6章:文明――世界にはたった一つの文明しかない

 

 「文明の衝突」、「文明間の戦争」とよく言われる。「シリア内戦」、「イスラム国によるテロ」などを、「西洋文明」と「イスラム文明」の衝突と捉ええる人は多い。「イスラム国家に民主主義を根付かせようとする努力が挫折した」という解釈である。人間世界は、元々多くの「文明」に分かれており、その文明間のコンフリクトは避けられない、というのが基本的な考えである。動物が種の間で生存競争を行い、その結果勝ち抜いた種が生き残ったように、人間も、文明の間で生存競争が行われ、最後にはある文明だけが勝ち残ることになるのだろうか。そう考えると、キリスト教徒とモスレムのように、文明文化が違うグループの融合は無理で、多文化社会は成り立たないということになる。一つの文明だけが、長い期間をかけて生き残るというテーゼは、これまで文明、国家の存在を正当化する理由で使われてきた。しかし、結論から言うと、人間のグループは生物学的に言う「種」ではない。イスラム原理主義者においても、他の文明の考え方、マルクスやフーコーの影響を受け、それを取り入れている。

 チンパンジーは共同生活を行い、ゴリラは一頭の雄がハーレムを作る。それらのシステムは何十万年もかかって形作られ、遺伝子の中に組み込まれたものである。しかし、人間の社会システムは、せいぜい数千年、数百年の間に形作られたものであり、遺伝子にも組み込まれていない。ドイツなどはその社会システムが、ここ百年で六回も書き換えられている。そもそも「西洋文明」とは何なのか。EU憲章には「人権」、「民主主義」、「平等」、「法治国家」などが謳われているが、どれも象の尻尾や耳などの一部を触り、象が何であるか述べているようなものである。「ヨーロッパ・イコール・民主主義」という考えも誤りである。民主主義が古代アテネの時代から、一貫してヨーロッパで行われてきたわけではない。ヨーロッパの文明とは「ヨーロッパ人が行うこと全て」である。また、時代が移り変わろうとも、例え革命が起きたとして変わらない「テクスチャ―」であると言える。人々は、日々変わって行く。昔は社会主義者であったが、現在は資本主義者であるかも知れない。文明とは、その変化も抱合しなければならない。ウルトラオーソドックスのユダヤ人は、女性の写真が新聞や雑誌に掲載されることを許さない。今でも、女性が入った写真は、片っ端から女性の部分を消している。社会の変化に一切ついていこうとしない姿勢は、滑稽でもある。イスラム教徒もしかり。聖典を解釈するとき、時代に合った解釈をしなかったり、一部の極端な部分のみ取り上げ残りは無視していく人々がいるのは残念なことである。イスラム文明とは、モスレムの人々が、自分たちが生きやすいように合わせて作られたものでなければならない。

 人間の文明が、生物学的な「種」と決定的に違うことがひとつある。それは、種は一度別れたらもうひとつには戻らない。人類とチンパンジーは六百万年前に別れて、そのままである。しかし、人間の文明は後でまた一緒になることができるのである。現在、全体的に、人類は一つの文明へと向かっているように思える。現在ひとつの属する人数は増加し、グループ自体の数は減少しているように思われる。つまり、より大きな文明に統一されようとしている。そのプロセスにはふたつあり、複数のグループの接近と、各グループ内の均質化である。戦争さえも、その傾向を進める役割を担っている。

現在は、国家としての結び付きが強くなってきている。千年前、ヨーロッパは数多くの封建領主たちの領地に細分化されていた。また、イスラム世界でも、数多くの首長、サルタンの国に分かれていた。それらの国の制度はバラバラで、互いに反目している国も多かった。現在は、どの国もほぼよく似た構造を持っている。主権が認められ、議会があり、国連に加盟していることなどである。その理由は、存続に成功した国は互いに共通点を持っており、どんどんと似たものになっていく。それに失敗した国のやり方は誰も追随しない。現在ではタリバーンでさえ、一応、他の国と共通した、国としての原則を持っている。国としての約束事、パラダイムを守らないと、生き残れないことを皆知っているのだ。

二〇一六年のリオ・オリンピックに、選手たちは国単位で参加した。宗教、階級、言語ではなく。開会式や閉会式では、選手たちは国単位に集まり、似たような長方形の国旗を持って行進した。また、勝者には、よく似た数分間のオーケストラで演奏される国歌が流された。国歌のメロディーも歌詞も、国名を隠して聞いたらどこのものかよく分からない。それほど似ている。二十世紀で、政治絡みで中止になったオリンピックは三回のみ。政治に左右されながらも、存続している。

では千年前にオリンピックを開催しようとすれば、どのようなものになっただろうか。ロジスティックの問題は無視して、どのような選手団になったかのみ、注目してみよう。まず、数が多い。おそらく一万を超える国からの参加になっただろう。しかし、当時中国を宋が支配していたが、属国の高麗や越南が参加したのか、また、その場合、属国の選手と一緒に扱われることに宋の選手が納得しなかったことも考えられる。イスラムの国は、スンナ派としーア派に分かれて選手団を構成したかも知れない。また、中近東には国に属さない遊牧民が大勢いた。彼らどのような形で参加するのかもわからない。また、ヨーロッパでも「フランス」という国はまだないので、各諸侯の代表となったであろう。さらに、余りにも国の移り変わりが激しく、オリンピックが終わって帰ろうとすると国がなかったなどということもありえるだろう。このように、国家という考えがまだ定着してなくて、国として統一行動を取ることは不可能だった。

その後、近代に入り、人々は政治的、経済的に色々なモデルを試みてきた。現在では、ひとつのモデルの完成形がほぼ出来上がっている。どの国もほぼ同じ政治、経済システムを持っている。「イスラム国」がシリアで、西洋文明に関する物をほぼ全て打ち壊したときにも、銀行の中にあるドル紙幣だけは大切に持ち帰った。ドル紙幣は、その信用に裏打ちされ、国境を越えて流通しているとは言え、単なる紙なのである。現代の人間の均一性が一番よく分かるのは、病気になったときである。千年前に病気になったなら、場所によって色々な「診断」が下された。西洋では「神の怒りの結果であり、教会に寄付すれば治る」という診断があり、中東では「体液のバランスの崩れであり、薬草や食事で治る」と言われた。インドや中国では、それぞれに診断、治療法があったに違いない。しかし、現在、病気になれば、世界中どこでも、ほぼ同じ診断が下され、ほぼ同じ治療が受けられる。前述のイスラム国も、病院は破壊せず、むしろ、西洋医学を学んだ世界中の医師や看護師に援助を要請した。

どの宗教を信じる者も、人間の身体は細胞から出来ており、病気はバクテリアによって引き起こされるものだということを信じている。また、宇宙や物理学についても、同じ見解を持ち、イラン人や北朝鮮人でさえ、アインシュタインの相対性理論を信じ、それに基づいた原子爆弾を作っている。人間は違った宗教とアイデンティティーを持っていても、実用的な面では、同じことを信じている、つまり、同じ文明の中にいるのである。「ヨーロッパ人」である条件は何だろう。もはや白い肌、キリスト教ではない。あらゆる人種、宗教、争いを抱えながら、ヨーロッパ文明はその上に存在している。将来はどのようになっていくのか。問題はまたもや、「地球温暖化」と「コンピューターの発達による人間の余剰」に立ち返る。これらに対処するために、人類はネットワーク化され、協力しなければならない。つまり、一つの文明に収束する方向で進んでいくことが予想される。しかし、グローバル化が叫ばれる一方で、ナショナリズムの嵐が吹き荒れているのも現実である。この矛盾について、次章で述べて行こう。

 

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