質素な王宮

 

これが王宮なんだから、当時の王様の結構質素な生活が偲ばれる。

 

「ミルクが濃いわ。」

と妻が翌日の朝食のとき驚いた。日本や英国のように加工していない、搾られたままの牛乳。トロッとしていて、表面にはうっすらと脂肪が浮いている。朝食に出てきたツリートマトやパッションフルーツなどの果物も熱帯らしい。

その日僕たちはフイエにある「郷土博物館」と、ニャンザにある「王宮博物館」を訪れることになっていた。ニャンザで学校の先生をされている協力隊員のSさんを途中でピックアップし、一緒に王宮を訪れる予定である。

先ず郷土博物館へ行ったが、全部の展示を見られないというし、展示品もイマイチの感じがしたので、パス。ニャンザへ向かう。町の入り口、右側に学校があり、その看板にルワンダと日本の国旗が書かれている。そこがSさんの働いておられる学校であった。Sさんのお住まいは、学校の敷地のすぐ隣にあった。ボーイッシュで、活発なお姉さん。学校で音楽や体育など、「情操教育」の授業を担当されているとのことだった。僕の娘と息子が、ちょうど協力隊で来られている隊員さんたちと同じ世代なので、いつも彼らを自分の子供たちと比べるし、自分の子供だったらと思ってしまう。昨日のおふたりと同じく、目的を持って生きている若者は輝いて見える。それがSさんにも当てはまる。

Sさんはニャンザに一年近くお住まいだが、「王宮博物館」には行ったことがないという。でも不思議。ルワンダの首都はキガリである。どうして、このかなり田舎のニャンザに「王宮」があるのだろう。後で知ったのだが、それまで転々としていた王の居住地を、十九世紀の終わりに、当時の王がニャンザに定めた。植民地支配の始まった後も、ベルギーの政府は、ルワンダの王を廃位にしなかった。多分、第二次世界大戦の後も日本に天皇制が残ったように、支配階級が王を政治的に利用したかったのだと思う。植民地時代、行政の中心はキガリであったが、東京に対する京都のような立場で、ニャンザは王宮のある場所であり続けた。

「ニャンザ、そうだったのか。」

と僕は納得する。

同じ町に住みながら、車と自転車を持たないSさんがまだ行っていないことが納得できるほど、王宮への道は遠かった。町の中心から二キロ以上丘を登ったところにかつての王宮はあった。僕たち四人は、よく整備された庭の中に入っていった。入場料を払って見学が始まる。ルワンダの常で、デレーレさんというガイドが僕たちに専属に付いて説明をしてくれる。王宮は「古い」ものと「新しい」ものの二種類があった。

古い王宮は、釣鐘を伏せたような、竹と萱を編んだ建物である。要するに当時は王様でも、木を組み合わせたバスケットを伏せたような家に住んでおられたのである。しかし、その近くに近代的な王宮もあった。しかし、それとて、バッキンガム宮殿を想像して貰ったら困る。ちょっと大き目の別荘くらいの規模。ルワンダの王はずいぶん質素な人だったようだ。最後の王、ムタラの写真が飾られている。ずいぶん背の高い人である。二メートル五センチの身長だったとデレーレさんが言った。バスケットボールの選手としても通用した人のよう。彼は、新しい西洋的な王宮を建てようとしたが、その完成を待たず、ブルンディで毒殺されたそうである。

 

この中に牛乳を入れていたんだって。日本のヒョウタンのような入れ物。

 

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