間口の広さ、奥の深さ

 

ヘニング・マンケルは、「ヴァランダー・シリーズ」と並行して、「アフリカ・シリーズ」を書き続け、また、「イタリア製の靴」、「海溝」などの純文学と呼べる作品も発表していた。本当に優秀な作家は、色々なジャンルを書き分けられるのである。

その点、ホーカン・ネッセルも同じで、大変間口が広く、しかも、奥の深い作家である。それ故に、ネッセルは、マンケルに次いで、スウェーデンの犯罪小説家「ナンバーツー」の座を確保していると思う。

一九九九年に発表された「蠅と永遠」であるが、これは警視ファン・フェーテレンの登場しない犯罪小説である。いや、犯罪小説とさえ呼べないかもしれない。スリラーと呼んでいいのか、ともかく複数のジャンルにまたがる存在である。

ふたりの哲学の学生が、試験の前夜、試験問題を知るために、教授の家に忍び込む。しかし、教授に見つかってしまい、二人は教授を殺害する。そのうちのひとり、ボルクマンは逮捕を逃れ、学者として成功する。もうひとりのメーテンスは有罪になり、十四年間刑務所で過ごす。出所し、新しい名前で生活を始め、図書館で働いていたメーテンスは、新聞でボルクマンの死を知る。ボルクマンの葬儀に参列したメーテンスは、未亡人で、かつてボルクマンとふたりで争った、マルレーネに会う。彼女は夫の奇妙な遺言を告げる。それは、

「自分の死後、メーテンスを一週間マルネーネの家に滞在させ、自分の遺した書籍の中で、気に入ったものを持ち帰させる。」

というものであった。メーテンスは作業を始め、マルレーネとの奇妙な共同生活が始まる。

「蝿と永遠」と言うのは、奇妙なタイトルであるが、ボルクマンが学生の頃に書いた、「我々と蝿」という論文によるものである。ご丁寧にも、一章を割いて、その論文の全文が紹介されている。さすがにこれを読むのは、なかなか骨が折れた。論文は、自分と机の上に留まっている蝿が対峙しているところから始まる。筆者、トマス・ボルクマンは蝿と我々は同等の存在であろうかという疑問を持つ。人間に個性があり、その個性により人間が識別できるように、蝿にも個性があるのだろうか。ブーンと群れなして飛んでいる蝿にも、よくよく見ると人間と同じような個性は存在するのだろうか。プラトンは、「程度の高い者ほど個別化が進む」と述べているがそれは本当なのであろうか。そのような論議が十ページに渡り延々と進められていく。

ネッセルがが、この論文の全文を載せたのにはそれなりの意味があるのだろう。また、よくよく読み込めば、この論文の内容と、物語の接点が見つけられるのかも知れない。しかし、いくら哲学科の学生が主人公とは言え、ここまで哲学的にするかな、という感じがした。正直、少しやりすぎの感もある。他の書評を読んでも、「哲学臭が過ぎる」という意見が多かった。ともかく、ネッセルという人は、「ここまで」やる人なのである。常に斬新さを取り入れる、間口を広げることに労を厭わない人なのである。

次に、もうひとつのファン・フェーテレンの登場しない作品について述べたい。二〇〇九年に発表された、「カーミン街の蛆虫(Maskarna Carmine Street)」である。この物語は一応、「ミステリー小説」である。誘拐事件が起こり、最終的には、その犯人が分かる。しかし、その犯人を見つけ出すのが、警察でもなく、探偵でもなく、数十年前に死んだ人物なのである。そういう意味では、この物語を、超自然的な力を取り扱った、「オカルト小説」と捉えることもできる。何十年も前に死んだフランスの詩人が、事件の解決を取り持つ。最後、つじつまが合ったようで、合わないままのようで、不思議な幕切れであった。

同時に、インターナショナルなストーリーである。舞台はニューヨークであるのだが、背景となる出来事の起こる場所として、ベルリン、フライブルクなどのドイツの都市、ヴェニス、そして、ネッサーお得意の「どこの国か分からないヨーロッパの国」が登場する。そして、その国のマーダムというこれももちろん架空の町で、誘拐事件が発生するのだ。

こんな展開が書けるのも、ネッサーならではである。ヘニング・マンケル、スティーグ・ラーソン等のスウェーデンの推理小説が、ヨーロッパの他の国の人たちに好んで読まれるのは、その「透明度」であると、何度も述べた。書いてある内容が極めて「透明」であるがゆえに、どの国の人が読んでも、自分の持っている文化を背景に、共感を持つことができるのだ。「透明」であるということは、どの国の文化にも属さない、文化的に「中立」であることと言ってもよい。ネッサーは、舞台を架空の場所に置き換えることで、その「透明度」を更に高めている。

英国の批評家、バリー・フォーショーも、ネッセルの才能を買っているひとりである。彼は、「中道的」という言葉を使って、ネッセルの特徴を表現している。(1

「ホカン・ネッサーから、(中略)他の作家のように左翼的ではなく、中道的な立場からの、犯罪小説家としての洞察力を容易に知ることができる。ネッサーの作品には目を見張るものがある。彼の作品を前にすると、他の北欧(と限っているわけでないのだが)の犯罪小説の書き方は、消化不良のように思えてくる。ネッサーの描く、ひたむきな捜査官、ファン・フェーテレン警視は、この分野において最も魅力的な主人公であると言える。それは、権威者、コリン・デクスター(Colin Dexter)による

『ファン・フェーテレンェは、欧州の偉大な探偵の中のひとりである。』

いうコメントを待つまでもない。またファン・フェーテレンが扱う、暗い、迷路のような事件は、現代の犯罪小説のなかでまれにしかお目にかからない『厳しさ』と『論理性』を兼ね備えている。しかし、ネッサーの成功は一夜にして成し遂げられたものではない。スウェーデンで一番有名な刑務所のあるクムラ(Kumla)で生まれ育ったことが、彼を犯罪の道に精通させたのかも知れない。(犯罪の道に通じることは何も逮捕されるだけではない。)しかし、彼が二十年間教職に就きながら密かに書き溜めたものが(教職は彼の生甲斐であった)が、彼の作家としての技術を磨いたと言える。

犯罪小説の翻訳が一般的に行われるようになり、作家にとって未知の設定や習慣などにおける斬新さを前面に出すだけでは十分でないことをネッサーは実感している。良い小説の前提は、考えられるあらゆる要素の剃刀のように鋭い実現である。それは、テンポのよい語り口であり、凝縮された筋書きであり、何にも増して、パワフルな卓越した主人公である。(中略)そして、ネッサーは安易な比喩の使用を引き続き避けている。彼は同世代の作家よりバランスが取れており、断定的でない。他の作家に似ず、ネッサーの観点は共感に貫かれている。」

以上が、フォーショーのネッセル評の一部である。ネッサーに惚れ込んでいるということが良く分かる。

上記で、フォーショーが述べているように、ネッセルは教育者であった。ネッセルは、一九五〇年に、これもフォーショーが述べているように、クムラで生まれている。彼はウプサラで教師として働く傍ら、一九八八年に最初の小説を発表する。そして、その後も教師としての仕事と並行して、「ファン・フェーテレン」シリーズを書き続け、一九九八年になり、初めて教職を辞し、フルタイムの作家となった。彼の小説の、過半数が、教師として働きながらの作品であることは興味深い。彼は、一九九四年と一九九六年の二回、スウェーデン推理作家アカデミー賞を受けている。彼は、ニューヨーク、ロンドンと住いを移している。ニューヨークを舞台にした彼の小説を読むと、なるほど、住んだ人にしか書けないものだと感じる。(2

 

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(1)    Death in a Cold Climate, Barry Forshaw, Palgrave Macmillan, Hampshire, UK 2012

(2)    Wikipedia、英語版、Håkan Nesserの項による。

 

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