十年間に渡って書かれた十作を順に紹介していく。

 

1993年、再度映画化された「ロゼアンナ」、マルティン・ベックをゲスタ・エックマンが演じている。

 

l  「ロゼアンナ」(Roseanna 一九六五年)

 

一九六一年七月、ストックホルムとイェーテボリを結ぶ運河を浚渫(しゅんせつ)している船があった。運河の底に溜まった泥の中から若い女性の死体が発見される。その死体は絞殺されたものであった。ストックホルムからベック、コルベリ、メランダーの三人の刑事が派遣され、地元モタラ市警察のアールベリ等と共に捜査が開始される。

捜査は難航する。死体の身元が確認できないのである。周辺の町だけではなく、スウェーデン全土で、該当するような若い女性が行方不明になったという報告もなく、捜査願いも出されていない。外国人の可能性も考えられるため、海外の警察にも協力が要請される。しかし、何の手掛かりも得られないうちに二ヶ月が経ってしまい、派遣された刑事たちはストックホルムに戻る。

死体の発見から二ヵ月後、思わぬところから死体の身元が判明する。それはアメリカ・ネブラスカ州警察の警部カフカからの届いた電報であった。そこには、死体はおそらく、ネブラスカに住む図書館司書、ロゼアンナ・マクグロー、二十七歳のものであると記されていた。ロゼアンナ・マクグローは当時ヨーロッパを旅行中であり、友人に、ストックホルムより

「これからスウェーデンの運河を通って旅行を続ける。」

と書かれた絵葉書を出していた。そして、その後消息を絶っていた。彼女は、ストックホルムから、運河を通ってイェーテボリに向かう船に乗り、その途中に何者かに殺され、運河に投げ込まれたものと推理された。

ベックと彼のチームは、ロゼアンナが乗っていた船を特定して、その乗務員、乗客、合計八十五人のリストを作り、その身元を特定する作業に入る。しかし、乗客の中には外国人観光客も多く、身元の確認は難航する。犯人らしき人物を特定できないまま、更に数ヶ月が過ぎる。

年が改まり、誰もが事件の迷宮入りを考え始めたとき、ふたつのきっかけから、捜査がようやく進展を見せ始める。ひとつは、アメリカのカフカ警部の送ってきた、ロゼアンナの女友達と、元ボーイフレンドの証言である。その証言により、殺されたロゼアンナの意外な性格が明らかになる。もうひとつは、外国人観光客が多いという事は、船中で撮られた写真も多いはず、その写真に何か手掛かりが写っているかも知れないという、ベックの思いつきである。ベックとそのチームは、当時の乗客に、船中で撮った写真の提供を呼びかかる。世界各国から沢山の写真が届く。果たして事件の手掛かりが、写真の中から発見できるであろうか・・・

主人公、マルティン・ベックは、仕事熱心ではあるが、出世コースから外れてしまっている中年男。家庭では妻や子供たちから粗大ごみ扱いを受け、仕方なく彼は家で模型の船を作る事に熱中している。季節の変わり目には必ず風邪を引くが、絶対に仕事を休まない。冴えない、しかし、一徹な人物である。そして、彼のチームにはなかなか多彩な人物が揃っている。

コルベリ:いつもシニカルな冗談を言う。仕事中にクリップで鎖を作っていたりする。

メランダー:ソーセージと水で生きていると言われる節約家。

アールベリ:モタラの刑事。苦労人で好感の持てる人物。

ルンドベリ:指名手配の男を偶然発見し、絶妙の尾行をする。

しかし、この物語での犯人逮捕への最大の功労者は、アメリカ・ネブラスカ州のカフカ警部であろう。彼は、殺された女性の身元を発見し、的確な人物を尋問する。彼の送ってくる情報が、スウェーデンでの捜査の、最大の推進力となるのである。

ベックは、何ヶ月にも渡って捜査が全然進展しないときに、自分にこう言い聞かせる。これが、いわばベックの信条ともいえるべきものであろう。

「マルティン・ベックは自分の身を正した。もし彼が事件解決の希望を捨ててしまったら、事件全体が引き出しに入ったまま、日の目を見る事がなくなってしまうのだ。警察官として持つべき、三つの大切な特徴を自分が持っている事を忘れてはいけない。それは、粘り強いこと、論理的に考えること、そして落ち着くことだ。(47頁)」

結果的に、ロゼアンナの女性として(少なくとも当時のスウェーデンでは)奔放な性格が、彼女の運命を変えてしまうことになる。今では女性として当たり前の性格や行動が、当時は珍しかったのである。そこに四十年の間の、世相と人々の考え方の変化を感じる。

 

 

l  「蒸発した男」(Mannen som gick upp rök 一九六六年)

 

一九六三年の夏、ベックは家族と休暇を過ごすために、ストックホルム近郊の島に渡る。しかし、休暇の第一日目、ベックは警察署長のハマーに電話で呼び戻される。ハマーは、ベックに外務省に出頭し、ある高官の指示に従うようにと告げる。

外務省。その高官が、ハンガリーのブダペストで消息を絶ったスウェーデン人のジャーナリスト、アルフ・マトソンの捜索をベックに依頼する。東欧をテーマにしたルポルタージュを得意とするマトソンは、取材先のブダペストで、一週間前に姿を消していた。そして、外務省はマトソンが東側のスパイではないかと疑っていた。記者の失踪が表沙汰になることにより、両国の関係が悪化するのを恐れた外務省は、ベックに、ブダペストに飛び、消えたマトソンを捜し出すように要請する。ベックは休暇を中断して、ハンガリーに渡る。

出発前、ベックはマトソンの妻と友人に会い、マトソンがどのような人物であったかを探る。マトソンは大酒飲みであったが、仕事はきちんとこなしていた。しかし、今回は、会社に原稿も送らず、連絡もしていない。ブダペストに着いたベックは、マトソンが失踪する前、最後に滞在したホテルの同じ部屋に投宿する。マトソンは、ホテルの部屋に、荷物やパスポートを残したまま、姿をくらましていた。

マトソンはブダペスト到着の夜、別の安宿に泊まり、翌日、そのホテルに移った直後に行方不明になっていた。ベックはその安宿を訪れ、従業員と話すが、何の成果も得られない。ベックの同僚、コルベリは、マトソンがアリ・ベークというハンガリー人女性の水泳選手と、過去に接触していたことを調べ上げ、ベックにそれを伝える。ベックはアリ・ベークの住所を見つけて、彼女の住むペンションを訪れる。彼女はドイツ人の男と一緒にいた。彼女はマトソンとは会ったこともないとベックに告げる。

ベックは、自分が誰かに尾行、監視されていることを知る。ハンガリー警察が自分を尾行していると思ったベックは、警部スツルカにその点を問い質すが、スツルカは知らないと言う。折からブダペストは猛暑。翌日、スツルカがベックをプールに誘い、二人は温泉につかりながら、マトソンに関する情報を交換する。マトソンは完全に合法にハンガリーに入国していた。また、パスポートなしには、国外に出ることは不可能と思われた。

プールからの帰り道、ベックはアリ・ベークと再開する。ベックとアリは一緒にドナウ河観光の船に乗り、食事を共にすることになる。アリは、自分もプールの帰りだと言うが、ベックは彼女の手提げ袋の中の水着が濡れていないことを不思議に思う。深夜、ベックがホテルの部屋に戻ると、先ほどホテルの前で別れたアリが忍んで来ていた。彼女は、服を脱ぎ捨て、裸でベックを挑発するが、ベックは取り合わず、彼女をタクシーに乗せて帰す。 

翌日、暑さのために寝付けないベックは、ホテルを出て、深夜ドナウ河の畔を散歩する。突然ふたりの男がベックを襲うが、スツルカの部下である警官によって、襲撃者は逮捕される。男のひとりは、ベックがアリのペンションで見かけたドイツ人の男であった。スツルカの捜査の結果、彼らの車の中から大量の大麻が発見される。男たちの自白により、彼らが旅行添乗員の身分を利用して麻薬をトルコから密輸入していたこと、アリもその協力者であること、そして、マトソンがその麻薬を大量に買い付けていたことが明らかになる。マトソンが度々東欧を訪れていたのは、麻薬の密輸のためであったのだ。

麻薬密輸の一味は、今回、マトソンは約束の場所と時間に現れず、マトソンには会っていないと証言する。ハンガリー警察も本格的な捜査を始めるが、マトソンの行方を見つけることができない。ベックはスウェーデンに帰国する。彼は、マトソンの残した荷物を詳細に分析する事により、マトソン失踪のトリックを発見する・・・

ひとりの人間が、何の足跡も残さず、忽然と消えてしまう、よくある話であるが、そのトリックは数多くある。この筋書き、よく考えられている。しかし、そこに至るまでの道程は長い。ベックはブダペストを単身で訪れたものの、勝手も分からず、手掛かりがつかめないまま無為に数日を過ごす。その部分が長いと言えば長い。しかし、それがリアリティーであろう。そのぶらぶらしている間の見聞が、後の捜査と推理に役立っている。

第一作では、事件の解決が第三者の情報提供によるところが多かったが、今回は、ベックの分析力の勝利であると言える。彼は、マトソンの残した荷物のリストを作り、それを詳細に分析する事により、事件の隠されたトリックを発見するのである。

ベックの人間性が現れる場面がある。素っ裸の若い女性が自分の寝室立っている場面である。女はベックを挑発しているのだ。しかし、ベックは父親の如く振る舞い、彼女を諭し、タクシーに乗せる。ジェームス・ボンドならは平気でその女性と関係を持つところだが、ベックは職業意識に徹しているのである。

今回、ベックは、自分の休暇を犠牲にして、単身ブダペストに飛ぶが、なかなかこれと言った成果が上げられない。彼は、自分が何も見つけずに帰国する事を覚悟する。

「最悪な点は、自分が何らかの見通しを持って活動しているのではないことを、彼自身、はっきりと分かっていることであった。警察官としての性格だけが(あるいはそれを別に何と呼んでも良いのだが)彼を動かしているだけであった。それはコルベリが自分の時間を犠牲にしてまで仕事に打ち込んでいる衝動と同じものであった。どのような事件も全て引き受け、それを解決するのに全力を尽くしてしまうというのは、警察官の一種の職業病なのだと彼は思った。」(73頁)

休暇が権利として確立しているヨーロッパで、休暇を一日目で中断して、仕事に戻る、これは警察官の職業病としてしか、説明がつかないことだと思う。ベックがこの事件を早く解決して、元の休暇に戻れたかどうか、これは、読んでのお楽しみということにしておく。

 

l  「バルコニーの男」(Mannen på balkongen 一九六七年)

 

ベックの働いていたストックホルム警視庁。

 

一九六七年六月二日。ストックホルムの夏。暑い日が続いている。早朝からバルコニーにたたずむ男がいる。彼は何時間も飽きもせず、路上を行き交う自動車や、家から出入りする人々を眺めていた。その頃、路上で通行人が襲われ、金や貴重品を強奪される事件が続いていた。警視に昇進したばかりのマルティン・ベックは、同僚のコルベリやラルソンの部屋を訪ね、これから出張でモタラへ行くと告げる。ラルソンは電話中で、ひとりの老女からかかってきた奇妙な通報の対応に忙しい。

六月九日の夕方。ヴァナディスルンゲン公園で、キオスクを経営する老女が襲われ、売り上げを強奪される。翌日、その現場から目と鼻の先で、九歳の少女が強姦され殺されているのが発見される。彼女が殺されたのは、前日老女が襲われたのと、ほぼ同じ時刻と推定された。

モタラから帰ったベックは、少女の殺人事件の捜査の指揮を執る。しかし、数日後、別の十歳の少女が、彼女の住むアパートのすぐ近くの公園で殺されているのが発見された。少女は殺される直前まで、一緒のアパートに住む子供たちと遊んでいた。殺された少女と最後まで一緒にいたのは、三歳の男の子であった。

ベックは、強盗犯人と幼女殺人犯人は別人であり、おそらく、第一の殺人事件の際、強盗犯人は、殺人犯人を目撃していると推測する。ベックは、部下のラルソンに、何としてでも、強盗犯人を捕らえるように命じる。数日後、強盗犯人を知っていると言う、若い女性が警察に出頭する。彼女の情報で、ラルソンとその部下は、男のアパートを急襲する。ロルフ・エヴァート・ルンドグレンという若い男のアパートから、武器や盗品が発見される。彼が強盗犯人であるということは、疑いようがなかった。

ベックの推理は正しく、第一回目の殺人現場近くの藪の中で、獲物を物色していた強盗犯人ルンドグレンは、幼女殺人の犯人と思われる男を目撃していた。彼の証言により、モンタージュ写真が作成される。また第二回目の殺人現場で、被害者の少女と最後まで一緒にいた三歳の男の子が、「おじさんに会って『ボン』を貰った」と証言した。『ボン』とは地下鉄の切符であった。その切符は、犯人は犯行現場に来るために使ったものと思われた。

しかし、これだけの証拠で、捜査を進展させることは極めて困難であった。犯人は、これまで、ごく普通の市民として生活してきていた人物が、何らかのきっかけで殺人鬼に変貌したと思われた。ストックホルムの市民は、子供たちを外で遊ばせるのをやめた。また、自分たちの子供たちを守る自衛団があちこちで結成され、その自衛団の過剰防衛も問題になってきた。

同僚ラルソンの行動の何かが、ベックの心に引っかかっていた。ある日、ベックはそれが、ベックがモタラへ出張する日、ラルソンが電話でしていた会話であることに気づく。ベックは、ラルソンの他、その場にいたメランダーとコルベリを集め、そのときの電話での会話の内容を再構築してみようと試みる・・・

この物語では、ベックは「コミッサー」警視に昇進している。これで、立場的には、ラルソンやコルベリの上司になったことになる。

ベックがラルソンの電話での会話の内容を思い出すことが、事件の解決のきっかけとなる。それは偶然と言えば偶然である。しかし、そこに至るまでの、試行錯誤は長い。証言を取ろうとして訪ねた家族が休暇で不在であったり、関係のあると思って訪れた人物が数ヶ月前に死んでいたり、逮捕した人物が全くの別人であったり、枚挙に暇がない。その、沢山の「無駄足」の末の「ラッキーな偶然」は、読んでいる人間に不自然さを感じさせない。

この物語の見所は、殺人事件の証人の設定であろう。ひとりの証人はもうひとつの事件の犯人。ひとつの事件の犯人を捕まえることが、もうひとつの事件の証人を得ることになる。では、どうして、その犯人の協力を得られるのかと言う点で、コルベリは

「良心に訴えればいい。」

と言う。これには笑った。「強盗犯人の良心」、考えてみればおかしなシチュエーションである。もうひとりの証人は、言葉もまともに話せない三歳の男の子である。ベックはその三歳の男の子の尋問に出かけるのであるが、彼が男の子を前に四苦八苦する姿は笑いを誘う。

心に残るシーン。出張でモタラに向かうベックはストックホルム中央駅で、ひとりの少女に出会う。彼女はベックに写真を買わないかと尋ねる。その写真とは、駅の構内にあるパスポート写真の自動撮影機で、スカートをたくし上げた自分の下半身を写したものであった。ベックは、そのような少女がストックホルムに現れることにショックを受ける。しかし、このようなエピソードは、後年の作品でどんどんと増え、スウェーデン社会の閉塞感、退廃を伝える役目をするのである。

普通の一見「善良な市民」に見える人物が、何かのきっかけで、凶悪犯人になりえるということである。そんな犯罪心理学者の分析として最初に述べられた仮説が、最終的に真実となるという物語。

 

l  「笑う警官」(Den skrattande polisen 一九六八年)

「笑う警官」は、サンフランシスコに舞台を移し、ウォルター・マッソーの主演で映画化された。

 

初冬の冷たい雨の降る十一月の深夜、ストックホルム。二階建ての路線バスの中で、殺戮が行われた。終着駅の直前、何者かがバスの中で機関銃を乱射し、立ち去る。その結果、運転手と乗客の計九人が犠牲となった。その犠牲者の中に、ストックホルム警察捜査課の若い刑事ステンストレームがいた。彼は胸のピストルを握りしめたまま息絶えていた。それは、スウェーデンで初めて起こった、大量殺人事件であった。

犯人は、誰を殺そうとして、誰を巻き添えにしたのか。ベックとそのチームの刑事たち、コルベリ、ラルソン、レン、メランダー等は、殺された運転手と乗客ひとりひとりの過去と足取りを追っていく。犠牲者の中に、かろうじて命を取りとめ、病院に運ばれた男がいた。その男は息を引き取る前に、

「誰が銃を発射したのか」

と言う警察官の問いに、

D…n…r…k

と答え、

「犯人はどんな姿をしていたか」

と言う質問には

Samalson

と答えていた。どちらも、意味不明の言葉である。

九人の犠牲者のうち、八人の身元が判明するが、残りのひとりの身元がどうしても分からない。その男は、身分を示すようなものは何も持っておらず、ポケットの中には麻薬がこびりついていた。そして、貧しい身なりにも関わらず、大金を所持していた。検視の結果も、彼が麻薬常習者であることを示していた。殺された刑事、ステンストレームは、当時担当している事件もなく、その夜も非番だった。その彼が、何故、深夜ピストルを持って、路線バスに乗っていたのであろうか。ベックは、ステンストレームの婚約者、オーサ・トレルを訪れる。婚約者は、死の数週間前、ステンストレームが昼も夜も働いていたと証言する。ステンストレームは、個人的に何らかの事件、特定の人物を追っていたらしい。

難航する捜査を助けるために、マルメーからモンソン、北からはノルディンが助っ人として捜査班に加わる。慣れないストックホルムの地理に苦しみながらも、彼らは捜査を続ける。数週間が経ち、クリスマスが近づくが、捜査は一向に進展を見せない。世間は警察の能力に疑問を持ち始め、捜査班の中に焦燥が広がる。そんな中、助っ人のノルディン刑事が、ただひとり身元の分からなかった犠牲者が誰であるかを探し当てる。その男は、ニルス・エリック・ゲランソンという名前の、住所不定、麻薬中毒者であった。半ば浮浪者に近い彼が何故、大金を所持していたのだろうか。

殺されたステンストレームは、仕事机の中に、自分と婚約者のセックスの写真を入れていた。また、彼は、数週間前から、急にセックスの回数が増えたと言う。その証言から、ベックは、ステンストレームが個人的に追っていた事件が何であるかを知る。それは、十六年前に起こり、犯人が見つからないまま迷宮入りしていた、ポルトガル人で、色情狂の女性、テレサ・カマラオが殺され、死体が遺棄された事件であった・・・

実に周到に練られたストーリーである。過不足や無理がない。淡々と進む、時には進まない展開にも奇妙なリアリティーがある。本当に美味しい酒は、サラッとしていて、飲んだとき「どこが美味しいのかな」と自問させる。つまり全然「くどさ」がない。そして、酒が喉を通り過ぎた後に、じわりと美味しさが口中に広がる。まさに、そういった後味を残すこの小説は、逸品と言えるかも知れない。

笑える部分が随所にあり、それがストーリーの薬味の役割を果たしている。マルメーから応援に来たモンソンが、犠牲者の一人、アラブ人の男の下宿を訪ね、同居人を尋問する場面。

「あんたもアラブ人かい。」

「いいや、トルコだ。あんたも外国人だろう。」

「いいえ、私はスウェーデン人だ。」

「えっ、でも、あんたは正しいスウェーデン語を喋ってないように思えるんだが。」(121頁)

マルメーは南部のスコーネ地方。スコーネ方言は発音が違うらしい。スウェーデンのテレビの中で、俳優がスコーネ方言を話すと、字幕スーパーが出ていた。トルコ人にスウェーデン人扱いされなかったモンソンの顔を想像すると、笑える。

余談だが、このモンソン、煙草を止めて口が寂しいからという理由で、いつも口に爪楊枝をくわえている。(昔の日本の時代劇の主人公に同じようなことをしている男がいた。彼は、爪楊枝を吹き矢にしていたが。モンソンはくわえるだけで武器にはしない。)モンソンは長年、味の付いた爪楊枝を探していた。今回、デモ隊を避けるために飛び込んだ喫茶店で、ついに、「はっか」の味のする爪楊枝に出会う。彼が店の人間から仕入先を聞きだし、自分でも大量に発注したことは言うまでもない。

「笑う警官」と言うのは、ベックがクリスマスに娘のイングリットからプレゼントされたレコードの名前である。

「もしきみが道で次回

笑う警官に会ったなら

そいつにチップをはずもう

きみに会った記念に」

その合間に笑い声が入るという。一九四〇年代の曲らしいが、一度聴いてみたいものである。

この物語では「笑い」がいくつかの場面で鍵になっている。ひとつはノルディンが、身元不明の犠牲者が誰であるか見つける場面。通報者がなかなか正確な描写をできない。

「そいつは大声で笑う。」

と言うのが、通報者の「究極の説明」である。そして、その「大声で笑う」と言うキーワードで、最終的に犠牲者が特定できる。「笑い方」と言うのも、人間を特定する上で、重要な要素らしい。

周到に考えられた筋であると最初に述べたが、特に芸が細かいのは、ベックの同僚全員に活躍の場が与えられていることであろう。作者が刑事全員に花を持たせている。レンも、メランダーも、ラルソンも、助っ人のモンソンとノルディンも、最低ひとつは「グッド・ジョブ」と呼びたい働きをする。

コルベリがステンストレームの婚約者を二回目に訪れるシーンは素晴らしい。単に彼女を尋問するだけではなく、彼女の深層心理から事実を引き出し、しかも、自暴自棄になっている彼女を救うのである。なかなか感動的な場面であった。

ベックは、だんだんと自分では動かず、チームをまとめていく役割が多くなっていく。この後、「マルティン・ベック」シリーズとは言いながら、ベックが主人公として活躍する展開から、彼のチーム全体が主人公となる展開に変る、転機になる作品であろう。

登場人物の言葉により、作者の意図が読み取れる場面がくつかある。そのひとつ、コルベリの言葉である。(268頁)

「これまで誰にも言ったことのないことを、初めて君(レン)に言う。毎日仕事で出会う殆ど全ての人間が哀れに感じてならないんだ。彼らはつまらない原因で道を踏み外した可哀想なやつなんだ。何も分からないまま落ちてきてしまったことが、全然彼らの責任でないことも多い。この野郎のように、他人の命を食い物にしている、もはや人間とは言えない輩の責任であることが多い。そいつ等は、自分の金、自分の家、自分の家族、いわゆる地位というものを守ることしか考えていない堕落した豚野郎だ。たまたまちょっと自分の方が金を持っていると言うだけで、他人に命令できると思っているやつ等。そんなやつ等が五万といる・・・」

金を持っている人間が金を、「地位」のある人間が「地位」を守ろうとするときの、あくどさ、汚さが、社会の腐敗の原因であると、私もそう思う。

 

 

l  「消えた消防車」Brandbilen som försvann 一九六九年

 

三月七日の夜、ストックホルムのアパートで、ピストルで自殺した男がいた。隣人の通報で警察が駆けつける。電話の横に死んだ男の筆跡で、「マルティン・ベック」と書いたメモが残されていた。しかし、警視マルティン・ベックは死んだ男、エルンスト・シグルド・カールソンに会ったこともなければ、彼の名前を聞いたこともなかった。

ストックホルム警察の警部、大男のグンヴァルド・ラルソンは、夜家に帰る途中、スケルドガタンの家の前で見張りをしている若い部下を見つける。彼は凍えそうになっていた若い警官から、少しの間家の見張りを代わってやる。ラルソンが見ている前で、その家が、突然爆発、炎上する。彼は、炎の中から逃げ遅れた住人を助け出すが、結局三人が焼死した。救出作業の途中、ラルソン自信も負傷し、病院に収容される。彼は、命がけで他人の生命を救った英雄として、マスコミに取り上げられる。

マルティン・ベック、コルベリとそのチームは、炎上したスケルドガタンの家の捜査を始める。当時、警察官が家の前にいたのは、中に住んでいたマルムという男を見張るためであった。マルムは数日前、自動車窃盗の罪で逮捕されながら、証拠不十分で釈放されていた。しかし、警察はその後も彼の行動を監視していたのである。マルムは、焼け跡から死体で発見された。

検死の結果、マルムが火事になる前に既に一酸化炭素中毒で死亡していたこが分かる。マルムの部屋の換気扇や窓に目張りがしてあり、ガスのコックも開かれていた。マルムがガス自殺を図り、充満したガスに何かの原因で引火して爆発した可能性が高かった。現場検証を担当したメランダーは「ガス自殺、その後にガスが引火」として報告書を提出し、捜査は打ち切られる。しかし、ラルソンとベックのふたりだけは、その結論に満足せず、非公式に捜査を続ける。

ストックホルム警察、鑑識課の伝説的な捜査官ヒェルムは、マルムが死んで横たわっていたマットレスの中から、超小型の自動発火装置を発見する。これにより、マルムの自殺事故説は崩れ去る。何者かが、ガスの充満した部屋に、自動発火装置で、火をつけたのだ。

マルムは、自動車窃盗の疑いで逮捕されたとき、乗っていた盗難車が友人のオロフソンから借りたものだと言い張った。そして、オロフソンはその直後に行方をくらませていた。警察は、捜査の的をオロフソンに絞り、彼を見つけるべく、捜査を再開する。しかし、数日、数週間と経つが、オロフソンは発見されない。

独自に捜査を続けたラルソンは、不思議なことを発見する。家が爆発炎上したとき、彼はすぐに部下に消防署への通報を命じる。しかし、部下が消防署に連絡したとき、既に火事の通報をした男がいた。その男は、火災現場と同じ町名だが、違う町の消防に通報をし、一度出動した消防車がそこで火災をみつけられず、最終的な現場を見つけるまでに右往左往していたのだ。通報した人物は既に火災が起こるかを予見していたのではないか、その人物が犯人ではないかと、ラルソンは推理する。そして、住所を間違えたその人間は、おそらく土地の人間でないことも。ラルソンは、最初の通報を受けた電話交換手の女性に会う。彼女は、通報が公衆電話からであったこと、電話の主が外国人であり、そのスウェーデン語にフランス語訛りがあったことを証言する。

数週間後、マルメー。港に釣りに来ていたふたりの少年が、水の中に沈んだ車を発見する。その車を引き上げてみると、中には男の死体があった。地元の刑事、モンソンの捜査の結果、その死体が、行方をくらませていたオロフソンのものだと知る。検死の結果、家が放火され、マルムが死んだ日に、既にモンソンは殺されていたことが明らかになる。マルムを殺し、家に火をつけたのは、オロフソンではなく、別の人物であった。

消防署に通報した人物を探すために、若い刑事ベニー・スカッケは周辺の電話ボックス、およびその周辺の聞き込みに回る。何日もの無駄な聞き込み調査後、彼はフランス語訛りのスウェーデン語を話す男が、スンドビベリの町に下宿をしており、火事の直前に町を立ち去ったことを知る。警察は、その男の泊まっていた部屋から指紋を採取し、インターポールへ送る。

マルメーのモンソンは、オロフソンが定期的に町を訪れていたことをつきとめる。しかし、彼がマルメーに宿泊していた記録はない。彼は、オロフソンが、対岸のデンマークのある女性の家に宿泊していたことをつきとめる。モンソンはその女性を訪れることにより、これまでの断片的な情報の裏にある、死んだ男たちの間の繋がりを知ったのであった・・・

この物語の前半の主人公は、何と言ってもグンヴァルド・ラルソン警部であろう。良家の出身であるが、ぐれて家を飛び出した過去を持つ、元船乗りの大男で、部下には鬼のように厳しいラルソン。彼は、単身爆発炎上した家に飛び込み、中に閉じ込められた住人の救出に八面六臂の活躍をする。その後も、事故として片付けられそうになった事件に対し、自らの時間を割いてまで調査を続ける。

後半の主人公は、マルメー警察のモンソン警部。彼も理論的で、粘り強い男である。彼は、殺されたオロフソンの情婦をコペンハーゲンに探し出し、彼女と一緒に寝ると言う警察官として余りお薦めできない手段ながら、殺された男たちの間にある関係を発見する。

それに、昇進欲に燃える若い刑事、スカッケ。コルベリやラルソンなど古株の上司にボロクソに言われながらも地道な捜査を続け、ついに容疑者の泊まっていた場所の発見と、その指紋の採取に成功する。

何故か今回、最初からとても荒れていて、同僚を次々に挑発し、一度は殴り合いの喧嘩寸前までいくコルベリ。それまで余り役に立たなかった彼さえも、最後ではスカッケと一緒に空港で大立ち回りを演じる。

マルティン・ベックは、あちらこちらに登場するが、表立っての活躍はなく、同僚たちの調整役という役割に徹している。「マルティン・ベック」シリーズとは言いながら、完全に集団劇である。しかし、勝利への道は遠かった。進まない捜査、無為に過ぎる日々。しかし、その日々の積み重ねが、物語に重い現実味を与えている。

ベックとその同僚が次々と登場して、色々なエピソードを残していく。若くて綺麗な妻を持つコルベリが、帰宅し、裸に薄物を纏っただけの妻を見て欲情してしまい、リビングルームのカーペットの上で事に及んでしまうとか。ディスコでも聞き込みを担当したスカッケが、「サタデーナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタ張りの白いスーツで出かけて行き、女の子とダンスをしながら聞き込みをするシーンとか。笑えるエピソードにも事欠かない。

物語の冒頭、ベックは老人ホームに暮らす自分の母親を訪れる。母親は、ベックの息子のロルフも警察官になるのではないかと心配している。(12頁)

「ロルフは、学校が終わったら警察官になりたいなんて、言い出さないでおくれよ。」

「それはないだろう。大体ロルフはまだ十三歳にもなってないんだ。そんな心配をするのはいくら何でも早すぎるよ。」

「でも、もしロルフがちょっとでもそんなことを考えていたら、おまえは思い留まらせなければいけないよ。どうして、おまえが警察になりたいなんて言い出したんだろうね。それに、今では以前に増して、警察は難しい仕事になっているじゃないか。マルティン、一体何を思ってそんな決心をしたんだい。」

二十四年前、彼の警察官になるという決意を、母親が同意していなかったと言うことは分かっていたが、今この場でそれを言い始めてことに彼は驚く。これと同じ会話と状況、ヘニング・マンケルのシリーズの中でも、主人公のクルト・ヴァランダーとその父親の間で、しつこく繰り返される。時代に関係なく、息子が警察官になることを喜んでいる親はいないと言うことである。

ベックの娘、イングリッドは、両親の家を出て、独り暮らしを始める決意をする。娘は、父親が、家で心から寛いでないこと、自分ひとりの時間を求めていることを感じている。別れ際に彼女が父親に言った言葉が印象的であった。(199頁)

「こんなこと、本当は言っちゃいけないんだろうけど、でも言っちゃう。どうして、お父さんも同じ事をしないの。家を出ないの。」

世の中のお父さんの多くが、出来ることなら、セカンドホームを持って、たまにはそこで独りきりで暮らしたいと思っているのではなかろうか。

 

l  「警察、警察、つぶしたジャガイモ」(Polis, Polis, potatismos! 一九七〇年)

 

 一九六九年七月、暑い夏、マルメー。場所は、駅前の高級ホテル「サヴォイ」。そのレストランでは、地元の名士であり、多くの企業を支配下に置くコンツェルンの会長であるヴィクトル・パルムグレンが系列会社の重役たちを集めて会食をしていた。スピーチをするパルムグレンの背後にひとりの男が近づく。男はジャケットの下から取り出したピストルでパルムグレンの頭部を撃ち、開いていた窓から逃亡する。

マルメー警察のペール・モンソン警部が捜査を指揮することになる。警察が現場に駆けつけるのが遅れた結果、初動捜査が遅れ、犯人に十分な逃亡の時間を与えてしまう。目撃者の証言から、犯人の人相、服装が、駅や、港、空港に通知されるが、犯人がそれ以前にマルメーの町を脱出していることは十分に考えられた。

よく似た男が、対岸のコペンハーゲンから飛行機でストックホルムに向かったという情報が入る。モンソンはストックホルム警察にその人物を拘束するように依頼するが、手違いからそれもかなわない。また、事件の直後、犯人に良く似た男が、マルメーからコペンハーゲンに向かう高速船の甲板で、黒い箱を持って佇んでいたという情報が入る。しかし、その人物を特定するには至らない。

殺されたパルムグレンがスウェーデン経済界において重要な位置を占める人物であっただけに、警察の上層部はこの事件を重要視し、ストックホルム警視庁殺人課のマルティン・ベックに対し、マルメーに赴き、捜査に協力するように命じる。ベックはマルメーに向かい、事件の起きたサヴォイ・ホテルに投宿、モンソンと共に捜査を始める。

殺されたパルムグレンの人格やその事業内容がだんだんと明らかになる。パルムグレンを知る人間の多くが、彼が金のためなら何でもやる男であったことを証言する。また、彼の会社が、アフリカの諸国に武器を輸出して巨利を得ているという噂もあった。殺人の動機として、彼の「ビジネス」の利権を巡るトラブルが考えられた。また、彼が政治的に影響力を持つ人物だけに、政治的な暗殺ということも。

モンソンは、未亡人のシャルロッテ・パルムグレンを訪れる。彼女は、元モデルで夫より二十四歳も年下、事業家の夫の傍に侍る、接待用の人形のような立場であった。モンソンが隠れて見ていると、彼女は邸宅のプールサイドで全裸の日光浴をし、夫の部下であった若者、マッツ・リンダーと親密にしていた。後日、リンダーを訪れたモンソンに、リンダーはシャルロッテと性的関係があったことを認める。殺人の動機に、妻シャルロッテを巡る人間関係も付け加わる。

殺人現場にいたパルムグレンの関連会社の重要人物たちの中に、ストックホルムの不動産会社を見るブロベリという男と、その秘書のヘレナ・ハンソンがいた。ベックはストックホルムの同僚に、ブロベリとヘレナ・ハンソンを洗うように依頼する。ブロベリは偶然、グンヴァルド・ラルソンの姉の隣人であった。姉の証言により、ブロベリは家を売り、旅立つ支度をしていることが分かる。ハンソンは秘書ではなく、実は、娼婦であった。コルベリとオーサが彼女を訪れる。彼女も旅行の準備をしていた。

ラルソンはブロベリを待ち伏せ、拘束する。彼は大量の有価証券をトランクに入れ、偽造パスポートを使い、ハンソンと共にスイスへの逃亡を企てていた。ブロベリとハンソンは逮捕されるが、彼らはパルムグレン殺人事件との関与を否定する。警察も彼等が犯人であるという、決定的な証拠を挙げることができない。

何本かの糸も途中で切れてしまい、マルメーの捜査本部には閉塞感が広がる。事件の解決のきっかけは意外なところからやってきた。対岸のコペンハーゲン近郊で、浜辺を散歩している家族がいた。その幼い男の子が砂浜に打ち寄せられた黒い箱をみつける。その中身とは・・・・

今回は、ストックホルムではなく、マルメーが主な舞台である。マルメーはスウェーデンの南端に位置し、鉄道はここで終点、コペンハーゲン行きのフェリーが出ている。現在は、マルメー・コペンハーゲン間に全長十六キロのオレスンド橋が完成しており、必ずしもフェリーを利用する必要がないが。ともかく、この小説の書かれた当時、マルメーとその駅は、スウェーデンの玄関口であった。

私は、このマルメーの街で一日を過ごしたことがある。駅の前にはバス乗り場とタクシー乗り場があり、その前に運河と道路があり、駅の向かい側の角には「サヴォイ・ホテル」が建っている。駅の裏手はフェリーが発着する港になっている。空港でバスを待つ間、私は、この小説の犯行現場となった、ザヴォイ・ホテルの食堂でビールを飲んでいた。実際、このホテルはヘニング・マンケルの「クルト・ヴァランダー」シリーズにもしばしば登場する。それほど大きくはないのだが、スウェーデンでは最も有名なホテルらしい。

今回活躍するのは、マルメー警察の、ペール・モンソン警部である。彼は、これまでもストックホルムでのバス襲撃事件(「笑う警官」)の捜査などに借り出されたりして、シリーズに何度か登場している。爪楊枝を口の端にくわえたクールな男である。ジンとグレープトニックに氷を加えた「グライフェンベルガー」というものを愛飲している。月曜日から金曜日までは独身で暮らし、週末だけ妻と過ごす生活により、結婚生活を維持しているのだが、それにもそろそろ限界を感じ始めている。ベックとは馬が合う。

物語の中で、いつもの登場人物の、警察官としての人生観というものが語られているのが面白い。まず、マルティン・ベック、彼の特徴は「政治嫌い」である。

「マルティン・ベックは政治を毛嫌いしていた。政治的な考えを持っていても、それを決して口には出さなかった。彼は、政治的な帰結をもたらすような事件を請け負わないように、普段から努めていた。政治的な犯罪性が話題に上ったときには、それに出来るだけ関わりあわないようにするのが常であった。」(216頁)

次にコルベリの考え方。彼は、警察官である限り、まともな人生は歩めないと考えている。

「二十三年間に渡る毎日の同僚の警察官と付き合いは、もはや自分をまともな世間との付き合いを維持できない状態になるほど蝕んでいた。家族に囲まれていても、自分が職務から解放されていると、心から思えたことは一度もなかった。無意識の中に常に働いている何かがあった。彼は自分の家族を持つために長い時間待った。警察官という職業は、まともな人間のする仕事ではなく、自らそこに入ってしまえば、そこから自分を解き放つことのできない何かであった。来る日も来る日も、他の人間の殆ど異常な状況だけと付き合っていかねばならない職業は、自分自身の日々も最後には異常になってしまうということ以外に、行き着く先がないように思えた。」(139頁)

グンヴァルド・ラルソンはとにかく、捕まえにくい犯人を逮捕する事に、本能的な喜びを持っている。

「しかし、今彼は自分とは基本的に関係のないことを引き受けた。ブロベリにまつわる話、間もなくそれを後悔し、間もなく動物的な喜びに発展する計画を。もし、ブロベリが犯罪者なら、(ラルソンにとってそれは確実なことなのであるが、)グンヴァルド・ラルソンがまさに鉄格子の中に放り込むことにより純粋な喜びの中のひとつを得られる犯罪者のタイプであった。搾取する者。利益を貪る者。これまで彼にとって残念なことに、そんなタイプの犯罪者がいて、彼らが世間を大手を振って歩き回っていることは誰もが知っていても、法治国家としての限界の中ではその尻尾を捕まえることできない輩であった。」(162頁) 

スウェーデン語のタイトルであるが「ジャガイモのピューレ」が何と関係があるのか。まず、考えられることは、パルムグレンが撃たれた後、テーブルの上のジャガイモのピューレの中に倒れこむ。次は、スウェーデンのオリジナルがないので、確かなことは言えないが、警察に対しての罵倒の言葉である。

ふたりのパトロールの警官が、至急アーランダ空港へ向かうように指示を受けるが、子供に関わっていて後れてしまう。その子供の言ったことがこの「ジャガイモ」ではないかと想像する。

なかなか捜査が進展しないため、閉塞感が漲り、最後の数十頁でそれが解消されるというシリーズのひとつの「型」を踏襲している。しかし、ひとつの例外がマルティン・ベックのラブシーンである。彼は、ホテルの部屋を深夜訪ねてきた女性と関係を持つ。これまで、全裸の女性が前に立っても(「蒸発した男」参照)ビクつくことのなかったベックにしては、珍しい展開であった。

 

l  「セフレから来た唾棄すべき男」Den vedervärdige mannen från Säffle 一九七一年

 

一九七一年四月三日未明、ストックホルム。ひとりの男が、車でサバトベリ病院に向かう。その病院の一室、ストックホルム警察ニーマン警視が死の床にあった。男はニーマンを襲い、着装銃剣で彼の首と腹を切り裂き、その武器を中庭に残して現場を去る。

マルティン・ベックは十数年連れ添った妻と離婚し、アパートを借りて独り暮らしを始めていた。ある夜、ベックは、十九歳になる娘、イングリッドと深夜まで夕食をとっていた。娘と別れ、アパートに戻ったベックは、同僚のレンの電話を受ける。レンはベックに至急サバトベリ病院に来るようにと告げる。当直のレンから連絡を受け、ベックをはじめ、コルベリ、ラルソンなど、ストックホルム警察殺人課の警部たちが次々と現場に駆けつける。そこは目を覆いたくなるような惨状であった。その残虐さとは別に、ベックはある危機感を覚える。彼には、その殺人が、これから起こるべき事件の序曲にすぎないという直感があった。

ベックは殺されたニーマンの自宅を訪れ、妻と息子に死を告げる。妻と息子の話によると、ニーマンは家庭では申し分のない夫であり父であった。ニーマンの妻は、前夜、警察の同僚フルトと名乗る男から電話があり、病気の同僚に花を贈りたいから病院の場所を教えてくれと尋ねられ、病院と病室の場所を教えたと告げる。

しかし、署に帰ってコルベリと話したベックは、ニーマンという男のもうひとつの面を知る。ニーマンは軍隊の将校上がりの人物であった。コルベリは軍隊時代、新兵の教育係としてのニーマンを知っていた。ニーマンはサディストであり、特に自分より弱い立場の者に対しては、極めて残虐な人物であった。コルベリもニーマンから軍隊時代にひどい仕打ちを受けていた。ニーマンは当時、「セフレから来た唾棄すべき男」と呼ばれ、軍隊内では忌み嫌われており、警察に入った後も、その行動は変っていないと、コルベリは述べる。

ベックはニーマンの努めていた警察署と、彼と一番接触のあったフルトという名の警察官を訪れる。そして、ニーマンが容疑者や浮浪者に残忍な仕打ちを加えながらも、それを部下と共に揉み消していたという疑いを強める。

ニーマンの警察官としての過去に、事件の解決の鍵があると確信したベックは、レンに、これまで警察のオンブズマン制度に対して寄せられたニーマンに対する苦情を調べてみるように命じる。一睡もしていないレンは、フラフラになりながらも、苦情を調べ上げる。ニーマンは度々容疑者に対して暴力を振るったという点で、苦情の対象になっていた。しかし、彼は、部下に自分に対して有利な証言をさせることで、それら全て揉み消していた。

レンの報告を受けたベックは、その苦情の中のひとつに興味をそそられる。それは、同僚の警察官からオンブズマンに宛てられたものであった。ベックはその背景を調べてみようと決心する・・・

この小説、推理小説として読むと失望する。犯人へのアプローチがストレートすぎるからである。最初に、一番怪しいと思われた人物が、やっぱり犯人なのである。その割には、読んでいて飽きさせることがない。それは、この作品が社会小説の枠組みの中にあると言って過言でないほど、スウェーデンの当時の社会制度を問題にした作品であるからか。

ベック・シリーズにはいつも、捜査の上での壮大な無駄足と、無為に過ぎる時間が語られる。しかしこの作品にはそれがない。事件発生から二十四時間以内で全てが落着する。そういった意味でも、ストレートという印象を受けるのかも知れない。

どの推理小説も、ある程度、捜査する側に都合の良い偶然が重なって、事件が解決に向かっていく。その「都合の良い偶然」に対して、作者が、マルティン・ベックを通じて語らせているのが面白い。

「警察の職務にとって最も大切な点は、現実主義、決められたことを遂行する能力、系統的な考え方である。多くの事件が偶然によって解決を見るということも確かだ。しかし「偶然」は「幸運」と取り違えてはいけない概念であることも正しい。犯罪の解明とは、「偶然」の網の目を出来る限り狭めていく作業なのだ。その際、天才的な閃きよりも、経験と勤勉が重要なのだ。良い記憶力と良識が、知的な考察力よりも価値のある才能なのだ。」

つまり、偶然は数々起こる。その偶然を、いかの自分の味方につけるかが、ポイントであると言うのである。

捜査の進展において、ベックの洞察力も去ることながら、今回も、彼の同僚が大きな役割を果たす。先ず、コルベリ。彼は、ベックに、「唾棄すべき男」ニーマンの本質を告げ、彼にひどい目に遭わされた者の怨恨が、動機であることを示唆する。

ベック:「彼は、たちの悪い警察官だったんだ。」

コルベリ:「違う。ニーマンは死ぬほどたちの悪い警察官だった。他人を考えられる限りの悪辣な方法でいじめる男だった。」

ベック:「そこまで言うのか。」

コルベリ:「そうだ。俺の言っていることが正しいと、あんたも認めることになる。」

死者を悪く言わない伝統を打ち破るコルベリの呵責のない言葉である。

次は、レンである。現場に駆けつけた彼は、前日からずっと働き詰めで、寝ることさえ許されていない。それでもベックやコルベリから言われる仕事をフラフラになりながらもこなしていく。彼の見つけた警察のオンブズマン制度に寄せられた苦情が、今回の事件を解く第二の鍵になる。しかし、レンではないが、苦情の手紙を何頁にも渡って読まされたのには私も参った。

そして、メランダー。この人物が居ればコンピューターは不要という記憶の天才である。今回も、犯人像を浮かび上がらせるのにそれは役に立つ。

「マルティン・ベック」シリーズとは言うものの、後半の作品はチームワークの物語であり、ベックはその指揮者としての役割を果たしているに過ぎない。と、書きたいが、今回、最後の最後に、ベックが再び行動の人になることを付け加えておこう。

 

l  「閉ざされた部屋」Det slutna rummet 一九七二年

 

休暇の季節が始まった六月、ある金曜日の午後、若い女性が銀行に入って行く。彼女は行員にピストルを突きつけ、金を奪う。ひとりの男性客が、彼女を止めようとするが、その女性は男性客を射殺し、金を抱いて、人ごみの中へ消える。

マルティン・ベックは、前回の事件で犯人に胸を撃たれて重症を負い、十五ヶ月に渡る療養生活を送っていた。傷が癒え、久しぶりに出勤したベックは、ある奇妙な事件を担当することになる。スヴェードという名の独り暮らしの老人が、アパートで死んでいるのが、死後二ヶ月近く経ってから発見された。彼はピストルで胸を撃たれていた。異臭がするという隣人の通報で、警官が駆けつけたとき、その部屋はドアも窓も内側から鍵をかけられていた。しかし、犯行に使われた武器は部屋に残されていなかった。つまり、それは完全な密室での殺人だったのである。ベックは男の死亡していた部屋を訪れ、担当した警官に会って話す。彼らの話を総合しても、確かにそこは密室であった。

銀行強盗事件は、「ブルドーザー」の異名を取る検察官オルソンが担当することになる。グンヴァルト・ラルソン、コルベリ、レンと言ったいつものメンバーが、オルソンの率いる捜査班に配属された。オルソンは、その銀行強盗が、これまで何度も同じような事件の容疑者として浮かびながら、証拠不十分で起訴できなかった、マルムストレーム、モーレンの二人組みの仕業でないかと疑う。そして、ふたりの後ろには、企画を担当する、ヴェルナー・ロスがいた。ブルドーザー・オルソンは、航空会社のパーサーをやっているロスに任意出頭を求め、事件との関連について尋問をする。しかし、ロスは、マルムストレーム、モーレンとの関係を、もちろん否定する。

マルムストレーム、モーレンはそのとき、ストックホルムに潜伏し、次の銀行襲撃の準備をしていた。彼らは、ドイツからふたりの助っ人を呼び、マウリゾンという男を使い走りに使っていた。そのマウリゾンは町で、ある偶然から警察に麻薬の所持を発見されてしまう。起訴を逃れるために、警察との取引を考えた彼は、ブルドーザー・オルソンに対し、マルムストレームとモーレンの居所を教える代わりに、自分を放免してくれるよう持ちかける。オルソンはその申し出を承諾する。

オルソンの部下たちがマルムストレームとモーレンの隠れ家を急襲するが、そこはもぬけのからであった。窮地に陥ったマウリゾンは、切り札として、自分が密かにコピーしていた、ロスからマルムストレームとモーレンに宛てた、銀行襲撃計画書を警察に差し出すことで、自分を釈放させることに成功する。オルソンは、銀行強盗を未然に知り、襲撃される予定の銀行で待ち伏せすることにより、マルムストレームとモーレンのふたりを逮捕できることを喜ぶ。

一方、ベックの密室殺人事件の捜査は進展を見せない。殺されたスヴェードは、吝嗇で孤独な老人だったが、部屋には高価な鍵を二重につけていた。彼は誰かから逃げていたのか。そして、老人の銀行口座には、毎月定期的に多額の振込みがあった。ベックは、老人の謎に迫るため、彼が訪れた病院と、彼の以前に住んでいた下宿を訪れる。そして、ベックはその下宿の女主人、レア・ニールセンと懇意になり、彼女と夜を過ごすことになる。

釈放されたマウリゾンを個人的に居っていた、グンヴァルト・ラルソン刑事は、彼のアパートの地下室で、銀行強盗に使われたピストルと、そのとき女性が着ていたのと同じ服、カツラを発見する。銀行強盗は、女装したマウリゾンの仕業なのだろうか。実は、マウリゾンの住まいには、彼自身も知らない、訪問者があった。

銀行襲撃計画の当日が近づいてくる。オルソンとそのチームは、マルムストレーム、モーレン一味を一網打尽にすることができるのだろうか。 同じ頃、マルティン・ベックも、新しい恋人、レア・ニールセンの何気ない言葉から、密室の謎を解く鍵を発見していた・・・

物語は六月。スウェーデンでは休暇の季節。警察署も半分の人間が休暇に出かけてしまい、人手不足に陥っている。日本では考えられないが、ヨーロッパでは、ごく日常的に起こりえる状況である。

この物語では三つのプロットが並行して進んでいく。

@     金曜日に起きた若い女性による銀行強盗、殺人事件の捜査、検察官オルソンの担当

A     その二ヶ月前に起きた、老人の密室殺人事件の捜査、これはベックの担当 

B     マルムストレーム、モーレンによる新たな銀行襲撃の準備

前作、「セフレから来た唾棄すべき男」の最後で、マルティン・ベックは犯人に胸を撃たれる。何とか一命は取りとめるが、その後、十五ヶ月に渡る療養生活を余儀なくされる。怪我が完治して、久しぶりに引き受けたのが、この密室殺人事件であった。彼自身は、同僚との会話の中で、その捜査を一種のリハビリとして捉えている。

「僕はこの事件を、リハビリの方法として引き受けたつもりだから。」(158頁)

今回も、彼は常に落ち着いて、着実に捜査を進めていく。しかし、彼の心の中には、冷たい隙間風の吹く空間があった。彼は、捜査途中に出会ったレア・ニールセンと会うことで、その空間を埋めようとする。そして、何気ない彼女の一言から、密室殺人事件の鍵を見つけるのである。レア・ニールセンと週末を過ごした後、彼は久しぶりに晴れ晴れとした気分で、口笛を吹きながら出勤する。

「彼は、スヴェードの密室を開けていることにより、自分の心の密室をも開くことに成功した。」(307頁)

レア・ニールセンはベックの心の密室をも開けることに成功したのである。

ブルドーザー・オルセンという男。警察官ではなく検察官である。何でもエネルギッシュに、強引なまでのやり方で、どんどんと片付けていくことから「ブルドーザー」との仇名が付いている。本名はステン・オルセン、しかし、誰も本名を知る人はいない。感情の起伏の激しい、留まることを知らない人物である。「動」彼が、「静」のベックと好対照をなして、描かれている。

どの小説でもそうだが、「幸運なる偶然」によって物語が展開していく。今回、マウリゾンが道を渡る老女に仏心から手を貸し、それが原因で警察署に呼ばれ、たまたまそこにいた麻薬捜査犬に麻薬の所持を見破られてしまうのがまさにそれであろう。しかし、「幸運なる偶然」を多用しすぎると、読者に非現実的な印象を与えてしまう。しかし、必然だけでは物語が進まない。この点、作者の少し自己弁護的な意見が述べられており、面白いので引用しておく。

「幸運と不運はお互い打ち消しあう傾向にあることが知られている。ひとりの人間に対する幸運が別の人間の不幸になる。その逆ももちろん。

マウリゾンは両方とも信じない男であった。従って、自分の身を偶然に任せることもほとんどなかった。彼の計画は、彼なりに考えうる限りの安全装置により何重にも守られていた。そのやり方は、ほとんど考えられない不運な瞬間が重なり合わない限り、彼が事件に巻き込まれることがないことを保障していた。

仕事上での誤算はもちろん一定の間隔で襲ってきた。しかし、それは彼に経済的な損害を与えるに過ぎなかった。例えば数週間前、収賄に対してイタリア人にしては珍しく潔癖な警察の警部に、トラック一杯のポルノ雑誌を押収された。しかし、その積荷がマウリゾンまで遡って追求されることは不可能だった。」(113頁)

つまり、マウリゾンが十分に用心深い人間であり、それでも警察にとって「幸運な」、彼自身にとって「不運な」偶然が有り得るのだと、作者の解説が、ちょっと言い訳がましく書かれている。

作者の国家権力、警察権力に対する反発がいたるところに表れている。

「警察が、厳密に言うとその上層部にいる人間が求めているものは、とりもなおさず「権力」だ。ここ数年間、上層部の人間の行動を決める、密かな目的がその「権力」なのだ。かつては、警察がスウェーデンの政治に、孤高を保って存在していたがゆえに、新しい警察の行き先をどこに置けば良いのか、明確に分かっている人間は少ない。それゆえに、警察が近年発表したことの多くが、矛盾に満ちて捕らえにくいものになっていた。」(156頁)

作者は、警察の上層部の求めるものは「権力」であると、言い切っている。

総合点をつけるならば、筋の展開、画面の転換、意外性、ユーモア、どれをとっても、なかなかのもの。第一級のミステリーと言うことで、「五つ星」をつけたい。

 

 

l  「警官殺し」Polismördaren 一九七四年

 

一九七三年十一月、ある日の午後、スコーネ地方の田舎町、仕事を終えた三十八歳の女性、シグブリット・モルドはバス停に立っている。彼女の前に男の乗った一台の車が停まる。彼女はその車に乗る。男は彼女を森の中に連れて行き、彼女を絞殺する。

同じ頃、ストックホルム。マルティン・ベックと同僚のコルベリは、リンパンという男の住居を見張っていた。リンパンは宝石店を襲った事件の容疑者であった。警察は一度彼を逮捕したが、証拠不十分で、釈放していた。ベックとコルベリは男が盗品の処理のために、何らかの行動を起こすことを待っていたのであった。コルベリはピストルを携帯していない。彼はかつて、同僚を誤って射殺し、それ以来、武器を持ち歩かないようになっていた。

数日後、ベックはスウェーデン南部、スコーネ地方、マルメー郊外のスツルップ空港に降り立つ。彼を出迎えたのは、その土地の警官ヘルゴット・ネイド。ベックは数週間前から行方不明になっているシグブリット・モルドの捜査のために、スコーネにやって来た。ベックには、失踪した女性が、もう生きてはいないという予感がしていた。

殺された女性の隣に、数年前に運河を巡る観光船の中でアメリカ人の女性を殺害し、服役後釈放された、フォルケ・ベングトソンが住んでいた。魚と卵を商うベングトソンは、シグブリット・モルドをも顧客にしていた。シグブリットが最後に目撃された日に、ベングトソンが街で彼女に合っているところを目撃したと言う証人が現れた。

シグブリットは数年前に船乗りの夫と離婚していた。ベックは別れた元夫をマルメーに訪れる。元夫のベルティル・モルドは、酒浸りで粗野な大男で、別れたシグブリットにまだ未練を持っていた。元夫が嫉妬にかられて彼女を殺害、というケースも考えられる。シグブリットの失踪した日、ベルティルはフェリーでコペンハーゲンに行ったと証言していたが、そのアリバイには怪しいものがあった。

ベックに次いで、コルベリも捜査に協力するため、スコーネ地方に到着する。彼らシグブリットの家を捜索する。そして、カレンダーの中に一週間に一度程度「K」と言う文字が書かれていることを発見する。彼女の残した手紙類の中に、「カイ」と名乗る男からの手紙が見つかる。グブリットとその男、カイは定期的に会っていたことが想像された。ベックは、フォルケ・ベングトソンやシグブリットの元夫は犯行とは無関係で、「カイ」と名乗る男こそが真犯人でないかと思い始める。

ハイキングをしていた一行により、森の中に埋められたシグブリットの死体が発見される。事件はマスコミの報道により世間の注目を浴びることになる。事件の解決を焦るベックの上司マルムは、フォルケ・ベングトソンの逮捕を命じる。コルベリがベングトソンに対し尋問を行うが、ベングトソンは犯行を否認する。警察側に決定的な証拠もなく、徒に日が過ぎていく。

十一月十八日の早朝、マルメーの近くで三人の警官がパトロールをしていた。彼らは、無線により逃亡中の車が傍を通ることを知り、それと思われる車を停める。車には二人の若者が乗っていた。若い警官がピストルを手に、若者に車から降りるようにと命じる。若者の一人が発砲、警察官三人は負傷する。ピストルを発射したひとりの若者は、警官の反撃により射殺され、もうひとりの若者は車で逃げ去る。撃たれた警官の一人は死亡。この「警官殺し」の事件は大きな話題となり、スウェーデン警視庁は、マルム自らが先頭に立ち、警察の威信をかけて、犯人の逮捕に臨むことになる。

車で逃げた若者はカスパーという名前であった。ストックホルムに住む彼は、旅先のマルメーでクリステンという若者と出会う。車を盗んだふたりは、飲み代を稼ぐために、こそ泥を繰り返す。その際に警察に停められたのであった。クリステンがピストルを携行しており、警官に発砲したことは、カスパーにとって予想外の出来事であった。彼は途中で別の車を盗み、ストックホルムに帰り着く。警察から指名手配され、行く宛のないカスパーは、知り合いのマガンという女性に偶然出会う。彼女はカスパーを、自分と男友達のアパートに連れ帰る。そのマガンの男友達とは、窃盗の罪で警察の監視を受けているリンパンであった。

ストックホルムに戻ったコルベリは、前々から考えていたことを実行に移す。それは「辞表」を書くことであった。辞表を書いているとき、彼はひとつのことを思いつく。彼の頭の中で、リンパンの窃盗、スコーネの女性殺人事件、マルメーの警官殺しが一緒になった。彼は自分の推理の正しさを証明するため、すぐに鑑識課とスコーネのベックに電話を入れる・・・

一九七三年、今から三十年以上前のスウェーデンを舞台にしているが、物語は既に社会の強い閉塞感を伝えている。犯罪の増加、それも特に若年者の犯罪など。ベックの同僚、コルベリは特に強くそれを感じており、社会の悪い方向の変化に対し、警察機構がだんだんと無力になっていることに絶望を感じ始めている。

それから、三十年。事態は好転しているのであろうか。マンケルの小説を読む限り、ヴァランダーの視点から、全く同じことが述べられているように思える。

脈絡の無い事件が、それぞれ一旦は袋小路に入り、最後に、それがお互いに関連を持ちながら解決される。それが、この作家の後年のストーリー展開の特徴になっているようである。

ベックはストックホルムの喧騒から離れ、スコーネの小さな町、アンデルスレフに赴く。そこでは警察でさえ休日がある。警察署(駐在所と言ってよいか)の玄関にある張り紙。

<警察の営業時間>

月曜日から金曜日 八時から十二時、十三時から十四時半、

木曜日は十八時から十九時、

土曜日、休業

ベックは思う。

「日曜日は触れていない。多分、犯罪は日曜日には起こらないのだろう。いや、日曜日に罪を犯すことは、ここでは禁じられているのだ。」

そこに駐在するヘルゴット・ネイドも、ベックの常識からは考えられない警察官であった。やたらに笑う男。そして、これから狩に行くのではないかと疑うほどのラフな格好。しかし、ベックはネイドに好感を持っている。自分がそのような立場になりたいとは思わないが、田舎の警察のありかたを、ベックはそれなりに認めているようだ。

昇進を目指す若手、スカッケはスコーネに転勤になっている。田舎に飛ばされたことを恨んでいるのか、昇進のステップとして仕方がないとあきらめているのか。元上司のコルベリのぼろくそに言われながらも、頑張っている。

先にも書いたが、この小説を読んでいて驚くのは、一九七〇年代に、既にスウェーデンで、近代社会の「末期症状」が始まっていることである。マンケルの小説で、九十年代に、ヴァランダーはしばしば、時代は変った、昔とは違うと言うが、二十年前にも既に同じことが言われていたのである。警官殺しの疑いで、指名手配になり、逃亡するカスパーという青年に、当時の若者の感じる社会に対する閉塞感を語らせている。

ベックとコルベリは、せっかく逮捕した容疑者が証拠不十分で無罪なることに、諦めに近い感覚を持っている。ベングトソンが犯人か否かで、ベック、コルベリ、ネイドが話し合うシーンである。話題は、ベングトソンのかつての犯行に及ぶ。(104頁)

「あんたも俺も、判決を下した裁判官を含む他の何人もが、奴が犯人であることを確信していた。でも、我々には叩いても蹴っても崩れない証拠と言うものがなかった。これが一番大きな違いだろうね。」

「いくつあったけど、殺された女性のサングラスが奴の家で見つかったんだろう。」

「有能な弁護士なら、そんな証拠なんか、一息で吹き飛ばしてしまうさ。そして、まともな裁判官ならそんな訴えを棄却するだろうね。法治国家では・・・」

コルベリは黙った。

「トリニダート・トバコは多分その法治国家なんだろうな。」

とネイドが口を挟んだ。

「その通り。」

コルベリが疲れた口調で答えた。

「法治国家」、その言葉は余りにも使い古されていて、スウェーデンではもう誰も使おうとしないし、もし誰かが真剣な意味でその言葉を使ったら、周囲の笑い者になってしまうだろう。一九七〇年代に、既に「法治国家」という言葉が逆説的に使われ始めていたのである。 

前作に登場した犯人がふたりも再登場をする。ひとりは第一作ロゼアンナで、アメリカ人の女性ロゼアンナを殺害したフォルケ・ベングトソン。彼は十年余の刑期を終え、出所後、スコーネに住んでいる。もうひとりは第二作「蒸発した男」の犯人オーケ・グナルソン。彼も刑期を終えた後、スコーネの新聞社に雇われて記者をしている。ベックが、刑期を終えた彼らと、ごく自然につきあう様子を見ることにより、「罪を憎んで、人を憎まず」というベックの感性を改めて知ることができる。

長年の良きパートナー、コルベリは警察を辞める決心をする。何故かその時に、コルベリは犯行の鍵になるベージュのヴォルヴォを探し当てる。偶然なのかそれとも必然なのか。警察を辞める決心をしたとき、それまでで最大のひらめきを得る。作者にとっては、それはやはりストーリーの展開の上での必然なのであろう。

 

l  「テロリスト」Terroristerna 一九七五年

 

スウェーデン警視庁幹部は、秋にスウェーデンを訪問する米国上院議員の扱いに頭を痛めていた。タカ派の上院議員は、ヴェトナム戦争の推進者であった。それゆえに、スウェーデンでは反戦団体の大規模なデモが予想されていた。また、上院議員の政治的な立場ゆえに、彼がテロリストの標的となる可能性も高いと言えた。

そんな折、某国の大統領がスペインを訪れることになった。要人の警護には実績のあるスペイン警察からスウェーデン警視庁に対し、警備方法の視察に来ないかという誘いが来る。スウェーデン警察幹部たちは人選に苦慮するが、マルティン・ベックの提案で、グンヴァルド・ラルソンを、スペインに派遣することになる。

スペインに着いたラルソンの目の前で、大統領を乗せた車は道路に仕掛けられていた強力な爆弾で吹き飛ばされる。大統領をはじめ、多数の犠牲者が出る。ラルソンは難を逃れ、スウェーデンに帰国する。

ストックホルムの法廷では、銀行強盗の容疑で、十八歳の未婚の母、レベッカ・ルンドの裁判が行われていた。検察側はストックホルムきってのやり手検事ブルドーザー・オルソン、弁護側は老獪な弁護士ブラクセンが担当していた。老弁護士は、オルソンの鋭い追及を、ノラリクラリとかわし、最後に見事な反撃に出て、少女を無罪に導く。

その数日後の深夜、ストックホルムの郊外。ある家のガレージの中に隠れている男がいた。男は翌朝、女性が出勤し、ひとりになった別の男を浴室で鉄棒を使って殴り殺し、逃亡する。殺された男は映画監督のヴァルター・ペトルス、愛人の家で一夜を過ごした後の出来事であった。ベックと殺人課の刑事たちは、捜査を開始する。ペトルスは安価なポルノ映画を作り、それを輸出して財をなしていた。そして、彼は、若い女性を映画出演や麻薬で釣り、弄んでいたことが明らかになる。ベックは、ペトルスの映画出演者の中に、かつて耳にした名前を見つける。

米国上院議員の訪問が数週間後に近づき、スウェーデン警視庁は特別警備本部を作ることになる。その本部長にマルティン・ベックが任命される。上層部の圧力やや治安警察の横槍を受けながらも、スペインから帰国したグンヴァルド・ラルソンとともに、ベックは独自の警備計画を練る。

予想通り、テロリストはスウェーデンに侵入していた。スペインでの大統領殺害に成功した国際テロ組織ULAGは、次の標的を、スウェーデンを訪問する米国上院議員に定め、四人の刺客をスウェーデンに送り込んでいた。南アメリカ人のラインハルト・ハイド、カイテンとカミカゼと名乗る二人の日本人、そしてもうひとりのフランス人であった。彼らは、強力な爆弾を上院議員が空港から市内に向かう道中に仕掛け、議員を車ごと吹き飛ばしてしまうという計画を練っていた。彼らは、警察に察知されることなく、準備を進めていた。

ベック、ラルソン、スカッケ、レン、メランダーの特別警備本部は、テロリストの介在を予感し、警察上層部にさえも内密にある準備を進めていた。それは、周到なテロリストの計画に対し、カウンターアタックを仕掛けるものであった。

そして、同じ時期、スウェーデンの町の片隅では、四人のプロのテロリストとは別に、意外な人物が独自にテロの計画を進めていた・・・

マルティン・ベック・シリーズの後半の作品の典型とも言えるが、一見互いに関係のない複数のストーリーが同時に展開する。

@     グンヴァルト・ラルソンのスペイン派遣と、テロとの遭遇

A     十八歳の少女、レベッカ・ルンドの裁判

B     映画監督、ヴァルター・ペトルスが愛人宅で撲殺された事件

C     スウェーデンに侵入し、暗殺の準備を進めるテロリストたち

D     テロリストの存在を知らないまま、警備の計画を練るベックとその同僚

これらの物語の糸が、後半まで、交わることなく並べられている。「映画監督の殺人事件が、どうして、本筋と関係があるの」と、普通の読者なら考えこんでしまう。しかし、一本一本の糸は順々に結ばれ、最後には一本に収束するのである。この技法、見事と言う他はない。

また、これもこのシリーズ後半の作品の特徴と言えるのだが、強烈な社会批判に貫かれている。

先ずは、レベッカ・ルンドの裁判の法廷シーン。銀行強盗の罪で現行犯逮捕された十八歳の少女。品の悪いネクタイをしているが、担当した事件を悉く有罪に持っていく、やり手の検察官ブルドーザー・オルソン。弁護を担当した人物の名前が覚えられず、的外れな発言を繰り返す国選弁護人のブラクセン。最終的には、ブラクセンは巧みな弁護で、少女の無罪と、彼自身が耄碌していないことを示すのであるが。

そこに描かれることは、警察のおざなりな捜査である。しかし、それ以上に、警察、金融、社会保障、果ては司法まで、現代社会のシステムは基本的に強者を守るためのものであり、弱者は何によっても守られないと言う点が強調される。裁判を傍聴していた、ベックの恋人レアの感想が、まさに作者の考えを代弁していると言える。

レアは、裁判の休憩時間中にブラクセンと話した内容をベックに説明している。

「それで、ブラケットはそれに対して何て言ったの。」

「法治国家って言葉を振り回しちゃいけない、警察の高価な装備は政府と一握りの特権階級を守るためだけにあるんだって。」(90頁)

また、スウェーデンの社会民主党に対する批判も厳しい。

「全ての後ろ盾として、社会民主党と名乗る正統が政権を握っていた。しかし、彼らは何年もに渡り、社会主義的ではなく、民主主義てきでもなかった。彼らがかつては少しはそうであったとしても、資本主義的な国家権力を一枚の薄い布え覆っていたとしても。」(276頁)

ULAGと言う名前の国際テロ組織が登場する。北アイルランド、バスク地方、印パ国境など、局地的な問題をテロに訴える組織ではなく、国際的にテロをするために生まれた組織である。その意味では、現在存在すると言われている「アルカイダ」に似ている。作者が、三十年前に、そのような組織の発生を予言しているのが面白い。そして、マルティン・ベックとグンヴァルド・ラルソンが考案した「見えない敵」に対する奇想天外な対策、それがこの物語の最大の見所であろう。

ベックの周りにも、いくつかの変化が現れている。現在、ベックはストックホルムの警視庁の中では、押しも押されもせぬ幹部である。警視総監でさえ、ベックの傑出した頭脳には一目置いている。しかし、ベック自体はいくつもの問題を抱えている。ひとつは、長年の仕事の上でのパートナー、コルベリが警察を去ったことである。これまでベックは、自分の考えをコルベリに話すことにより、より完璧に、より論理的にしていた。そのコルベリをなくして、ベックは自分の警備方針が、果たして隙のないものか、効果的なものかと悩む。最後にベックはコルベリの新しい職場、武器博物館へ出向き、彼の意見を求めるのである。

また、恋人レア・ニールセンとの関係。今回、レアは単なる聞き役ではなく、事件の解決にかなり大きな役割を果たす。彼女は記憶力と、論理的な考えでは、ベック以上である。ベックは彼女との関係に対して、少し悩んでいる。ベックは男女関係に結構保守的な考えの持ち主なのである。

「どうして電話をくれなかったの。」

マルティン・ベックは答えなかった。

「お終いまで考え、その結末に満足できなかったからでしょ。」

「まあ、だいたいそんなところだ。」

「だいたい。」

「いや、まったくその通りだ。」

彼は認めた。

「私たちが一緒に住めないとか、結婚できないとか、子供を作れないとか、そんなくだらないこととか。そうしないと、全部がややこしくなって、友情が崩れ去るんじゃないかって。消耗して壊れてしまうんじゃないかって。」

「その通り、それに対してきみにどう反論できるか分かっているはずだ。」(88頁)

結婚に至らない男女関係はやめたほうがよい、離婚を経験したベックでさえ、そんな考えを持っていたことが少し以外であった。この物語が書かれたのが、三十年前であることを考慮しても。

シリーズは、夫ペア・ヴァールーの死によってこれが最終作となる。そのせいではないだろうが、ベックが警察官として成功した理由が要約されて書かれている。

これまで、このシリーズを続けて読んできて、ベックはどこが優れているのだろうと考えてきた。その答えが要約されていると感じた。その答えが述べられているようである。

「マルティン・ベックは長い道を歩んできたが、三十年前、ヤコブ区で歩いてパトロールにあたっていたときから既に良い警察官であった。彼は人々と好んで話をしたし、問題をユーモアと知性で解決した。そして、他の同僚のように軍隊から転籍したのではないことを、自分に感謝せざるを得なかった。六年間のパトロールの間、特に苦い思い出がない。そして暴力に訴えなくてはならないような事件も数えるほどしかなかった。

(中略)

彼ももちろん他の者たちと同じように昇進することを望んでいた。しかし、その点で彼は決して妥協をしなかった。彼は机に座って仕事をするのを欲しないだけではなく、常に外部の人々と環境と接触することを望んでいた。事務所に閉じ込められ、書類と電話と、会議に忙殺されることに対する不安は確実に彼の昇進を遅いものにしていた。」(277頁)

ベックのなかに、作者の理想の警察官像を見るならば、机に座っていないで外に出て、常に民衆とコンタクトを持ち、その意見に耳を傾ける。そんな人間、どこかで見たような、聞いたような、そう、「遠山の金さん」。マルティン・ベックは近代スウェーデンの遠山金四郎なのかもしれない。

 

十年間に渡って発表された十作の中で、マルティン・ベック像が変化を見せている。「落ちこぼれからヒーローへ」というところか。最初は、地味で出世コースから離れた警部であるが、第三作からは警視に昇格、最終策では警察幹部が一目置く優秀な警視になっている。水島新治の野球漫画「あぶさん」の主人公が、酒飲みの選手から、最後はスーパーマンに的な人物に変化を遂げていることを思い出す。また私生活的にも、ベックはレア・ニールセンという女性を得て、安定してきている。

シューヴァル、ヴァールーの描くスウェーデンの実像は、「福祉国家」のそれとは程遠い。当時のスウェーデンは、大きな転機を迎えていたと言える。

スウェーデンとノルウェーは、一九三〇年代、社会民主党政権の下、理想主義を掲げて、福祉国家を目指した。また、政治的には「中立」を大前提としていた。しかし、その中立主義も、第二次世界大戦の際に揺らぎ、戦後、傷跡を残すことになる。一九四〇年、ナチスドイツがノルウェーに侵攻したとき、スウェーデンは「中立」を理由に隣国を助けなかった。スウェーデンはその後、その罪の意識に苛まれることになる。また、どこまで自分達が「中立」でいられるのかという不安、動揺が国民に広まる。そんな中で、ナチスに同調する人たちも現れる。

第二次世界大戦後、「福祉国家」は更なる危機を迎える。「スウェーデン・モデル」は、社会的な平等を保障する国家と、自立した個人のバランスの上に成り立っていると言える。しかし、資本主義的な傾向が強まることにより、社会的な「平等」を保つことが難しくなったのだ。資本主義と共に、個人主義が同時に入ってくる。シューヴァルやヴァールーは資本主義に流され、金のために犯罪に走る富裕層を描いている。もはや、助け合ってより良い社会を作っていくという理想は幻想になりつつあった。

最終作のテロリストで、首相暗殺の光景が描かれていることは特記に値する。一九八六年、オーロフ・パルメ首相が暗殺される。それまで「開かれた政府」をモットーにしていた北欧諸国は、首相にボディーガードさえつけていなかった。首相が公衆の面前で暗殺されるという事件で、スウェーデンの安全、中立が、それほど強固なものでないことが露呈した。また、パルメ暗殺の犯人は結局捕まらなかった。そのことは、警察、国境警備などのシステムに対する国民の不信感を高めた。人々は、「開かれた自由の国」というイメージが崩れたこと、また外からの脅威が迫っていることを感じ、不安感を募らせたる。このような国民の不安感、国家権力に対する不信感を、シューヴァルとヴァールーは十年前に既に感じ取っていたのである。そして、その不安感、不信感が、それ以降のスウェーデン推理小説の基調となっていくのである。

 

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