「耐えられない寒さ」

原題:Sankta Psyko (聖サイコ)

ドイツ語題:So bitterkalt (耐えられない寒さ)

2012

 

<はじめに>

 

寡作ではあるが、スウェーデン犯罪小説界の若手の旗手、ヨハン・テオリンが二〇一二年に発表した作品。エーランド島から離れて、初めてスウェーデンの本土が舞台になっている。精神病院の隔離病棟に収容された者たち、病院付属の保育園で働く者たちを巡るストーリー。

 

<ストーリー>

 

数々の殺人を犯し、現在は特殊精神病院に収容されているイヴァン・レスル宛の手紙。女性がレスルへの想いを綴っている。

 

ヤン・ハウガーはタクシーでスウェーデン、ヴァラの街にある、聖パトリシア特殊精神病院に向かっていた。タクシーの運転手は、近くの住民はその施設を「聖パトリシア」と呼ばないで、「聖サイキ(聖なる気狂い病院)」と呼んでいるとヤンに告げる。その病院には、連続殺人犯として有名な、イヴァン・レスルが収容されていた。ヤンが病院に着くと、病院長のヘグスメド医師がヤンを待っていた。ヤンは病院に付設されている保育施設の保育士に応募して、面接に来たのであった。ヘグスメド医師は、小さな子供のいる患者には、子供に会わせることにより病状が改善されることが多い。それで、子供を収容する施設を病院の隣に設け、定期的に子供たちと患者を面会させているという。病院と保育施設は地下のトンネルで繋がっていた。ヘグスメド医師はヤンの履歴書と紹介状を見る。どれも、ヤンが優秀な保育士であることを謳っていた。しかし、ヤンにはひとつだけ、触れてもらいたくない過去があった。それは、ヤンの故郷のルクスという保育所で九年前に起こった出来事であった。

ヘグスメド医師は、保育施設のメンバーにヤンを紹介する。園長のマリー・ルイゼ、リリアンとハナという女性保育士の他にもうひとりの男性保育士アンドレアスが働いていた。皆はヤンに好感を持ったようであった。

ヤンがこれまでの職場を辞めて、聖パトリシアに応募したのには理由があった。彼は、働き始めたころ、歌手のアリス・ラミと出会う。アリス・ラミは初めてのレコードを出してから一時的に注目されたが、その後、何故か全く情報がなくなっていた。ヤンが、前に勤めていた保育士たちと自分のアパートでパーティーをした際、保育士のひとりに、アリス・ラミの消息を知っている者がいた。アリスは、心を病んで、「聖パトリック精神病院」に収容されているという。ヤンはそれが聞き違いで、実は「聖パトリシア」であると考える。そのとき、聖パトリシア病院付属の保育所「リヒトゥング」が保育士を求めていたので、ヤンはアリスに会う可能性に賭けて、その職に応募したのであった。

翌週、ヤンはヘグスメド医師より合格の知らせを受ける。彼はイェーテボリのアパートを引き払い、ヴァラに移る。そこで、ヤンはアパートを借りて、保育園で働き始める。彼はある夜、近くのバーへ行く。その「ビルズ・バー」で彼は同僚のリリアンに出会う。そのバーは、病院のスタッフがよく行く場所だったのだ。演奏するアマチュアバンド「ボエモス」のメンバーも、何人かは病院の職員だということだった。

保育士の仕事のひとつとして、子供たちを、病院に収容されている父母との面会に連れて行くということがあった。ヤンは何度か地下の通路とエレベーターを使い、IDカードと暗証番号の必要なドアを通り、病院の中に入った。子供たちと親は、面会室で会っていた。「リヒトゥング」は保育園であったが、寄宿舎で生活している子供たちも数人いた。そのため、保士たちは日勤、夜勤、深夜勤の三交代で働いていた。基本的に夜勤、深夜勤を受け持つのはひとりの保育士だけだった。ヤンは、日勤、夜勤を済ませたのち、深夜勤を担当する。それは彼が待ち望んでいたことだった。ヤンは子供たちが寝静まった後、保育園から病院への地下通路を通って病院へ入ることを試みる。それはアリス・ラミに会うためだった。しかし、病院での警備が固く、ヤンは面会室より奥へは進めなかった。

保育園での読書の時間、ヨゼフィーネという少女が、ヤンに自分の読んで欲しい絵本を持ってくる。それは手で書かれた作者の名前のない、絵本であった。その中に登場する人物の名前「マリア・ブランカ」に、ヤンは何故か聞き覚えがあった。「ブランカ」という苗字は、アリス・ラミのレコードのカバーに、アリスが謝辞を述べている祖母の苗字であった。母親と会いに行くヨゼフィーネを、ヤンは面会室まで送っていく。彼は、絵本の作者がアリス・ラミで、ヨゼフィーネが彼女の娘であることと考える。

ヤンがある夜、ひとりバーで飲んでいると、男が話しかけてくる。それはバンドでボーカルをやっている男だった。彼はラース・レティックと自己紹介をする。ラースは、夜勤専門の看護師として聖パトリシア病院で働いていた。ラースは、ヤンに、患者と外部の間の手紙の運び屋をやってくれないかと依頼する。隔離病棟の患者は、外部とのコンタクトを禁じられていた。しかし、それを不公平だと感じた一部の職員が、密かに患者と外部の受け渡しをやっていると、ラースは話した。病院の出入り口で、入出者の荷物は厳重にチェックされるため、通常は手紙の持ち出し、持ち込みは不可能であった。しかし、保育園から地下通路を通って病院に入る子供たちだけは、そのチェックがなかった。それで、ラースはヤンに、面会室まで手紙を持って入ってソファの下に隠し、そこに隠されている手紙を持ち出すことを持ち掛ける。アリス・ラミに会うための病院内部の協力者が欲しいヤンは運び屋を引き受けることにする。

ヤンは再びビルズ・バーで、同僚と飲んでいる。深夜、酔ったヤンは同僚のハナと外に出る。帰り道、自分がかつて勤めていた保育園で、自分の受け持っていた園児が一時的に行方不明になり、その責任で辞任したことを語る。その後、ヤンはハナにそれを言ったことを後悔する。

 

ヤンの回想。九年前、ヤンは駆け出しの保育士として、故郷のルクスという保育園で働き始めた。ある日、新しい園児が入って来る。ウィリアムという金髪の小柄な男の子を、派手な恰好をした母親が連れてきた。ヤンはその母親に見覚えがあった。ウィリアムが森の中を歩いていると、地面に階段のようなものがあるのを発見する。落ち葉を取り除いて、階段を降りていくと、扉があり、そこを開けると、部屋になっていた。戦争中、防空壕か、軍の施設として使われたものらしい。ヤンはその地下室を片付け始める。部屋を掃除し、マットレスと毛布を持ち込み、食料と飲み物、玩具なのを運び込む。数日後、ヤンともうひとりの女性保育士シグリッドは、十七人の園児を連れて森に出かける。ピクニックをした後、ヤンは男の子たちと「かくれんぼ」をして遊ぶ。ヤンはウィリアムに、この矢印の方角へ行ったら、絶対に見つからない隠れ場所があるからと告げ、ウィリアムをそちらの方向へ行かせる。夕方になり、ヤンともうひとりの保育士は、十六人の園児を連れて、保育園に戻る。ヤンの他は誰も、園児が一人少なくなっていることに気付かない。園児を親に引き渡すとき、園児が一人いないことが分かる。ウィリアムが消えている。警察に通報され、ヤンも捜索に加わる。しかし、ウィリアムは発見できない。迎えに来た母親は憔悴した面持ちであった。夜保育園を出たヤンは、森の中の地下室を訪れる。そこで、ウィリアムはスヤスヤと眠っていた。

 

ヤンの回想。十四歳のヤンが目を覚ますと、見知らぬ部屋で眠っていた。頭が割れるように痛み、吐き気が激しかった。手首にも痛みがあった。彼が目を覚ますと、ヤンと同じくらいの歳の痩せた少女が傍に立っていた。ヤンは彼女に、自分はどこにいるのかと尋ねる。

「クラプセ。」

と彼女は答える。ヤンはその単語に聴きお呼びがなかった。

「『子供と若者のための精神科病院』の略よ。」

と少女は言った。少女はポラロイドカメラでヤンの姿を撮り、ヤンに手渡す。

ヤンは近所に住む男の子たち四人から、陰湿ないじめを受けていた。それに耐えられなかったヤンは、母親の持っていた睡眠薬を飲み、剃刀で手首を切って、この施設に収容されたのであった。少女は隣の部屋に住んでおり、アリス・ラミと言った。彼女はギターを弾き、歌を唄った。彼女は姉と共謀して、気に入らない継父を毒殺しようとして、この施設に入れられていたという。ヤンは学校のブラスバンドでドラムをやっていた。病院でドラムを見つけたヤンは、アリスの歌とギターとのセッションを始める。

ヤンはアリスに恋をしていた。ふたりは、病院のホールを借りて、コンサートをする。その中で、アリスは「アリスとヤン」という歌を唄う。ヤンはそれを聞いて感激する。次にアリスは「サイコおばさん」という歌を唄う。「サイコおばさん」というのは、病院で働く女性精神科医の名前で、彼女はその辛辣な言動で、患者から嫌われていた。特に、アリスは彼女を嫌っていた。アリスはその女性精神科医の悪口を並べた歌を唄う。そして、止めさせようとやって来た彼女を引っ掻く。コンサートは中止となり、アリスは懲罰室に入れられる。ドアの下の隙間から、ふたりは手紙をやりとりする。

「リスは壁を乗り越えて外に出たがっている。」

とアリスは自分の気持ちを伝える。

アリスは、ヤンに、病院から脱走することを持ち掛ける。ふたりは周到に準備をし、ある冬の早朝、脱走を敢行する。ふたりは毛布を柵の上の鉄条網に引っ掛け、それを伝って柵を乗り越える。しかし、ヤンは脱走をする前、職員の寝泊りする部屋をノックしていた。柵を越えたふたりは森の中を逃げる。アリスは逃亡に成功するが、ヤンは追って来た職員に捕まる。

数年後、ヤンはアリスが歌手としてデビューしたことを知る。彼は彼女のレコードを買い、何度も聴く。雑誌にあったポスターを壁に貼る。しかし、彼女の二枚目のレコードは出ることがなかった。ヤンはその後、アリスの消息を調べようとするが、アリスは忽然と表面から姿を消していた。

 

ヤンは、アリスの描いたと思われる三冊の絵本を調べてみる。そして、どのページにも黒い点があることを発見する。その小さな点は、リスの形をしているように思えた。ヤンはページをパラパラとめくってみる。するとアニメーションのようになり、リスがジャンプを試み、壁を乗り越えようとしている動きになった。それを見て、ヤンは、その絵本の作家が、アリスであるという考えを、いよいよ確かなものにする。アリスは、脱走を決意したとき、自分を「壁を乗り越えようとしているリス」に例えたからだ。

ヤンは「電子ベビーシッター」、を購入する。夜勤の時、そのマイクロフォンを子供たちの眠っている部屋に置き、自分がスピーカーを持って行動する。そうすれば、自分が病院に侵入を試みているときに子供たちに何かがあっても、それを察知して直ぐに戻れると彼は考えた。次の夜勤の際、ヤンはスピーカーを持ち、再び地下の通路を通り、病院への侵入を試みる。彼が病院に上がるエレベーターの前まで行くと、エレベーターが動きだす。ヤンが身を隠すと、エレベーターの中からひとりの人間が現れ、保育園の方へ向かう。暗くてその人物が誰であるのかは分からない。ヤンが保育園に戻ると、その人物は保育園の玄関から出て行ったところだった。ヤンの他に、病院へと保育園を結ぶ通路の認証カードを持ち、パスワードを知り、病院に出入りしている人物が他にもいることをヤンは知る。

ヤンはハナとふたりでいるときに、ヤンは昨夜病院から出てきて、保育園を通って外へ出たのはハナであると言う。ハナもそれを認める。彼女は、病院に収容されている人物を助けるために定期的に会っているという。数日後、その人物がイヴァン・レセルであることをヤンは見抜く。ハナはレセルの無罪を信じて、彼と会い、彼が無罪を証明する本を書くことを助けているという。ヤンは自分よりも病院の事情に詳しく、病院への抜け道も知っているハナと利用して、アリスに会うために病院への侵入しようとする。ハナは。マリア・ブランカという患者について聞いたことはあるが、実際には会ったことがないという。しかし、マリア・ブランカが、通常の「解放病棟」ではなく、自分や他人に危害を加える恐れがある患者専用の「隔離病棟」に収容されていることは知っていた。

「マリア・ブランカ」イコール「アリス・ラミ」という説をいよいよ確信したヤンは、自分が届ける患者への手紙の中に、自分の手紙を混ぜる。そこには、

「リスはまだ壁を乗り越えたいか。」

と書き、そこにヤンと言う名前と、昔の住所を書いておいた。

どうしても病院の、中心部まで入れないヤンに対して、ハナは床下の空間を使えば、病院に侵入できるという。ハナが深夜当直のとき、ヤンはそれを試みた。彼は地下の空間から初めて病院に侵入することに成功する。廊下を行くと、洗濯室があり、そこでひとりの男が働いていた。その男はヘッドフォンをして音楽を聴いているため、ヤンが近づいても気づかなかった。ヤンはその日の侵入をそこで中断し、保育園に戻る。

ヤンは、自分と同じアパートに住む老人が、洗濯室で、「聖パトリシア病院」と書かれた袋を使っているのを見つける。興味を持ったヤンは、理由を付けてその老人を訪れる。果たして、その老人は二十年以上に渡って、病院で洗濯係として働き、病院の中の様子を熟知していた。老人は、洗濯室にある荷物用のエレベーターを使えば、保育園との間にある地下通路に降りられることをヤンに教える。

ヤンが面会室から手紙の入った封筒を持ち出す。手紙を取り出すと、ヤンの昔の住所に宛てたものがあった。ヤンはその手紙の封を切る。便箋には、

「リスは壁を乗り越えたがっている。」

とだけ書かれていた。その手紙をアリス・ラミからのものだと確信したヤンは、彼女を病院から脱出させる計画を立て始める・・・

 

<感想など>

 

「ええっ、こんなのあり?」

と読み終わった私は言ってしまった。主人公にとってそれなりにハッピーエンドで終わることが多い中で、この小説は余りにも主人公のヤンにとって悲しい結末だったからだ。一言では、山本リンダ「どうにもとまらない」。

「噂を信じちゃいけないよ」

噂が真実の一端であることも多い。しかし、これは噂と、自分に都合の良い想像を組み合わせたストーリーを創り、それに賭けてしまった男の悲劇である。

また、初恋が誰もの心に残した足跡の深さを再認識する話でもあった。十四歳の頃、ヤンは年長の男の子たちの苛めに遭い、自殺を企てる。そして、青少年のための精神病院に入れられる。そのとき、隣の部屋にいた、ギターを弾き、歌を唄う一歳上のアリス・ラミに恋をしてしまう。彼は、アリスの脱走に手を貸し、自分も一緒に病院から逃げ出すが、アリスは逃げ遂せるが、ヤンは途中で連れ戻されてしまう。実際、ヤンは脱走などしたくはなかったのだ。アリスの隣の部屋で、毎日彼女の顔を見て過ごしたかった。その後、五年近く、ヤンはアリスを知る機会がなかった。ある日、ヤンはアリスが歌手としてデビューしたことを知る。彼はアリスのレコードを買い求め、雑誌にあった彼女のポスターを部屋に貼る。しかし、アリスは一枚目のアルバムを出しただけで、また消息が分からなくなってしまう。その間に、ヤンの心の中で、アリスがどんどん偶像化されてしまうのである。

この物語、精神病院付属の保育園で働き始めた二十九歳のヤンのストーリーが軸になっているが、時々、十五年前の青少年のための精神病院でのシーンと、九年前のヤンが保育士として働き始めたときのひとりの園児の行方不明事件が挿入されている。その三つのストーリーの関連性が最後に明らかになるのだが、これはかなり意表を突いていて面白い。

ヤン・ハウガーが主人公であるが、もう一人の副主人公が、病院に収容されている、連続殺人犯人のイヴァン・レスルである。しかし、彼は、他の登場人物の口で語られるだけで、最後の最後まで姿を現さない。顔のない登場人物という設定も面白い。

最後のシーンは出色である。こんな、ユーモアと、やりきれなさと、余韻を残した終わり方は最近お目にかかったことがなかった。まるで、落語の「落ち」のような終わり方であった。

作者のヨハン・テオリンは第一作の「こだま」(二〇〇七年)で、その年のスウェーデン犯罪小説大賞を受賞している。バルト海に浮かぶエーランド島を舞台にした、過去と現在、現実と想像が混じり合う、素晴らしい作品であった。彼はその後、エーランド島を舞台にした作品を二作書き、初めてエーランド島を離れたのがこの作品である。この作品では、彼の出身地であるイェーテボリとその周辺が舞台になっている。しかし、彼はストーリーテリングの天才であると思う。読み易いが奥深さがある。ユーモアがあるが緊張感もある。その手腕にはいつも感心してしまう。

他人に「是非」とお勧めできる作品である。

 

201712月)

 

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