中立性と透明感

 

Image result for van veeteren

スヴェン・ヴォルター(Sven Wollter)主演でテレビ映画化されたファン・フェーテレン・シリーズ。

DVDの紹介写真より。

 

スウェーデンのミステリー作家の「ベストスリー」を選ぶとしよう。誰もがヘニング・マンケルはその中に入れると思う。しかもナンバーワンとして。その斬新な作風で、スウェーデンの犯罪小説を世界的な地位に押し上げたマンケルは、何といっても第一人者である。そして、ベストスリーの二番目として、衆目が一致するところが、このホーカン・ネッセルであろう。マンケルでブレイクしたスウェーデンの犯罪小説に、安定した人気をもたらしたネッセルの功績も大きい。ちなみに、三番目は・・・その人の趣味によって、シューヴァル/ヴァールーや、スティーグ・ラーソン、ヨハン・テオリン辺りが来ると思う。(私個人としてはシューヴァル/ヴァールーを挙げるが)ともかく、今となっては、ネッセルなしには、スウェーデンの犯罪小説は語れない。そんな存在である。スウェーデン犯罪小説の、どの解説書を読んでも、ネッセルにはマンケルに劣らないだけの、いや、ときにはもっと多くのページが割かれている。

ホーカン・ネッセルの魅力を探る前に、スウェーデンの犯罪小説の人気について、考えてみたい。何故、スウェーデン、北欧のミステリーが、他国の読者にこれほど受け入れられたのだろうか。そもそも、

「『アバ』、『ボルボ』、『イケアの家具』以外に、スウェーデンについての知識を挙げてください。」

と言われて挙げられる人が何人いるだろう。また、

「スウェーデンの文化、国民性の特徴を挙げてください。」

と、問われて、何かコメント出来る人がいるだろうか。私は、スウェーデンの犯罪小説が受け入れられる理由は、まさに、「答えが見つからない」ということに関係があると思う。スウェーデンが単に「あまり知られていない国」というだけではない。スウェーデンの国、町、人自体が、余り特徴のない、何処の文化にも属さない、「中立性」、「透明さ」を持っているからだ。その「中立性」、「透明さ」ゆえに、スウェーデンの犯罪小説に登場する人物、事物、思考回路が万人に受け入れられるのだと思う。英国、イタリア、フランス、ドイツなどの国民性の「あくの強さ」と比較してもらえば理解いただけると思う。

そして、その「中立性」、「透明さ」を極限まで追求したのが、ホーカン・ネッセルなのである。彼の小説には何と「国」が登場しないのだ。もちろん舞台となる国と町はある。しかし、それが架空の国、架空の町なのである。彼は、刑事ファン・フェーテレンを主人公にした一連の作品を書いている。ファン・フェーテレンが住むのはマーダムという町、そこは全く架空の国に存在する、架空の町なのである。読んでみると、そこは、北欧のような、オランダのような、ドイツのような、不思議な場所であった。

「ファン・フェーテレン」シリーズは、一九九三年から二〇〇三年にかけて、十作が発表されている。(1)主人公の刑事、ファン・フェーテレンは、マンケルのヴァランダーと同じく、非社交的な人物である。彼は五十歳を過ぎ、定年退職が既に眼中に入り始め、身体にガタも来始めている。永年連れ添った妻イレーネとは別居中、成人した息子は刑務所で服役中と、あまり幸せとは言えない私生活を送っていのも、ヴァランダーと似ている。ヴァランダーと違っているのは、警察官としての仕事を天職と思っていないことだ。仕事にも嫌気が差し、違う職に就きたいと思いつつも、彼の能力を買っている上司のヒラーの説得により、何とか職に留まっている。常に爪楊枝をくわえ、それを噛み、時々吐き出すという癖がある人物。

彼の警察官としての基本方針は、

「どのような捜査においても、もうこれ以上の情報は必要としないという時点が来る。その時点では必要なものはそれ以上の情報ではなく、それを捜査の解決のために利用していく頭脳である。良い捜査チームは、その時点が何時であるかを知っている。」(「Borkmanns punkt (ボルクマンの定理)1993」より)

と言うことであろうか。ファン・フェーテレンはその時点が来たことを知るや、チームと離れ、単独行動を取り、捜査を解決へと導いていく。この辺りもヴァランダーと似ている。

ファン・フェーテレンの強みは優れた分析力と洞察力である。常に同僚よりも、常に一歩進んで物事を考えている。そのため、同僚に

「何を考えているのか分からない。」

という印象を与えてしまう。しかし、その洞察力の鋭さ故に、彼は上司のヒラーを始め、同僚からの尊敬を得ている。しかし、彼自身、その同僚からの尊敬を誇りに思うどころか、むしろ迷惑に思っている。家庭的にそれほど順調であるとはいえない彼は、休暇でリラックスすることと、退職してもっとイージーな生活を送ることに恋焦がれているのだ。

もちろん、彼自身も、自分の洞察力が特に優れていることを知っている。

「彼にはどうしても確信が持てなかった。十件のうち九件まで彼は確信が持てる。正直に言うならばその確率はもっと高いかも知れない。二十件のうち十九件まで、ファン・フェーテレンは容疑者が真犯人であるかどうかを知ることができた。どうして自分のそんな才能を隠す必要があるのだろうか。物事の中には常に、色々な方向を指している小さな『印』が無数にあるものだ。そして永年の経験により、彼はその『印』が何を意味しているかを学んできていた。」(「目の粗い網(Det grovmaskiga nätet 1993)」より。

ヴァランダーが、誰もが見過ごしてしまう、ちょっとした不自然さを徹底的に追及することにより真実に迫るのに似ている。ファン・フェーテレンの方が、もっと直感的ではあるが。

「ヴァランダー」と「ファン・フェーテレン」には、主人公の設定だけではなく、ストーリーにも共通点が伺える。「ボルクマンの定理」は、司法の網から漏れた悪人たちに、個人が天に代わって復讐するという、「ヴァランダー」シリーズでも何度か出た筋書きである。しかし、ホーカン・ネッセルの作品においては、マンケルの作品と共通点を持ちながらも、「二番煎じ」という印象を抱かない。それだけの質の高さを感じる。

 

***

 

作品リスト:

ファン・フェーテレン・シリーズ(1

l  Det grovmaskiga nätet(目の粗い網)1993

l  Borkmanns punkt、(ボルクマンの定理、邦訳「終止符」)1993年(邦題:終止符、講談社文庫、2003年)

l  Återkomsten(戻ってきた男)1995

l  Kvinna med födelsemärke(痣のある女)1996

l  Kommissarien och tystnaden(警視と沈黙)1997

l  Münsters fall(ミュンスター事件)1998

l  Carambole(玉突き)1999

l  Ewa Morenos fall、(エヴァ。モレノ事件)2000

l  Svalan, katten, rosen, döden (ツバメ、猫、バラ、死)、2001

l  Fallet G(ファイル G 2003

バルバロッティ・シリーズ

l  Människa utan hund (犬を持たない男)2006

l  En helt annan historia (全く違う話)2007

l  Berättelse om herr Roos (ルース氏の談話)2008

l  De ensamma (孤独なもの)2010

l  Styckerskan från Lilla Burma (リラ・ブルマからの作品)2012

 

<次へ> <戻る>