ジェームス・ボンドになった気分

船尾のプール、まだ泳いでいる人は誰もいない。

 

ダンスクラスの後、レンタルで頼んでおいたタキシードを、船内の店に取りに行く。今日は「フォーマル・ディナー」の日なのだ。船の真ん中には「アトリウム」と呼ばれる吹き抜けの場所があり、その周囲にブティックや免税店などの店がある。船室に戻り、タキシードなるものを生まれて初めて身に着けてみる。白い上着に、黒いズボン。ズボンの横には線が入っている。それに黒の蝶ネクタイ。僕は普段から背広も着ない人。オフィスには黒いジャケットが吊るしっぱなしになっていて、来客があったりすると、それを引っ掛けて出て行くだけ。フォーマルウェアとは全く縁のない人なのだ。自分のタキシード姿を鏡に写してみる。

妻:「結構似合うじゃない。」

僕:「〇〇七のジェームス・ボンドになった気分。」

部屋で少し休んだ後、船の中の「探検」を続ける。船内は広く、まだまだ新しいレストランやプールなどの施設が発見できる。外は寒く、デッキに出ている人は殆どない。温室のようになったガラス張りの室内で、皆寝転んだり、食事をしたり、飲んだりしている。見えるのは三百六十度海ばかり。ぼちぼち退屈してくる頃である。

マユミと僕は船の中でピアノを弾きたいと思っていた。「ピアノバー」のピアノはさすがにだめだと言われたが、ナイトクラブ「ハバナ」のステージの脇にあるグランドピアノは「ナイト」にならないと使わないので、午前中や乗客が上陸中は、空いていれば使ってよいとのことだった。でも「上陸中」は僕達も上陸しているんだけど。

昼飯は食べなかったが、マユミがアフタヌーンティーを食べたいと言い出した。船内では、「ブレックファスト」、「ランチ」、「アフタヌーンティー」、「ディナー」のためにレストランが開いている。平たく言うと、二十四時間、何時でも食事ができるのだ。マユミがセルフサービスのカフェテリアで、お茶とスコーンを乗せたトレイを運んでいる。そのとき、船が揺れた。彼女は転んで食べ物をぶちまけている。ウェイターが駆け寄ってきて、後始末をしてくれる。揺れる船は何をするのも要注意。

夕食のためにタキシードを着る。まさに、〇〇七のダニエル・クレイグになった気分。マユミは濃紺のドレス。早めに部屋を出て、ドレスアップした姿で、ピアノバーでビールを飲む。周囲の男性は皆ディナースーツに黒蝶ネクタイ姿。六時半に着席すると、今日は右隣のカップルがいない。食事の途中、一緒のテーブルの他のメンバーの名前を聞く。ジョン、ジェマ、キース、ジャネット。昨晩ほとんど話をしなかったキースが今日は突然雄弁になった。ジェマは船酔いで一日気分が悪く寝ていたが、夕方になってやっと気分が回復し、夕食の席に出て来られたという。

夕食の後劇場でのショーを見る。しかし堪らなく眠くなって、独りで先に部屋に戻る。船が揺れているので廊下を真っ直ぐ歩けない。その時、前から真っ直ぐ歩いているおじさんがいるではないか。

「どうしてそんな真っ直ぐ歩けるんですか。」

と聞いてみる。

「わたい、酔うてまんねん。」

もちろん冗談。

 

白いだけに、汚さないように食べるのに気を遣う。

 

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