満足している人間は、どんなことをするのか

 

昼休みの社員食堂。人間を観察するのに絶好の場所だ。隣の人の取った料理が自分のものよりいつもよく見える人がいる。新しい料理を取って失望したくないために、毎日同じ料理をしか取らない人もいる。「好奇心」これは満足を得るために大切な要素である。カシュダンは、何が満足を起こさせるかの研究をしているとき、好奇心の強い人ほど満足度が高いということを発見した。満足を得るためには、新しいことへの挑戦が必要なのである。しかし、新しいことへの挑戦が、常に上手くいくとは限らない。失望や退屈が待っていることもある。しかし、新しい世界に触れることは人生を豊かにし、精神的な成長の踏み台となる。新しい物の中に楽しみを見つけられる人は、自分を進化させていくことができ、それが満足につながる。

満足度の高い人に他に共通の特徴があるとすれば、まずは「希望」、「人助け」、「感謝」であろう。まず「希望」、良くなると思うことが大切である。最初はそれほど良いと思わなくても、後で良いものに変化することがある。次に「感謝」、特に自分の境遇に感謝することが大切である。持っていない物のことを考えるより、持っている物について考えることが満足につながる。そして、「人助け」、他人に良いことをするで満足感を感じることができる。人を助けることは社会のためだけではなく、自分のためでもあるのだ。「与えることは貰うことより恵まれたものである」とリュボミルスキーが言っている。またそのような「利他主義」は他にもよいことがある。自分で自分を良いと思うことが、他人に対して自分を良く見せる方法でもあるのだ。また、自分が悩んでいると、人に与えることはできない。逆に人に与えることにより、悩みを排除することができることもある。

パートナー、友人、家族など、誰かと一緒にいることが、満足につながる。また犬などのペットでもよいのである。英国で「友人に値段をつけるとするといくらになるか」という調査がなされた。八万五千ポンド、当時の十二万四千ユーロという高い値段がついた。皆が、友人はかけがえのないものと考えている証拠である。固定したパートナーを持つことが、満足に対する大きな要因であることも、明らかになっている。

社会的との結びつきが強いことは、満足を必ずしも保障しない。また、フェースブックなどのソーシャルメディアは真の人間関係とは遠いものである。また、テレビも満足に、悪影響を与えている。テレビをより長く見る人は、満足を感じる割合が低くなる傾向が証明されている。しかし、人生に満足していないから、テレビの前に座っている時間が長いとも考えられなくはない。しかし、リュックリーゲルは、テレビという受動的かつ非社交的な物に時間を使うことは、社会的な関係を深める時間を奪い、満足度を奪うと断言している。

金はある程度は幸福に貢献するが、それ以上は幸福の、ひいては満足に貢献しない。もちろん、金は物質的な基礎として必要であるし、金が極度に不足すると満足も得られない。しかし、職業で多額の金を儲けることは、ときには家族や友人を犠牲にして、職業に集中することを意味する。収入は、最初は満足度に比例するが、ある程度になると、満足度に貢献しなくなる。米国での調査によると、年収が七万五千ドルを超えると、収入が増えても、それ以上満足度は増大しない。つまり、それ以上の物は金で買えないのである。

満足度を得るためには、家族、職場や他の集団の中で、悲しみや喜びを分かち合える人間がひとりでもいることが大切だ。これまでは、困り事の相談相手としての友人が大切であると考えられてきた。しかし、調査の結果、友人に喜びを語り、喜びを分かち合うことにより、より満足が得られることが分かってきた。成功したこと、その喜びを他人に語ることにより、その記憶がより強く記憶に植え付けられるためだと考えられる。このことはパートナーの間でも大切である。良い経験、互いの成功を語り合えないパートナーは、早晩別れる運命にある。パートナーの間では、互いに相手の成功を称え、祝うことが大切だ。相手にとって良い知らせは正直に喜ぶことが。

また、満足を得るためには、愚痴を言わないこと、細かい事は気にしないことが大切である。逆に言うと、うつ病の人は、他人のわずかな変化に対しても敏感で、それを悪いように解釈してしまう傾向にある。それに対し、満足を得る人は、他人の変化を余り気にしないか、それを良いように解釈する傾向がある。満足しているから他人のことを気にしないのか、気にしないから満足を得られるのか、それは不明である。また、満足している人は、他人に対してだけでなく、自分に対しても、分析的でなく、完璧を求めていない。彼らは、常に規律を守らないでもよいと考えている。一応自分の目標は持っているが、その達成のための手段に対しては、フレキシブルである。細かいところに配慮することは大切である。しかし、その度が過ぎると疲れる。満足する人は「完璧」との戦いには最初から負けるものだと思っている。完璧主義者や悲観論者も、たまに上手く行った喜びを感じることはあるだろう。しかし、それは長続きしない。満足しない人間には、ずっと座っておれる、心地の良い椅子はないのだ。

 

ケーススタディー、フェリックス・クァドフリークの場合

 

フェリックス・クァドフリーク、五十六歳、彼にとって仕事は、生活するための手段で、目的ではない。彼にとって労働は最低生きていくための時間の、時間の切り売りに過ぎない。彼は大学を卒業し、働き始めて以来、週十五時間以上は働かず、自分の時間が最大限に持つように努めてきた。フェリックスは現在問題行動を取る子供たちに対するカウンセラーの仕事をしている。彼はどのような行動が自分のために役立つかを教えている。両親の余りにも大きな期待に押しつぶされた子供たちが彼の元に送られ、彼は他人から認められようとする行動ほど役に立たないということを教えている。彼は、自分の仕事に対し、子供たちに道を開けてやるかいう意味で遣り甲斐を感じしている。しかし、彼は九人以上の子供たちを同時に引き受けようとはしない。それ以上は彼自身にとっても、子供たちにとっても、多すぎると思っている。

フェリックスは自分の稼ぐ金だけで生活し、それ以上は望んでいない。彼は他人を羨まない。平均的なドイツ人の消費は大きい。しかし、満足を得るための消費には限界がある。金を使うことと満足度は比例しない。特にフェリックスのように極めて低い消費レベルを自分で選んだ人たちにとって、満足度と消費は全く関係しない。消費する金額が下から十パーセントの人たちも、満足度においては、平均的な商機金額の人よりも劣ってはいない。フェリックス自身、物質的には恵まれているとは言えないが、精神的には豊かであると述べている。

彼には趣味が多い。詩や戯曲を書く他、アマチュアの劇団に属している。しかし、彼はプロの俳優の道を志したことはない。それは、経済的、金銭的な圧力を受けたくないからである。彼は数年の間、電気も水道も電話もない庭の物置に住んでいた。のんびりと生きることは決して怠惰に生きることではない。人間、時間があると、普段気付かないことに気付くものである。

一九九〇年代になって、「燃え尽き症候群」にならないためにはどうすればよいのか、仕事と人生のバランスの必要性が話題になった。しかし、その前に、フェリックスはそれらを実行していたことになる。フェリックスは、働き過ぎの風潮に対抗する組織を作った。その組織は、仕事を生活の喜びの糧にする、仕事を支配することを目標にしている。現代の仕事に対するモラルは、自然のものではなく、後で形作られたものである。そして、それを人々が信じ込んでいただけなのである。

 

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