アムステルダム空港と箱根駅伝

 

アムステルダム空港、停まっている飛行機もまばらである。

 

「こんな空いた飛行機に乗ったことないや。」

僕は、一番後ろの座席に腰を下ろしてつぶやいた。僕の座っている席から前四列は、誰もいない。

「ラッキー、寝ていける。」

僕は思ったが、この時期、飛行機で旅をしなければならないこと自体「アンラッキー」なのだ。前日のチェックインのとき、エコノミークラスで「X」の付いた、つまり、乗客に割り当てられた座席が二十三しかないのは知っていた。アムステルダム空港「E六」ゲートで、オランダ航空大阪行きの飛行機を待っていたのは四十人ほど。搭乗は五分もかからなかった。一週間前の十二月二十七日、日本政府は、外国人の日本への渡航を禁じていた。従って、今、日本に入れるのは日本国籍を持つ人だけである。いくらなんでも、帰って来た自国の民を、政府が無下に追い返すことはない。しかし、もちろん、それにも条件があった。ひとつは、

「出発前、七十二時間以内にPCR検査を受け、陰性であった人だけ、日本へ向かうことを許します。」

と言うこと、もうひとつは、

「日本到着後、もう一度検査を受け、陰性であろうがなかろうが、三日間、『空港内の隔離施設』で過ごしていただきます。」

というもの。三日目に再度検査をして、それが陰性であった場合、初めて空港から出られるということだった。

一月三日の朝、ロンドン発だったので、僕は大晦日の午後、隣町の私立病院でPCR検査を受けた。元旦の昼に「陰性」であるという証明書がEメールで届いた。それを持って、僕は三日、まず、ヒースロー空港からアムステルダム行きの飛行機に乗った。ロンドンからの飛行機の座席は半分くらい埋まっていた。もちろん「ソーシャルディスタンシング」のために、満席にはしないとは思うが。ヒースロー空港は朝が早かったこともあってか、僕たちの搭乗口以外には、ほとんど人影がなかった。アムステルダム空港には結構沢山人がいた。僕は、出来るだけ他人に近づかないように、ロビーの隅に座り、大阪行きの飛行機の出るまでの五時間を過ごした。折しも、箱根駅伝の復路の行われた日。五時間の待ち時間は、六区から最終区までをユーチューブで見るのに。ちょうど良い長さだった。もちろん、日本では既に終わっていたので、最終順位だけは知っていた。最終区、ずっと先頭を走っていた創価大学が、ゴール直前で抜かれる。

「惜しかった、けど、よく頑張った。」

感動的な幕切れ。時計を見ると午後二時、出発の三十分前、僕は搭乗ゲートへと向かう。そして、ガラガラの飛行機に乗り込んだのだった。「ボーイング七八七」のキャパは二百五十人以上。オランダ航空、よく大阪行き便を飛ばし続けていると感心し、尊敬する。