「砂男」

原題Sandmannen

ドイツ語題:Der Sandmann

2012

 

 

<はじめに>

 

アレクサンデル・アンドリルとアレクサンドラ・コエーリョ・アンドリル夫妻がラーシュ・ケプレルのペンネームで共同執筆する「警視ヨーナ・リナ」シリーズの三作目。夫婦での共同執筆は、シューヴァル/ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズ以来のスウェーデン推理小説界の伝統なのかも。ヨーナがどうして妻と娘を死んだことにして、彼らの身分を隠し、別れて暮らしているのか、その理由が判明する。

 

 

<ストーリー>

 

深夜、川に架かる鉄道の鉄橋をひとりの若い男が歩いている。列車が近づく。運転手は警笛を鳴らし、急ブレーキをかける。若い男は欄干にしがみついて難を逃れた。その男は、十三年前行方不明になり、七年前に死亡届が出ていたミカエル・コーラー・フロストであった。

 

レーヴェンストレーム特殊精神病院。若い精神科医のアンデルス・レンはその日から、その病院での勤務を始めることになっていた。病院には、連続殺人事件の犯人として逮捕、起訴され、精神異常と判断されたために精神病院に送致になった、ユレク・ヴァルターが収容されていた。アンデルス・レンは、上司のロランド・ブロリンから説明と注意を受ける。それは専ら、ユレク・ヴァルターについてのものであった。ユレクは、生きている女性を森の中で棺桶の中に閉じ込めていたところを発見され、逮捕された。彼は他にも二件の殺人容疑で起訴され有罪になっていた。しかし、当時、ヴァルターによるものであると予想される行方不明事件が、合計十九件あった。しかし、三件を除くものは、証拠不十分のために、検察側は立件できないでいた。

ブロリン医師はアンデルスを連れて、ヴァルターの房の前まで行く。ドアのマジックミラーには「ヨーナ」という文字が書かれていた。ブロリンはドアの小さな扉を開け、ヴァルターをそこへ来させて麻酔薬の注射を打つ。そして、ヴァルターが気を失っているうちに、アンデレスに、ヴァルターが隠し持っているナイフを探させる。アンデルスは、ベッドの下や、あちこちを探す。やっとのことでナイフを見つけたアンデレスはそれをドアの覗き穴越しにブロリンリンに渡す。ブロリンは更に、ヴァルターの衣類やポケットを探って、手紙を探せとアンデルスに命じる。しかし、そのうちにヴァルターが目を覚ます気配を見せる。慌てて、逃げようとするアンデルスに、目を覚ましたヴァルターは一通の手紙を渡す。ドアを開けてくれるはずのブロリンが消えている。アンデルスはドアを叩き続け、別の職員に何とか救出される。

夕方、アンデルスが職場を出ると、駐車場にブロリンが待っている。ブロリンは手紙を渡せとアンデルスに迫る。しかし、アンデルスは知らないと言い張り、車に乗り込む。アンデルスは家に戻る。彼は妻のペトラと、自閉症の娘のアグネスとの三人暮らしであった。彼は、ヴァルターの房で見つけた手紙を読み、それを投函する。

「砂男」が今日も、目の上に砂を撒いていった。ミカエルはたまらなく眠くなり、眠りに陥る。彼が目を覚ますと、辺りの様子がいつもと違う。いつもの「カプセル」の中ではない。薄い光が扉の窓越しに見える。彼は扉に向かっていく。鍵は掛かっていない。彼はドアを開けて外に出る。

作家のレイダー・フロストはヴェロニカという編集者と一緒に自宅でワインを飲んでいた。彼は十三年前に娘と息子が行方不明になり、それに落胆した妻が自殺をしてから、それらの出来事をしばしの間忘れるために、毎晩人を呼んで酒を飲んでいた。十三年前、息子のミカエルと娘のフェリシアは友達の家に行ってくると言って家を出た。ふたりの自転車は発見されたが、ふたりは忽然と姿を消してしまっていた。近くの湖で溺れたのではないかと、湖の中が捜索されたが、ふたりは結局見つからなかった。

貨物列車の運転手エリック・ヨンソンは、前方の橋の上に一人の若い男がヘッドライトの中に浮かび上がるのを見る。ヨンソンは警笛を鳴らし、急ブレーキを掛けるが、列車は行き過ぎてしまう。最悪の事態を覚悟したヨンソンが運転台から降りる。幸い、倒れている若い男は血を流しているが、衝突は避けられたようであった。彼は救急車を呼び、その若い男は病院に運ばれる。ストックホルム南病院で救急の当直医であるイルマ・グッドウィンは、運ばれてきた若い男を診察する。男は粗末な服を着て、栄養が足りていないようであった。彼の身元を示すようなものは一切所持していない。

「砂男がやってくる。」

と若い男は繰り返していた。家に帰りたいという男に、イルマは名前と住所を尋ねる。男はミカエル・コーラー・フロストと名乗った。イルマはインターネットでその名前を調べてみる。そして、その男が十三年前に失踪し、七年前に死亡したとして処理されていることを知る。彼女はストックホルム警視庁に電話を入れる。

 警視ヨーナ・リナは電話を受けたとき、自分の耳を疑った。十三年間行方不明になり、死亡したものと思われていたミカエル・コーラー・フロストが再び姿を現したという。彼は、電話を架けてきた同僚に叫んだ。

「ユレク・ヴァルターはまだ服役中なのか。」

ヴァルターが服役中と知り、ヨーナはこれまで推理していたように、ヴァルターに共犯者がいることを知る。ヨーナはミカエルの収容されている病院へ急ぐ。その途中、ヨーナは十三年前の一連の事件を思い浮かべていた。最初の件は、五十五歳の女性が、散歩へ行くと言って家を出たまま帰らなかった。二日後に彼女の義理の母がビンゴホールへ行くと言って出て行ったまま同じく帰らない。その前に、女性の兄がバンコクで行方不明になっていた。ヨーナと同僚のサムエルは、同じ家族のメンバーが時を経ず、三人行方不明になるということに不審を感じる。その後も、失踪事件が後を絶たず、ヨーナとサムエルは連続殺人事件として捜査を始める。

サムエルとヨーナは、ふたりの子供が行方不明になった家族の家を見張ることにする。数日の見張りの後、ヨーナは家の下に立って、中を伺う男を見つける。彼は本能的にそれが犯人だと知る。サムエルとヨーナはその男の後を追う。その男は森の中で、土を掘り、棺を掘り出す。蓋を開けると、中年の女性が生きたまま入れられていた。男は穴の底の棺から這い出そうとする女性を突き飛ばす。サムエルとヨーナは男に突進し、手錠をはめる。そのとき、森の木の陰で何かが動く気配があったが、ヨーナはそれを気に留めなかった。逮捕された男の名前は、ユレク・ヴァルターと判明する。それが本当のものであるかどうかの保証はなかった。棺の中にいた女性は、栄養失調で、頭に怪我を負っていた。また直ぐ近くから、埋められたふたりの男性の死体が見つかった。三人とも行方不明者のリストに載っていた人々であった。

ユレク・ヴァルターはヨーナの取調べを受け、三人に対する、殺人罪と殺人未遂罪で起訴される。ヴァルターは、取調べ中、また裁判中、逮捕の際の警察による暴力で、記憶を失ったと主張し、一切の証言を拒否する。行方不明になった他の十六人に関して、新しい発見は一切なかった。裁判の結果、ヴァルターには有罪が言い渡され、レーヴェンストレーム特殊精神病院に送致されることに決まる。裁判の後、ヴァルターはヨーナとサムエルに、

「お前たちの家族も、いずれ行方不明になる運命にある。」

と叫ぶ。

 ヴァルターの予言は現実となった。数ヵ月後、サムエルの妻と子供は行方不明になる。警察の必死の捜査にも関わらず、彼らは見つからなかった。サムエルはその後、猟銃で自殺する。ヨーナは自分の家族にも危険が迫っていることを知る。ヨーナは一計を案じ、まず自分も妻と娘に、全く別のアイデンティティーを与える。そして、交通事故で死んだ母娘の死体を自分の妻と娘に仕立て上げ、葬儀を行う。それで、ヨーナの妻と娘は、公式には死亡したことになった。その後何年間も、ヨーナは妻子と会うことなく過ごすことになる。

 ヨーナは病院へ向かう途中、ミカエルの父親であるレイダー・フロストに電話を入れる。若い男が救出され、それが息子のミカエルの可能性が強いという知らせに、フロストは、

「息子たちが溺れ死んだという警察の説明には最初から納得いかなかった。これで分かっただろう。」

と答える。ヨーナがミカエルの病室を訪れると、ひとりの中年の男性が横に座っていた。父親のレイダーであった。ミカエルは永年の幽閉生活で、精神的にも肉体的にも疲弊していた。しかし、もうひとり囚われているフェリシアを助け出すためには、ミカエルの情報だけが頼りだった。ミカエルは、

「砂男がやってくる。」

と何度も呟く。ミカエルは妹とふたりで、狭い、ふたりが「カプセル」と呼ぶ部屋に閉じ込められていたという。そこに定期的に現れる男を、ミカエルとフェリシアは「砂男」と呼んでいた。なぜならその男から「砂の匂い」がしたからだった。「砂男」は母親が寝物語にふたりに語った童話の登場人物であった。「砂男」は夜子供たちの目に砂を掛けていく。その砂の重みで、子供たちは目を開けていられなくなり、眠ってしまうという。

 警察では、署長のカルロス・エリアソンとヨーナ・リナはが新しい捜査班を結成していた。彼らは民家の一室を借り、そこを臨時の捜査本部とした。ユレク・ヴァルターが服役した後も、何者かがミカエルとフェリシアの世話をしていたということで、共犯者がいることが確かなものになった。残ったフェリシアのことを考えると、警察は何としてもその共犯者を探し出さなければならなかった。ヨーナは、何としても、ヴァルターから情報を引き出したいと考える。そして、彼にはあるプランがあった。

 ミカエルの証言では、彼は最後に逃げ出す前は、工事現場のような場所にいたという。ミカエルが発見された鉄橋の近くにある工事現場がリストアップされる。そのひとつに、ミカエルがいたことが分かるが、そこはミカエルとフェリシアが長い間いた「カプセル」ではなかった。ミカエルは、直前に麻酔を打たれて、その工事現場に連れてこられたようだった。

 ザガ・バウアーはジムでボクシングのトレーニングをしている。彼女は、警察、保安課の刑事であるとともに、アマチュアボクシングのチャンピオンであった。恋人のステファンと一緒にジムを出て、バーに向かう。その日、ザガは上司から奇妙な仕事を打診されていた。それは、秘密のエージェントとして、ユレク・ヴァルターの入っている病院に潜入し、ヴァルターと接触。ミカエルの妹のフェリシアが囚われている場所を探るというものであった。彼女はそれを断っていた。バーで仲間と一緒にピアノを弾きだしたステファンに彼女は話しかける。音楽を中断されたステファンは腹を立て、ザガに出て行けという。翌朝ザガは、ステファンから別れ話を切り出される。彼女は、父親が母を捨て、その母を幼くして失った自分の過去を思い出し、フェリシアを助けたいと思い始める。そして、上司からの依頼を受けようと考えを変える。

 翌日、ザガは所長のカルロスとヨーナからの指示を聞いていた。彼女は精神に異常をきたした凶悪な服役囚として、特殊精神病院に送られる筋書きになっていた。また、ひとりだけでは不自然なので、もうひとり、別の刑務所から服役囚を病院に送り込むことになった。彼女はマイクロホンを持って病院に潜入し、それを通じて情報を外部に流すという段取りになっていた。そのマイクロホンは小さいもので、彼女はそれを飲み込んで病院に入り、それを吐き出して病院のどこかにセットするという計画であった。彼女からマイクロホンを通じて二十七時間以上連絡がないときには、この計画が中止される段取りになっていた。ヨーナはザガに、

「ユレク・ヴァルターに対しては、真実のみを述べるように。」

とアドバイスをする。それが、自分の素性を見破られないための一番良い方法だとヨーナは言う。

 ふたりの囚人が搬送されてくることが、病院長からスタッフに告げられる。担当医のブロリンは、ヴァルターだけでも大変なのに、もうふたりを受け入れることに難色を示す。しかし病院長は、これは上からの命令で、拒否は出来ないと押し切る。

 ザガは凶悪犯として病院に搬送される。そこで、彼女はヴァルターの隣の房に収容され、いくつかの部屋を彼と共有することになる。ザガは独房でマイクロホンを吐き出す。彼女はそれをベルトに隠し、娯楽室に適当な隠し場所がないかと捜す。夜になり彼女は再びマイクロホンを飲み込む。アンデルス・レンが現れ、彼女に睡眠剤を注射する。数時間後に目覚めたザガは慌てて喉に指を突っ込み、マイクロホンを吐き出す。四時間以上胃の中にあると、マイクロホンは十二指腸の方へ送られてしまうということだった。彼女は、自分の下着が、眠っている間に裏返しになっていることに気付く。

 翌日、娯楽室へ行ったザガは、靴の紐を結ぶ振りをしてしゃがみ、観葉植物の鉢にマイクロホンを隠す。彼女はトレッドミルで走り始める。間もなく、ザガと一緒に前日病院に来たバーニー・ラーソンと、少し遅れてユレク・ヴァルターが娯楽室に現れる。バーニーが性的な言葉を連発してザラに絡み始める。最初は相手をしないようにしていたザガだが、最後にはバーニーの顔面を殴りつける。ボクシングをやっていたザガに、バーニーはノックアウトされてしまう。しかし、殴っているシーンは、監視カメラの死角になって、職員からは見えなかった。職員には、バーニーが倒れているのだけが見えた。ザガは娯楽室を立ち去る。警報が鳴らされ職員が駆けつけると、ヴァルターが倒れたバーニーを更に殴っていた。ヴァルターはバーニーに暴行をしたと見なされ、取り押さえられ、部屋に連れ戻され、鎮静剤の注射をされる。

 その翌日、自分に対して何の沙汰もないことを不思議に思ったザガは、ヴァルターが自分に代わって暴行事件の責任を引き受けたことを知る。娯楽室で、ザガとヴァルターは初めて言葉を交わす。ザガは自分の罪を被ってくれたことの礼を言う。ヴァルターは、昨日の事件が、自分に取って好都合なものであると述べる。その後、ヴァルターは、ザガに一緒に脱獄をすることを持ちかける。自分独りではできないが、ザガが来たことにより、確実に脱走する方法が確立できたという。ザガは、

「外に出ても私には何もない。」

と、言葉を濁す。 

「しかし、ここよりも良いところがあるかも知れない。」

とヴァルターは言う。

「ここよりも悪い場所しかないかもしれない。」

とザガが言うと、ヴァルターは何かを言いかける。その後彼は言う。

「実際もっとひどい場所を知っている。高圧線が音を立て、道路は大きなブルドーザーに痛めつけられている。そして、その轍には腰までの深さのあるような赤い水が溜まっていた・・・」

それらの会話は、マイクロホンで、ヨーナとそのチームに伝えられていた。ヨーナはヴァルターが何かを言いかけて思いとどまった箇所を、速度を落とし何度も聞く。そして、その中から小声で囁かれた言葉を見つけ出す。それは「レーニン」という言葉であった。ヨーナはその言葉と、ヴァルターがその後に話した風景の描写から、ある場所を思いつく。

 ヨーナは、病院にアンデルス・レンという新しい医者のいることを知る。主任医師のブロリンは、最近、病院のスタッフに変更はないと言っていた。ヨーナはブロリンを病院に訪れる。ブロリンは、アンデルスはスザネ・ヒェルム医師が休職になったための、一時的に働いているに過ぎないという。ヨーナはアンデルスを訪れる。アンデルスは、医者は患者の個人情報を公表できないという理由で、ヨーナへの情報の提供を拒否する。しかし、アンデルスは、ヴァルターに弁護士宛の手紙の投函を頼まれ、人道的な理由で、それを助けたことを認める。彼は、その手紙の内容と住所を覚えていた。手紙は、自分に法的な保護をしてくれるような事務的な依頼であり、あて先は弁護士事務所の私書箱であったという。ヨーナがそのあて先について調べさせると、その私書箱を開設した弁護士は存在しなかった。アンデルスは、手紙のスウェーデン語に、綴りの間違えが多かったことを覚えていた。

次に、ヨーナはスザネ・ヒェルムの家を訪れようと考える。同僚の調べによると、スザネは三ヶ月の間、職場に現れず、彼女と夫の電話は切られ、ふたりの娘たちもずっと学校を休んでいるという。不審を感じたヨーナは、パトカーをスザネの家に派遣することを依頼する。ヨーナがスザネの家を訪れると、既にふたりの警官が到着していた。家は中から鍵が掛けられていたが、呼び出しに応じて出てくる者はなかった。三人が家に入ると、家の中はゴミの山と化し、悪臭が漂っていた。地下室で物音がする。それに気付いた女性警官が、地下室へ向かう階段を降りようとする。そのとき、地下室から銃が発射され、女性警官は散弾を身体中に受け即死する。相手が銃に新たに弾を籠めている隙に、ヨーナは相手を取り押さえる。それは、意外な人物であった・・・

  

<感想など>

 

 ザガ・バウアーが秘密捜査官として、特殊精神病院に収容されることになる。彼女の素性を知っているのは、一握りのトップのみ。病院のスタッフや患者に対して、彼女は凶暴な精神異常者であるとされている。その素性を見破られないためにヨーナがザガにしたアドバイスが面白い。

「嘘をつくな。真実だけを答えろ。真実が告げられないときは黙れ。」

ということだ。人間、嘘をつけば少しは心が動揺するもの、鋭い感覚を持った相手には、その動揺が察知されるというものだ。長年の人生の中で嘘をつかれることもあった。今考えると、相手が嘘をついているときは、それが何となく分かるようになった。個人的には、余り獲得したくない資質であるが。ユレク・ヴァルターは人間の心理を弄ぶ達人である。そんな相手には嘘が通用しない。ヨーナのアドバイス、なかなか実際の生活でも使い甲斐のあるものだと思う。

 ヨー・ネスベーの小説を読んで新鮮さを覚えたことがある。「正義の味方は死なない。主人公やそのお友達には、危機に陥っても間一髪で助けの手が差し伸べられる」という、お約束事を無視して、どんどんと「良い者」が殺されていったからだ。さすがに、主人公のハリー・ホーレだけは別だったが。(彼を死なせると、次の作品が書けなくなる。)ケプレルの作品にもネスベーと同じことが言える。「良い者」であっても、作者は容赦なく殺してしまう。「お約束事」に慣れていた私は、

「こんなのあり?」

と思わず言ってしまった。

 この物語に登場するユレク・ヴァルターは、変な言い方だが、犯罪のために生まれてきた、そのために生きているような人物として描かれている。私は彼のやり方を見て、二〇一八年現在で話題になっている少年棋士、藤井聡太七段を思い浮かべた。悪人と比較して藤井さんには悪いが。チェスや将棋のプレーヤーは、何手先までも読んで、相手がこう出てきたらこう打とうと、何種類ものケースを想定し、そのために準備をしているという。そして、現在の一手に、一見して意味が見いだせなくても、将来の布石になっているという。ユレク・ヴァルターはそんな人間。何手も先を読んでいて、一見意味のないことも将来のための周到な準備なのである。そもそも、十三年間も囚われの身だったミカエルが何故解放されたか、それは実は、彼の描く壮大な青写真のひとつの部品だったというわけ。

 テンポ良く読ませて、読者を退屈させないというテクニックで、ケプレルは卓越している。この作家の作品は、読者を惹き付け、どんどんと引き込んでいく。また、透明性、移植性が高く、舞台をスウェーデン以外のどのような場所に移しても成り立つ物語である。それだけに、スウェーデン人以外の読者の共感を得やすいと思う。これまでこの作家の名前を英語式に「ラース・ケプラー」と書いてきた。日本でもいくつか翻訳が出ているが、「ラーシュ・ケプレル」と記されており、スウェーデン語式に発音すると、それが一番近いように聞こえる。それで、今回より、私の書評でも「ラーシュ・ケプレル」と書くことにする。

 

20186月)

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