第2章:雇用――あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれない
二〇五〇年の労働環境はどうなっているのだろう。学習する機会とロボットが、あらゆる職種の業態を変えていることは容易に想像がつく。しかし、いつから、どのような形で、そのように変わっていくのか、予想できる人はいない。テクノロジーの発達は、失業でなく繁栄をもたらすと言う人もいる。十九世紀、産業革命による機械化が進んだが、失業者は増えなかった。新しくできた他の職種に吸収されたからである。そして、生活水準の低下も起きなかった。それどころか、生活水準は向上した。今進みつつある、情報技術とバイオテクノロジーの爆発的な発展の後、どうなるのだろう。今回も、産業革命の時のようになるのだろうか。それとも根本的な変革がもたらされるのであろうか。
人間には、身体能力と認知能力がある。これまで、人間と機械は身体能力で争っていた。その結果、身体能力に優れた機械により、人間の身体を使っての仕事が置き換えられた。人間は、認知能力を使う仕事、分析、コミュニケーション、感情に特化するようになった。しかし、今回は、その認知能力で、人間はAIと争わなくてならない。AIが感情を理解すれば、人間が勝てる部分はもうないのではないか。バイオテクノロジーにより、人間の感情の生化学的な仕組みが解析できれば、それをコンピューターにシミュレーションさせることも可能になる。そうすればコンピューターも感情を持つことができる。また、人間の脳内の意思決定に関する部分が徹底的に解析できれば、コンピューターは人間と同じ決定を下せるようになる。人間の「意思決定」は、そもそもこれまでのサンプル認識と確率計算に基づくものである。その両方をコンピューターに覚えこませれば、機械も人間と同じような、本能に基づく決定ができるはず。ときには、人間と同じように、誤った決定がなされるとしても。
また、意外にも、コンピューターは、他人の気持ちを思いやる職業、他人の心を読むことが必要な職業が得意なのである。例えば、車のドライバー、為替のディーラー、弁護士なのである。例え、神が人間に与えた決断力であっても、それが生化学的に解明できれば、コンピューターがそれを真似することは可能である。運転手、為替のディーラー、弁護士などは、相手の人間の、表情、声、身振りなど、色々な兆候を観察、分析し、過去の経験と照らし合わせて判断をしている。何も、魔法を使っているわけではない。 コンピューターにより人間の専門職が危機にさらされる事態は、バイオテクノロジーと情報工学の組み合わせによって起こる可能性が益々高くなる。バイオテクノロジーにより脳の構造が明らかになれば、コンピューターが精神分析医に取って代わることになるかもしれない。
コンピューターは人間を真似るだけではなく、人間が出来ないこともやってしまう。例えば、「接続性」や「情報の常時更新」である。人間だと、全員が常に新しいデータを見ていることは考えられない。しかし、コンピューターはネットワークを通じ、あっと言う間に情報や経験を共有できる。一人の運転手の情報が、瞬時に運転手全員に共有されるのである。車の事故は、相手の出方を見誤って起こってしまうことが多い。運転手全員が同じアルゴリズムで動いていれば、相手の動きは全て予想できる。また規則が変わったときも、全ての運転手に一斉に適用できる。医療においても、最新の情報が、全世界の医者に瞬時に伝わる。人間は一人一人は優秀でも、情報共有という点においては、確実に機械に劣る。
「それでは個性がなくなってしまう。」
「人間では一人が失敗しても影響は限定的だが、アルゴリズムだと、それが全体に拡散されてしまう。」
という意見もあるだろう。その場合は、その「人間的な要素」も、アルゴリズムに組み込めばいいのである。
いずれにせよ、AIの医者により、患者がどこにいようと、最新の医療を安価で供給できるのは確かである。また、車の自動運転により、確実に事故が減ることは確かである。現在、毎年、全世界で百二十五万人が自動車事故で亡くなっているが、その九十パーセントが、人的なミス、不注意によるものである。二〇一二年のアメリカでは、自動車事故の三十パーセントが飲酒によるもの、三十パーセントがスピードの出し過ぎによるものである。自動運転ではこれらは起こりえない。自動運転により毎年百万人の人命が救えることになる。
では、自動化で余った医者や運転手は何をすればよいのだろうか。他の職種を探すことになるだろう。ルーチン仕事はどんどんAIに取って代わられることになるが、多様で色々なシナリオが予想される職種は、自動化が難しい。例えば、看護や介護の仕事など。これから、少子高齢化が進むにつれ、これらの仕事が受け皿になることが予想される。
では、歌手、作曲家、演奏家、DJなど、アーティストの仕事はどうだろうか。彼らとて、音楽を一から作っているわけではなく、数多くの可能性の中から選んでいるだけである。気持ちの高揚、芸術的な感動も、生化学的なプロセスに過ぎないとすれば、それらは分析され、再現されることができるはず。結局は、アルゴリズムに置き換えられ、制御できるものなのである。音楽におけるインプットは音の波形であり、アウトプットは脳の電気的な信号である。その結びつけは、近い将来アルゴリズムによって可能になるのではないか。
ある種の感情が起こると、それに合った歌が歌われる。人々の感情を制御したければ、その歌を流して、皆で唄わせればよいのである。
「人間の製作には常に偶然が伴っている。それが面白いのである。」
という人がいるかも知れない。その場合には、アルゴリズムに「十パーセントは偶然に従え」と教えればよいのである。AIは偶然さえも巧みに取り入れるであろう。また、その結果を聞いて、「偶然度」を微調整することも可能である。
AIに人間の感情を理解して、そのときの気分を取り入れることができるかと問う人もあるだろう。寂しい時に心に響く音楽もある。そんなときは、聞いている人間に判断を任せ、AIはそれに追従すればよいのである。その人の気分を分析して、その人のその時の気分に合った音楽を選ぶことは難しいことではない。
では一歩進んで、AIはその人、人々に好まれる音楽を作ることができるのだろうか。AIは聞いている人の脈拍や呼吸数から、どこが気に入り、どこが気に入らないか、分析をすることは可能である。そして、最終的に、その人が気に入るように、作り変えればいいのである。そのうち、AIは一人一人に合った曲を作れるようになるかも知れない。その場合は、聞いている人はその中に自分を見つけられるので、その曲を気に入るはず。Facebookなどが、ある人の過去を分析して、その人に合った音楽を作るなどというサービスを始めるかも知れない。
人々は、ヒット曲を好んで歌う。AIは万人に愛される曲を作ることができるだろうか。AIは生化学的に、何が引き金になり人間が快楽を感じるかを分析できる。それを引き起こすような曲を、AIは作ることが出来るだろう。しかし、音楽に対する評価が、人間の感情のとり深いレベルに依存しているなら、AIにはそれを引き起こすことは難しいかも知れない。チャイコフスキーは無理でも、ブリタニー・スペアースくらいは可能であろう。
現在ある職業の多くが、AIに取って代わられるのなら、その分、新しい職業が作られなければならない。医者や看護師がAIに代わっても、新薬の開発や、手術の技術の改良は、人の手によることになるだろう。飛行機が自動操縦になっても、その装置を開発、制御する人間は必要であろう。現在、米空軍では、データを解析する人材がいないため、ドローンを十分に飛ばせないという事態が発生している。そういう意味では、二〇五〇年は、AIと人間が対立する時代ではなく、協調する時代になるかも知れない。例えば、一九九七年に、コンピューターが初めて、人間のチェスのチャンピオンを破った。その後、チェスの世界は、人間とAIが協調することにより進歩している。その状態を、人間と馬がミックスした、「ケンタウロス」と呼ぶ人もいる。
大きな問題は、新しい仕事には、極度の専門知識が求められ、これまでルーチン仕事しかしたことのない、技術のない失業者には、務まらないことが多いということである。産業革命により農民は工場労働者になった。その工場労働者は後にサービス業に流れた。しかし、工場のベルトコンベアでの仕事や、スーパーのレジ打ちは誰でもできた。しかし、現在求められているのは「専門職」なのである。新しい仕事ができても、その裏で「役に立たない人間」が大量に発生する。その結果、一方では人手が足らず、一方では失業者が増えるというアンバランスが生まれるであろう。しかし、再教育を受け手、新しい仕事を手に入れた人は、その後ずっと安泰だろうか。そうではない。その仕事もいつまでもあるとは限らない。
いずれにせよ、「アシスタント」としてAIはどんどん重用されるだろう。シャーロックホームズで、ワトソン博士をAIがやれば、もっとスムーズに事件を解決できるかも知れない。二〇一七年、チェスの世界で、興味深い対戦が行われた。グーグルのコンピューター「アルファ・ゼロ」が、それまでのチャンピオンであった「ストックフィッシュ・エイト」を破ったのである。つまり、コンピューター同士の対戦が実現したのだった。勝った「アルファゼロ」は、これまでの手に囚われず、独自に手を考え、その結果勝利した。このことは、「創造性」さえも、AIの得意分野になっていくことを意味している。しかも、アルファゼロはわずか四時間で、人間の手を借りずに、それらの手を考えたのである。最近のチェス界では、人間が余りにも独創的な手を打つと、AIを使ったと疑われるという。ここでも、創造性が人間の専売特許ではなくなったことが分かる。
チェスの世界だけでなく、他の分野でも、AIの進出はどんどん進んでいる。その影響は、数年で落ち着きを取り戻すのではなく、年々拡大していっている。人間がルーチン仕事を続けていくのはほぼ無理と言ってよい。そして、次の問題は、「人間は絶え間ない転職のストレスに耐えられるか」ということ、「役立たず階級の人々はどうするか」ということであろう。
二〇一八年現在では、AIの発展がまだ大量失業につながっていない。それどころか、米国では、ここ数年失業者が減っている。自動運転の車は、政治的な理由、また利用者の判断により、増えてはいない。しかし、楽観は許されない。失われた職業の数だけ、新しい職業が増えると考えるのは危険である。この際、過去の事例は役に立たない。
産業革命の際、全く新しい環境が作られ、全く新しいことが問題になり、全く新しい価値観が出来上がった。また、新しい体制が出来るまでに何十年もかかり、それなりの授業料も払った。今回のバイオテクノロジーとアルゴリズムによる革命の影響は、産業革命よりも大きいかも知れない。その解決のために、もう戦争はできない。人類が滅亡してしまう。
今後の課題を整理してみよう。
1.
大量失業をどのように避けるか。
2.
どのようにして、新しい職業を作るか。
3.
もし大量失業が出たときに、どのようにして乗り越えるか。
大量失業を避けるために、政府が、AIによる自動化のスピードを意識的に遅くすることは可能だが、そうすると、科学の発展の芽を摘むことになってしまう。また、政府の製作とは裏腹に、民間でそれが行われることになるだろう。しかし、スピードを落とせば、新しい職業を作るまでの時間を稼げることは確かである。
新しい職業を作るには時間がかかる。それは、専門知識を得るのに時間がかかるからである。人々がその専門知識を得るために研修をしている期間、政府はその生活を保障しなければならない。そして、その職業も、また数年でAIに取って代わられるかも知れない。その場合、また職業転換の間の生活保障が必要になってくる。それは、経済的な援助だけではなく、精神的な援助も含まれる。
政府は「ポスト労働社会」の到来を、宣言しなければならない。その第一歩は、これまでの前提を否定することである。共産主義における、「労働者階級の独裁」を思い浮かべる方がいるかも知れない。しかし、「労働者」そのものが不要になってしまうかも知れない。
「大衆は、仕事を失っても、消費者として常に経済に必要とされる。」
という人がいるかも知れない。しかし、ロボットが鉄鉱石を掘り出し、その鉄鉱石で鉄が作られ、その鉄でロボットが作られ、そのロボットが・・・というサイクルの中に、「消費者としての大衆」は介在しない。コンピューターやAIが、生産者としての役割だけでなく、消費者としての役割も果たしている。
現在既に、AIが株や原材料の取引に使われている。また、グーグル検索が、消費の動向に大きな影響を与えている。検索のアルゴリズムに、意識や感情はない。アイスクリームをグーグル検索すると、アイスクリームが紹介されるが、それが美味しいかどうかは関係ない。筆者は最近本を書いたが、出版社に、「グーグル検索にひっかかり易い」言葉を選んで紹介文を書くように勧められた。
もし人間が、生産者としても消費者としても必要とされないとすると、どのようにして人間は、それを精神的に乗り越えていけばいいのだろうか。その答えが出るのを待っていたのでは遅すぎる。そのモデルを早急に作り出さねばならない。どのようにすれば「職場」ではなく「人間」をどのように守れるかというモデルを。どのようにすれば、人間が生きていくことの満足を得ることができるかというモデルを。
全く条件を求めないで、人々に生きていくための金を与える、それも一つの可能性である。人間の「労働」を拡大解釈すれば、子育ても立派な「労働」であり、それに対価が支払われるべきであろう。基本的な生活の保障のために、教育、医療などの公共サービスを無料にすることも考えられる。それは共産主義と少し似ている。しかし、金であっても、サービスであっても、どこまでが「基本的」なものなのか、定義は難しい。
条件を定めない、一般的、基本的な生活の保障は、フィンランドで始められた。人々は、職を探す、探さないに関わらず、五百六十ユーロの金を貰うことができる。その他の国、地域でも、試験的に導入されている。
自動化による失業は国境を越え、全世界に波及していく。例えば、3Dプリンターにより、製品の複製が可能になると、これまでバングラディシュで作られていた衣料品が、どこでも作れるようになり、発展途上国での失業につながる。事実、発展途上国に置かれていたコールセンターが、今ではAIに取って代わられている。その結果、金がアジアに流れなくなってしまう。そして、ハイテク企業は益々発展し、貧富の差が、今まで以上に拡大してしまう。そのテンポが狂えば社会は崩壊する。もし、失業した人を再教育するシステムがなければ、一方に取り残された人々が破滅してしまう。更なる問題は、ハイテク企業が、税金を自国で払わないことである。失業をした人々を救済する原資が枯渇してしまう。
「基本的生活保障」とは何であろう。生物学的に言うと、人間は千五百から二千五百キロカロリーあれば生きていける。また、文化によっても異なる。「教育」、「医療」の他に、ある国では「礼拝に参加できること」、「インターネットにアクセスできること」が基本的生活の要件になるだろう。また「教育」と言っても、「コンピュータープログラミングは?」、「バイオリンは?」という風に問われるであろう。「医療のレベル」も様々である。その要件はどんんどん増えていく傾向にある。それをどこまで保証すればよいのだろう。しかし、それを追い続けないと貧富の差は拡大していく。しかし、それを実現しても、不平等だという人は常にいる。そもそも、ホモサピエンスは満足するように作られていないであるから。人間の満足度は「現状」ではなく「期待度」による。また「他人との比較」による。従って、現状をどれだけよくしても、人々が満足する状態にはならない。
イスラエルには「ウルトラオーソドックス」と呼ばれるユダヤ人のグループがある。彼らは働かない。政府が援助しているものの、貧しい生活を送っている。しかし、満足した生活を送っている。一見、歴史から取り残されたような生活を送っているこれらの人々が、実は歴史的に見て、最先端の生活を送っているのかも知れない。しかし、他の国民から、「社会に貢献しない人々を援助するのは金の無駄」との声も出ている。「ウルトラオーソドックス」の人々も、職を探さねばならない日が来るかもしれない。
いずれにせよ、我々の仕事も多くは、早晩、AIに奪われ、我々は生活に対するコント―ロールを失ってしまうだろう。我々は自由の物言いを失い、データの独裁に屈してしまうのだろうか。