国宝

 

公開から半年以上、まだまだ人気を保っているのが、素晴らしさの証拠。

 

 僕の日本滞在も、二日を残すだけになった。僕は、「国宝」という映画が、日本で社会現象的になっていると聞いていた。昨年の夏に公開された映画だが、調べてみると、京都でまだやっている映画館があった。僕は、午前十時半から、二条駅にある映画館で上映されるのを見に行くことにした。

 九時四十五分に家を出て、歩き始める。今回京都滞在中の目標は「毎日歩くこと」。例の眩暈とぎっくり腰で、一か月以上歩けなくて、足がかなり弱っているのが分かる。毎日最低一時間は歩きたい。幸い、僕の滞在中は暖かく、雨も降らなくて、殆ど毎日、鴨川まで一時間の散歩をしていた。その朝も、映画館までの距離を調べ、四十五分で歩けると確信を持ってスタート。

「今日も歩くで。」

途中、火事で遠回りを余儀なくされるも、無事、映画開始前に映画館に到着。歩きながら、両側の店や、石碑などを見るのも楽しい。

 「国宝」の映画については、一体、どれだけの人が、どれだけの角度から、感想、批評を書いているだろう。今さら、何を書いても蛇足になると思う。そこに、敢えて書くとすると・・・僕は絵を描く人である。絵を見るのも好き。どのような絵でも、それを最大限に楽しめる「距離」というのがあると思う。その距離は、絵の大きさ、技巧、などによって異なる。もう少し話を拡大すると、芸術やスポーツを楽しむには、適当な距離があるということ。野球を外野席から見ると、球筋が分からなくて、ちょっと物足らない。また、大きな絵を、至近距離から見ると、粗さが目についてしまう。

ご存知のように「国宝」は歌舞伎の映画である。舞台のシーンも多い。そこではクローズアップが多用されている。役者の目、表情、額から噴き出す汗、顔の皺、鼻の奥の鼻毛さえも映し出される。本来、歌舞伎は、観客席から見て、一番美しく見えるように設計された芸術だと思う。それが、余りにクローズアップになると、見なくていい部分、あるいは見たくない部分まで見せることになる。僕は、その「距離感」に「違和感」を感じた。

「ちょっと、近づきすぎちゃう?」

先代の鴈次郎さんや、歌右衛門さんなど、歳を取ってからも女形を演じた名優は沢山おられる。ようするに「八十歳を超えた爺さん」が「二十歳の娘」を違和感なく演じていたわけだ。それは、観客との距離があってこそ成功したのではないかと思う。

 「国宝」のストーリーは素晴らしく、本来、歌舞伎には素人である俳優さんたちが、歌舞伎役者も驚くほどの質の高い演技をされていることも驚嘆に値する。そこに費やされた努力と時間にも頭が下がる思いだ。間違いなく、日本映画の金字塔であろう。

「何を偉そうに・・・」

と自分でも思いながら、この文を書いている。

 

映画館に行く途中、紅柄格子の京都の伝統家屋の前を通る。

 

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