お父さんの仕事、その二

 

実際、動物を構図の中にいれて写真を撮るのは結構難しい。ポーズを取ってくれないから。

 

 家族で行動中、僕は、皆の「写真係」でもある。スミレに言わせると、僕は「写真中毒」だという。

「パパは写真撮り過ぎ。」

「パパって、何処へ行っても、写真ばかり撮ってる。写真を撮らないで、ちゃんと自分の目で見て、心に焼き付けないと。」

と彼女は言う。確かに、僕は写真を撮るのが好き。何時も一眼レフのカメラを首から提げ、今回も一日平均二百枚くらいの写真を撮っていた。

「でもね、良い写真を撮ろうと思って、常に辺りを観察していることも確かなんよ。その分、普通の人よりも、もっと注意深く周囲を見ているかも。」

これが僕の自己弁護。

さて、二百枚も撮った写真をどうするかというと、そのうちから、二十枚ほどを選んで、編集する。そして、自分の運営する「モトのウェッブアルバム」のページに載せるのである。そうすると、日本の家族も見ることが出来るから。つまり、僕は、我が家の「報道班」なのである。

 今「編集する」と書いたが、僕の写真、少なくともアルバムに載っているものは、「構図」、「明度」、「彩度」などの編集がかかっている。そうそう被写体は、写真のちょうど真ん中に来てくれない。特に動いている物や、動物を獲った場合なんか。僕にとって、「編集をしない写真を他人に見せる」ことは「女性が化粧をしないで他人の前に出る」のと、同じような気分なのだ。

「パパは、『フェイスブック』中毒だわ。」

とも、スミレは言う。僕は、自分の「ウェッブアルバム」に載せた写真の数枚を選んで、「フェイスブック」にも載せている。

「『フェイスブック』はリアリティーじゃないわ。」

とスミレは言う。その通り。「フェイスブック」に投稿されるストーリーや写真は、「作られた現実」だと思う。人間、そう度々、面白いこと、楽しいことに出会うわけはない。「フェイスブック」の投稿は、「現実」の一部を切り取って、それを他人から見て面白いように加工したものなのだ。先ほども書いたが、僕は写真を編集、加工している。つまり、僕の写真自体がもう「作られた現実」なんだから、もういいやという感じ。

念のため、今書いているこのエッセーも「作られた現実」ですので。僕は、読者を意識して、読者が読んで面白いようにストーリーを作っている。だって、書いた限りは、出来るだけ沢山の読者に読んでもらいたいから。僕にとって、「フェイスブック」は、エッセーを読んでくれる読者の開発のための一つの手段。「フェイスブック」に、普段から面白そうなことを載せていれば、エッセーを紹介したとき、読もうという気になってくれる方が多いかと思って。と言うことで、この旅行記、かなり「加工」されておりますのでご注意を。

 

眼下にアザラシ!こういう時に限って、望遠レンズを持ってない。

 

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