<第一章、ヘニング・マンケル>

 

アフリカとアフリカ人を常に愛しているマンケル。年の半分をアフリカで過ごす。(彼の公式サイトより)

 

スウェーデンの推理小説を語る上で、一九九一年より十作刊行された、ヘニング・マンケルの「クルト・ヴァランダー」シリーズに触れないわけにはいかない。米国、欧州でベストセラーの常連となったこのシリーズは、二十一世紀の推理小説の先達となったと言ってもよい。

具体的に、このシリーズの何かが新しかったのか。具体的に、どのような点が他の作家によって「真似」されたのか。以下の四点が挙げられる。

@          主人公が警察官であり、主人公の問題のある私生活が赤裸々に語られる。主人公が、私的な悩みを抱えた人物であること。

A          主人公の刑事が単独で事件を解決するのではなく、彼の同僚にも活躍の場が与えられ、チームとして事件が解決されること。

B          結果的に役に立たなかった捜査、捜査の上で「徒労」も丁寧に描かれること。

C          その時々の社会問題が含まれていること。

マンケル以降の推理小説、特に警察官が主人公となるシリーズでは、この四点が踏襲され、定番となっていく。この四点は、実はシューヴァル/ヴァールーが原点なのであるが、これを「定番」にしたのは、マンケルである。

 まず、主人公の私生活が語られる点について。これについては、それ以前に人気を博した、アガサ・クリスティーの小説の主人公エルキュール・ポワロと、マンケルの描くクルト・ヴァランダーを比較してみれば、一目瞭然であろう。ポワロが私立探偵であり、ヴァランダーが警察官であるにしても、作者が主人公を描く手法、その視点は全く異なる。ポワロの場合、妻子がいる、いないも含めて、私生活については最小限しか語られていない。それも、直接事件の解決に関係のある分だけが語られる。しかし、マンケルはヴァランダーの私生活をあれでもか、これでもかと暴いていく。妻に逃げられ、反抗期の娘からは相手にされず、父親との関係も上手くいかず、離婚後の不健康な食生活から糖尿病になり、犯人を射殺したことを気に病んで鬱病になり・・・つまり、まず人物とその私生活がある。そこに事件が起こり、主人公が悩みを抱えながらも事件を解決していく。これに対して、ポワロは「事件を解決するためにだけに」存在する主人公であると言える。従って、事件と関係のない部分は、全くと言って良いほど描かれていない。

 次に、チームワークによって、捜査が進められ、事件が解決される点。ポワロはヘイスティングという助手がいるものの、彼はあくまでアシスタント、語り手にすぎない。捜査そのものはポワロの独壇場、単独行である。しかし、現在、近代的な犯罪の捜査を、独りのスーパーマン的な探偵が行うというのは不可能であり、非現実的であることを読者は知っている。コンピューターを使った情報の収集、分析は不可欠である。DNA等の化学的な証拠なくしては捜査の裏付けは取れない。従って、それぞれの分野のスペシャリストを含めたチームワークが必要になってくる。

三点目の「徒労」だが、確かに、ポワロも一見無駄なことをやっている。しかし、それらのことが最後には意味を持つように構成されている。しかし、ヴァランダーは結果に全く結びつかない捜査を数多くやり、それも丁寧に描かれている。実際の捜査活動は、何百、何千と集まる情報の中から、ほんの一部の役に立つ情報を選び出し、それを分析し、解決していくのである。ヴァランダーの小説は、読み終わって「あれは何だったのだろう」というエピソードが多数織り込まれている。しかし、それが虚構に、現実味を添えていることは確かである。

四点目、マンケルの「ヴァランダー」シリーズの特徴は、その時の社会問題が織り込まれているということ。第一作の「顔のない殺人者」では移民問題が、第二作の「リガの犬たち」(Hundarna I Riga一九九二年)では旧共産圏の崩壊が、第三作の「白い雌ライオン」では南アフリカの人種差別政策が、と言った具合である。マンケルはそれらを通じて、社会の矛盾を描こうとしている。マンケル自身も、BBCの番組1の中のインタビューで、

「犯罪小説を使って、社会問題を暴こうとした。」

と、彼の政治的な意図を明確に語っている。

また、マンケルは九作目の前書きで、それまでの八作の「ヴァランダー」シリーズを「ヨーロッパの動揺を描いた小説」であると総括している。

「九十年代、ヨーロッパの法治国家に何が起こったか。」

「法治国家の基盤が揺るぎ始めた今、民主主義はどのように生き延びていけばよいのか。」

マンケルはそれについて書きたかったという。

 社会問題を取り上げると、その社会問題自体が時と共に変化するので、何年か経ってからその小説を読む読者に、時代遅れの、ピント外れの印象を与えてしまう危険がある。事実、「防火壁」Brandvägg 一九九八年)で取り上げられたコンピューター犯罪の手法は、現在では非常に稚拙な印象を受ける。しかし、マンケルの作品が、発表から二十年近く経っても、まだ読まれ、映像化されていることは、それらのマイナスを差し引いても、ストーリーの卓越さ、登場人物の魅力が大きいことを証明していると思う。

 

ヴァランダーの舞台となったイスタド市の駅。駅裏の桟橋からはポーランドへ向かうフェリーが発着している。

 

シューヴァル/ヴァールーのカップルは共産主義者であり、彼らの小説は、資本主義社会の矛盾を暴き、社会の変革を訴えるという政治的な意図で書かれた。マンケルもその意味では極めて「政治的な」「思想的な」色の濃い人物である。

彼は一九四八年ストックホルムで生まれた。彼が一歳のときに両親は離婚、父親のイヴァー・マンケル(Ivar Mankellに引き取られた彼は、地方裁判所の判事であった父と共に、スヴェク(Sveg)の町で少年時代を送る。彼の祖父は彼と同名の作曲家であった。少年の頃から彼は想像の世界と、それを文字にすることを愛する。

父の転勤で、西海岸のボロス(Borås)に移ったマンケルだが、その土地に飽きてしまい、十六歳で家を出た彼は船乗りとなる。そこで彼は多くのことを学ぶ。また同時に政治に興味を持つ。パリを経てストックホルムに戻った彼は、戯曲家を志し、二十歳で王立劇場の演出助手として働き始める。同時に彼は左翼の活動家として、ベトナム戦争、南アフリカの人種差別政策、モザンビーク内戦に反対した

マンケルは二十五歳で最初の本を発表する。彼の興味はその後、アフリカに移る。彼は一年の半分をアフリカで暮らすようになり、「豹の目」を始めとした、アフリカを舞台にした小説を発表する。「アフリカ」シリーズは、「ヴァランダー」シリーズと共に、マンケルの著作のもう一本の柱となっている。彼は、一九八五年に、モザンビークのマプトに「アヴェニダ劇場」を創設。アフリカの作家に作品発表の機会を与えるように努力をしている。

一九八九年、アフリカからスウェーデンに戻ったマンケルは、その社会の変化に驚く。人種差別に対する問題を提起するために、彼は「顔のない殺人者」を書くことを思いつく。これが、「ヴァランダー」の誕生であった。このシリーズにより、彼は世界中に名前を知られる作家となる。

マンケルは一九九八年に、彼は著名な映画監督イングマー・ベルイマン(Ingmar Bergman)の娘であり、同じく映画監督のエヴァ・ベルイマン(Eva Bergman)と結婚している。

マンケルの政治的な行動として記憶に新しいのが、二〇一〇年のイスラエルによるガザ地区の封鎖事件である。マンケルは人道的な援助のために結成され、食料などの援助物資を積んでイスラエルの海上封鎖を突破しようとした船団の一隻に乗り込んだ。彼は、船団を代表して、何度かマスコミのインタビューに応じている。

 

マンケルと妻のエヴァ・ベルイマン。

 

「ヴァランダー」シリーズについて、詳しく述べてみたい。一九九一年に、クルト・ヴァランダーを主人公とする最初の小説「顔のない男」Mördare utan ansikteを発表、二〇〇九年発表の「不安に駆られた男」Den orolige mannenまで計十冊の「ヴァランダー」シリーズが発表されている。どの本も、欧州ではベストセラーとなり、映画化、テレビドラマ化されている。残念ながら、最新作の「不安に駆られた男」でヴァランダーはアルツハイマーとなり、記憶を失う。従ってもう続編は出ないであろう。

主人公のクルト・ヴァランダーは、スウェーデンの最南端、スコーネ地方の小都市、イスタド警察署の警視である。第一作の「顔のない男」では、彼は妻のモナには逃げられ、家を出た娘のリンダは自殺未遂を起こし、近くに住む父親との関係も上手く行かず、家庭的には八方塞がりの状態にいる。妻に復縁を迫ったもののあっさり断れ、大酒を飲んで運転中に同僚に停められる。

彼はコーヒーをガブ飲みしながら、おそろしいほどの長時間働く。そのコーヒーも警察署の自動販売機で買った、プラスチックのコップに入ったものである。そして、長時間何も食わず、突然大量のファストフードを食べるひどい食生活。さすがに、一九九七年発表の第七作の「一歩遅れて」(Steget efter)で、彼は糖尿病患者として登場する。「ワーカホリック」の「悩める中年」なのである。また、第三作の「白い雌ライオン」(Den vita lejoninnan 一九九三年)で犯人を射殺したことに衝撃を受け、第四作の「微笑む男」(Mannen som log一九九四年)ではうつ病になり、一年半に渡り職務を離れたと述べられている。

舞台になるイスタドの町を、私は二〇〇五年の冬に訪れた。ポーランドへ向かうフェリーの波止場がある他は、極めて小さな田舎町であった。そんな街で、次々と殺人事件が起きる。「一歩遅れて」では計八人もの人間が殺される。これは人口数万の町では、ちょっとあり得ないことなのだが。ともかく、ヴァランダーはそれらの事件を解決していく。彼の捜査方針は理詰めのものではない。自分の直感を大切にする、「変だ」、「不自然だ」と思ったことを、とことん追求することが彼のやり方である。

ヴァランダーには良き同僚がいる。彼が師と仰ぐリュドベリは、第二作の「リガの犬たち」(Hundarna I Riga一九九二年)では癌で亡くなっていることになっている。その代わりに、四作目の「微笑む男」より、優秀な女性刑事、アン・ブリット・ヘグルントが登場する。この他にも、スヴェドベリ、マルティンソンなど、同僚の刑事たちが、ヴァランダーをサポートする。

さて、「徒労」が描かれる例である。第一作、「顔のない男」の新しさ、それが受け入れられた理由は、何と言っても、徒労とも思える捜査の過程が、余すところなく描かれている点であろう。一九九〇年の一月、イスタド近郊の農村で、老夫婦が襲われ、夫は残忍な方法で殺され、重体で発見された妻も、

「外国人が・・・」

という言葉を残して息を引き取る。イスタド警察のクルト・ヴァランダーと彼のチームが捜査を担当する。ヴァランダーは、殺された老人の過去、死体に巻き付けられていたロープの結び目、老人の銀行口座、老人の家族関係、イスタドにある亡命希望者の収容施設、色々な角度からの捜査を進めていく。そして、最後に真実に行き着くのである。

最後に犯人が判明した時点で、読者は、それまで描かれた捜査の過程の多くが、真犯人の発見に結びついていないことを知る。しかし、この点で読者が「騙されたような」印象を受けるかというと、不思議にそうではない。読者は「現実感」浸るのだ。読者は、警察の捜査が途方もない徒労の上に成り立っていることを新聞やテレビの報道で知っている。その徒労を描くことにより、マンケルはストーリーに現実感を与えているのだ。先にも書いたが、クリスティーのポアロにはこの徒労が存在しない。彼のやったことは全て後の段階で意味を持つことになる。

「そんなに毎度毎度上手く行くはずはないだろう。」

という読者の印象が、ポアロの小説からリアリティーを奪っていると言える。

 マンケルのストーリーには、優秀な鑑識と検視医、それと優秀な同僚が登場する。近代的な捜査では、指紋は言うに及ばず、DNAが犯人の特定の大きな鍵となる。また、複数の捜査員による地道な調査、またブレーンストーミングが捜査の進展の大きな推進力となる。

 しかし、同時に、主人公や同僚の「直観」が捜査の進展の鍵になること、これはポアロの小説と変わっていない。ふと感じた「不自然さ」をとことん追求していくことが、マンケルの描く、ヴァランダーのやり方である。例をひとつ挙げると、「五人目の女」(Den femte kvinnan一九九六年)で、ヴァランダーは被害者のスーツケースを開けて、荷物の詰め方に「不自然さ」を感じる。彼は、女性が詰めた鞄と、男性が詰めた鞄の、その詰め方の違いを感じ取ったのだ。彼は男性と女性の同僚にそれぞれ荷物を詰めさせて、最終的に、荷物を詰めた人物、これが犯人なのだが、それが女性であると判断する。

 そして、その「不自然さ」を提供するのは、主人公だけではない。同僚たちにもそのチャンスは与えられている。「一歩遅れて」では、同僚のアン・ブリット・ヘグルンドが、女性の写真を見て、その髪型に「不自然さ」を感じる。そして、後でその髪はかつらであり、その写真は男性が女装していたものであることが分かる。いかに近代的な、科学的な捜査方法が取り入れられても、出発点は「直感」と言うところが、ストーリーへの工夫と言えるだろう。

 チームプレーと書いたが、マンケルの描く「ヴァランダー」シリーズでは、途中まではチームプレーだが、最後は主人公ヴァランダーの単独行動でケリがつくということも書き添えておく。

 ともかく、ヴァランダー以降の推理小説には、「悩める主人公」、「チームプレー」、「描かれる徒労」、「社会問題」の要素が必ず入っている。この点、マンケルが後の世代に残した影響は大きい。

 

スウェーデン製作の「ヴァランダー」シリーズで、主演のクリスター・ヘンリクソンとヨハンナ・セルストレーム。

 

 

 映像化の話が出たが、彼の「ヴァランダー」シリーズは、スウェーデン版と英語版の両方で、映像化されている。一連のシリーズは、スウェーデン並びに北欧の推理ドラマの人気に火をつける役割を果たした。まず、BBCで、スウェーデン製作のテレビシリーズが二〇〇五年から二〇一〇年まで放映され成功を収める。その後、名優ケネス・ブラナー(Kenneth Branagh)を主人公に配した英語版も二〇〇八年からBBCで製作されている。その後、スウェーデン版の初期シリーズも放映された。

 「ヴァランダー」シリーズは、北欧の推理小説だけではなく、他国の推理小説にも大きな影響を与えている。例えば、ドイツの作家ヤン・ゼグハース(Jan Seghers)の「ロベルト・マルターラー」(Robert Marthaler)シリーズには

「ついにヴァランダーはドイツに兄弟を得た。」

という、フランクフルター・アルゲマイネ紙の批評が裏表紙に印刷されている。2読んでみて、事実「ヴァランダー」と類似点が多いことに気付く。作者も、読者も、批評家もマンケルを意識しながら書き、読んでいるのだ。「ヴァランダー」は、推理小説の世界の「聖書」、「ギリシア神話」的な存在となりつつあると言うと、大袈裟だろうか。

 

BBCの「ヴァランダー」シリーズで主演したケネス・ブラナー

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(1)

Swedish Criminal Fiction, Novel, Film, TelevisionSteven PeacockManchester University Press 2014(英国)

(2)

Jan Seghers, Ein allzu schönes Mädchen, RORORO Taschenbuch, 2007 ドイツ

 

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