳半ばで子供を産むとか、年齢的な制限がある。また、性格的な制限もある。しかし、人間、常に変われる余地はある。自分をコントロールする力を持っている。悲しい出来事に出会っても、いつまでも悲しまず、他の楽しいことを見つけることや、変えられることを変えていくことができる。

 我々は自分で決断することができる。例えば、余り付き合いのない隣人から気の乗らない招待を受けたとする。行くか、行かないかの決断は自分に任されている。まずは、招待を受けた場合と、断った場合で予測される結果を比べることだ。現実的に考えることが、心の中の葛藤を解決する方法だ。その際、何か楽しいことがあると考え、嫌なことを良いことに変える、不満足を満足に持って行く、それが大切である。ダライラマは、

「やるならば心をこめてやれ。」

と述べている。

 現実を受容するか、現実を変えていくかは重大な問題である。アジアの金言に、

「私に、変えられない物を受け入れる冷静さをください

私に、変えられる物を変える勇気をください

そして私に、それを見分けられる賢明さをください」

というのがある。現実を受容するのがよいか、変えていくのがよいか、見分けるためには、一度自分の心の中を、次の基準に従って「棚卸し」してみるのがよい。

1.        何が自分に不満足を与えているか

2.        それは実在するものか想像の産物か

3.        自分は不満足を本当に変えたいか

4.        自分は不満足を与えるものを変えることができるのか、それとも受容することを学びたいのか

 

質問一:何が私に不満足を与えているのか

不満足の原因を知るためには、自己を知ること、現実的な自己判断が前提となる。ひょっとしたら他人のものではないかと一度疑ってみることが必要だ。

 

質問二:それは実在するものか想像の産物か

次に自分の判断が本当に正しいか疑ってみる。特に自分に自信のあるひとはそれが大切だ。自分の抱いている像は正しいか、他人もそう思っているかを考えてみる。人間には、他人に自分と同じように感じて欲しいという願望がある。考えていることは行動に現れる。自分が魅力的だと思っている人は、本当にどうかに関わらず、他人に輝きを与える。また、ネガティブな面も同じ、それが他人に伝わる。それは、親が子供に無言の影響を与えているのと似ている。他人が自分についてどう思っているかはなかなか分からない。自分の思っているのと違う印象を他人が持っていても、それを知ることは滅多にない。分からない場合はどうしても否定的な考えてしまう。しかし、昨日起こった不愉快なことを何時までも考えてはいけない。どこかで「ストップ」と宣言して、気持ちを切り替える必要がある。

 

質問三:自分は不満足を本当に変えたいか

自分の不満足の原因が想像の産物であったとしても、それは評価の対象とならねばならない。ストア派の哲学者は言う。

「人生を困難にするのは他人や周囲の出来事ではなく、自分自身である。」

自己評価は数学的なものではない。スポーツは苦手だが手は器用。喋るのは苦手だが身体で表現できる等、ひとつのことも良い評価と悪い評価の両方ができる。歳を取ったという通常否定的な評価も、歳のわりにはフィットという肯定的な評価につなげられる。「棚卸し」をやることにうより、防御的な方法を学ぶことができ、結果的に否定的な考えも、自分の感情を豊かにしてくれることに気付くことができる。

 

質問四:自分は不満足を与えるものを変えることができるのか、それとも受容することを学びたいのか

上記の三つの質問に「イエス」と答えて人は、「防御的な方法を取るか、攻撃的な方法を取るか」、「変えるか、受容するか」を選択する岐路に立つ。実際、自分のコントロール外のことも、色々な方法で対峙することはできるものだ。

周囲の状況を変えられなければ、自分が変わるしかない。自分の要求を下げるしかない。

「悪いことは存在する。しかし、それがより悪くなるのは、自分がいつまでもそれを悪いと考えているからだ。」

要求を下げることは簡単なことでないが、思ったほど辛いことではない。要求と、成功の兼ね合いによって、自尊心が形成される。

 

メリットとデメリット

 

戦うこと、受容すること、それぞれに良い結果、悪い結果をもたらす。戦う方が簡単と言える。満足感が強いし、結果を喜ぶことができる。努力は必要だが、評価されやすい。若い人はこちらを選ぶ傾向がある。しかし、言うまでもなく、攻撃的な方法は失敗がつきまとう。その結果、以前よりも一層不満足を感じることもある。また、ゴールに良い状況が常に待っているとは限らない。パートナーや職業を変えて満足を得ても、その満足がいつまでも続くとは限らない。いずれの方法もそれに向かって努力をしなければならない。いずれを取るかは、要求の高さによる。要求が高い場合は、防御的方法にした方が無難である。

防御的な方法を取ることは近年困難になってきている。それは、消費社会の風潮、科学技術の進歩で、攻撃をすることが容易になってきているからだ。例えば子供がいないことに不満足な夫婦にとって、人工授精が可能になったことなど。あきらめるということは苦痛を伴う。受容することにも努力が必要なのである。「攻撃>失敗>不満足>攻撃>失敗>より大きな不満足」という「悪魔の輪」に陥らないようにするためには、悪い所もあるが、その中に良い所を見つけて満足するという姿勢が必要である。

防御的な方法は結構難しい。それは他人との比較をし、「比較の罠」に囚われてしまうからだ。他人との比較自体は悪いことばかりではない。子供は、自分を他人と比較して、できないことをできるようにしようとして、成長していくのであるか。しかし、大人になってからも、人は他人と自分を比較することを続ける。金、家、車などを他人と比較し、常に他人と競争しながら生きている。誰が一番賢いか、金持ちか、きれいな妻を持っているか、そんな会話は、かつて友人同士の間に限られていた。しかし、現在ではインターネットや、ソーシャルネットワークにより、広範囲の人々との比較が可能になった。それらは人々の良い面ばかり強調して見せるので、他人のもの、他人の生活が良く見え、そこに嫉妬が生まれる。実際インターネットを見ていると、現実には考えられないような素晴らしい世界があると錯覚し、他人がパーフェクトな暮らしをしていると、錯覚してしまう。

米国のアレクサンダー・ジョーダンは述べている、

「幸せになることは簡単だ。しかし、他人より幸せになることは難しい。」

それは他人の芝生は常に綺麗に見えるからである。ジョーダンが学生に行った調査によると、自分や周囲の人々が、どれだけポジティブ、ネガティブな目に遭ったかを質問すると、他人のネガティブな出来事は過小評価され、ポジティブな出来事が過大評価されるということが分かった。また、他人のネガティブな面に目が行く学生は、孤独感を感じ易いことも分かった。防御的な方法の肝心な点は、他人との比較をやめること、前の自分と比べるようにすることである。

 

ケース・スタディー、マリオン・シュタインベルクの場合

自分の願望を諦めることは、どれほど自分を解放するか

 

マリオン・シュタインベルクは四十歳のとき、子供を作ろうと決心した。三十五歳で今のパートナーであるペーターと出会い、しばらくは二人だけの生活を楽しんだが、子供が欲しくなった。避妊をやめたが何も起こらない。もちろん彼女は、年齢を経ると共に妊娠することが難しくなることは知っていた。しかし、若い頃、彼女には適当なパートナーがいなかった。セックスのタイミングを考えたり、アルコールを断っても効果はない。やっとホルモン療法により二度妊娠したが、二度とも流産をしてしまう。それは彼女にとって大きな失望であった。四十一歳になり、医者に普通の方法では子供を作ることは難しいと言われる。その後も、体外受精など、色々な方法を試みるがどれも成功しない。その度に子供に対する願望はどんどん強くなっていき、マリオンは麻薬中毒のように、金を惜しまず、次から次へと方法を試した。しかし、他人の腹を借りて子供を育ててもらう「借り腹」をやる前に、物事には限度のあることに気付いた。そして、これまでの試みが、自分に不幸をもたらしていることにも。彼女は子供を作ることをあきらめることを決意した。これまで莫大な金を注ぎ込んでいることもあって、それは苦痛を伴う決断だった。しかし、周囲の人々も彼女を決断を指示し、喜んでくれた。彼女は、立ち直るためにカウンセリングを受けた。「あきらめる」、「やめる」ことは辛いことだが、子供をあきらめることは最も辛い選択だったと彼女は感じる。それは、子供を持つこと、親になることが、人間にとって一番自然な願望であるからだ。しかし、望んでいたことを諦めた悲しみは、時間的にも空間的にも限られたものである。フロイトは、悲しみにもそれなりの役割があり、それを克服したとき新しい段階へ進めると述べている。「儀式」もその悲しみを乗り越えるのに効果があると聞いたマリオンは、流産した子供の墓を建てた。何かに追われて生きることはストレスになる。マリオンとペーターはそれから解放され、再び物との生活に戻った。