8章:宗教――今や神は国家に仕える

 

 これまで、イデオロギーも、科学も、国家や政府も、将来に対するビジョンを見つけられていないという話をした。では、誰が見つけるのだろう。ひょっとしたら、宗教の中にその答えを見つけることができるのだろうか。実際、多くの人々が今も宗教を信じているし、多くの政府が宗教に立脚している。キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教などは、現在の問題を解決するのに役立っているのだろうか。その問題を三つに絞ってみよう。

@    技術革新、気候変動などの中で、どのようにして生き残るか。

A    政府が、それらの問題に対して、どのような手を打てるか。

B    遠くで困っている人を仲間と考え、助けようとできるか。

おそらく、宗教はBの解決には役立つかもしれない。しかし、@とAには無力であると言わざる得ない。

 近代になる以前、宗教は技術的な問題も担当していた。飢饉が訪れると神に祈りを捧げ許しを請うとか、病気になった人が快復を神に祈るとか。しかし、現代ではどうだろうか。病害虫に悩む農家は科学者を訪れ相談する。病気になったら医者を訪れる。科学の発達が宗教の在り方を変え、誰も宗教を農業や医学と結び付けなくなった。宗教は、大きな存在意義を失ったことになる。

 その結果、宗教家たちは、宗教に対して、新たな理由付けや解釈を考えることになる。そして、その「理由付け」や「解釈」が上手な人間が、宗教界のトップの座に就くことになった。しかし、宗教家たちが「解釈」にかまけている間に、科学者たちは「本質」へと踏み込んで行った。その結果、宗教的な権威は、技術的な分野では、意味を失っている。そして、世界はひとつの文明へまとまっていこうとしている。

 気候変動など問題に対して、科学的な答えはひとつだけである。政治的には複数ある。しかし、伝統的な宗教の中に答えはない。また、資本主義と共産主義のどちらがいいかという議論と、宗教とは関係がない。宗教的な指導者が政治に口出しすることがある。しかし、その際も必ず、現代の科学を参考にしている。イランのハメネイ師が、経済問題を解決する方法をコーランに求めたとする。もちろん、何も書いてない。彼は、近代経済学の中にその答えを見つけるしかない。そして、その答えを、コーランの中のある部分と、後で関連付けるしかないのである。宗教の違う国でも、経済政策はほぼ同じである。どの宗教でも、同じ経済原理で社会は動いている。そして、宗教的指導者が、何でも宗教と結びつけようとする行為が、宗教をどんどん不適当なものにしていっている。何でも宗教で説明、解決しようとすればするほど、その宗教自体が信頼を失っていく。新しい視点で見てこそ、問題が解決できるのに。宗教による説明は常に「後付け」である。他人の理論を借りてきたことを正当化するために、宗教が使われている。

 キリスト教徒でも、資本主義者もいれば、共産主義者もいる。キリスト教的経済とかイスラム教経済という物もない。キリスト教徒の資本主義者、キリスト教徒の共産主義者は、宗教の都合の良い部分を、都合の良いように解釈しているに過ぎない。ガンジーは自立を掲げて自ら糸を紡いだ。しかし、これはあくまでデモンストレーション、一時的なもの過ぎない。ガンジーはヴェーデンの都合の良い部分を、自分の主義のために使用したのだ。近代科学理論は、宗教的なドグマよりはるかに役に立つ。その証拠に、宗教的な対立を科学的に解釈しようとする人はいるが、科学的な対立を宗教的に解釈しようという人はいない。北アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの対立が、現代では「階級闘争」と解釈されているように。キリストの生涯を、持つ者と持たざる者の対立と解釈する人はいる。しかし、現代の争いをキリスト教の教義と結び付けて考える者はいない。

 もし、現代のAIの問題を、宗教的に解決しようとするとどうなるだろうか。どの宗教もまず「賛成」、「反対」を表明するだろう。その後、「後付け」の理由を探そうとするに違いない。これまで、チェ・ゲバラの存在を、イエス・キリストと関連付けて説明しようとする宗教があったし、現代の環境問題に対して、意見を述べる宗教家もいるが、極めて少数派である。数十年後には、環境保護に対してカトリックは賛成、プロテスタントが反対などという世界になるかもしれない。そうなるとカトリック信者は電気自動車に乗り、プロテスタント信者はガソリン車に乗るという時代になるかもしれない。しかし、両社が基本としている聖書は、同じものなのである。

 かつて、カール・マルクスは、宗教を技術、経済の「上部構造」であるとした。しかし、これはかなり宗教を過大評価している。現代では、人間の「アイデンティティー」を、その「上部構造」と考える人が多い。ナチスの後、人間を「生物学的なアイデンティティー」でくくることがタブーとなった。宗教は、雨も降らすことはできないし、病気を治すこともできない。しかし、宗教はアイデンティティーを判断するのには極めて有効であった。民俗学的、生物学的に言うと、スンニ派やシーア派に違いはない。やっていることもほぼ同じ。社会システムもほぼ同じである。そこに区別を持ち込むのが「宗教」なのである。同じセレモニーをする、同じ衣服を着る、これらの宗教的伝統は、人々に一体感をもたらし、人々の生活を安定させた。イスラム教徒は、何をしていても、一日に五回礼拝に駆り立てられる。ヒンドゥー教徒、イスラム教徒は別の方法で、神への結びつきを確固なものにしている。しかし、その本来の目的は「自分たち他から区別する」ことである。いわゆる「自分たちは他とは違う」というナルシズムなのである。そして、それは女性差別など、特には悪ももたらすことがある。LGBTQを認めない国、女性の行動を極度に制限する国がある。

 近世で、宗教が政治的な意味を持った、政治に利用された例がひとつある。それは日本だ。日本は開国後、急速に近代化したが、それは西洋の完全な模倣ではなかった。政府が宗教を利用したのだ。それまで、多神教であった「神道」を、天皇を頂点とした国家宗教へと発展させた。そして、その宗教は、日本人のアイデンティティーを高めるために使用され、天皇への服従を正当化し、欧米に勝つためのエネルギーとして使用された。神、封建主義が、国家の近代化、工業化に使われたのである。しかし、その結果として誕生した、狂信的なナショナリズムが、日本を戦争へと導き、神風特攻隊のような悲劇を産み出した。日本の成功は他の国によって模倣された。ロシア、ポーランド、イラン、サウジアラビアなどで、国家のアイデンティティーとして、宗教が利用された。そのために、新しい宗教も生まれた。北朝鮮の指導者は統治のために、マルクス・レーニン主義と朝鮮伝統の宗教を結合させた「主体」が考案され、金王朝を支えるために使われた。その中心は、金一族の神格化であり、それは日本での天皇神格化と似ている。

 新しいテクノロジーが導入された後も、宗教的なアイデンティティーや、儀式に関連する争いは続いている。しかし、伝統的な宗教は、それらの争いの解決に役立つどころか、新たな争いの火種になっている。宗教が政治に関与することは、国の間の争いごとを起こすリスクにしかならない。このように、宗教は問題の解決に役立たないどころか、排他主義を増長させている。今まさに、ナショナリズム、宗教の壁を越えた協調が必要になること時に。

 気候変動の問題について、宗教指導者は、自分の宗教に都合の良い言い訳を考える。それができないと、信者を失ってしまうから。それは、一つの文明にまとまりつつある現代に、逆走するものである。現代は、ひとつにまとまろうという文明と、人々を分割しようとするナショナリズムが衝突している、人類をひとつの文明にまとめようという壮大な実験、それがEUである。

 

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