大層な芸

 

開演前、「日本食ファストフード」で腹ごしらえをする。

 

 故郷の父親が病気ということもあって、悶々とまではいかないが、落ち着かない日々を僕は送っていた。そんな七月のある日、末娘のスミレが、

「パパ、『白鳥の湖』見にいかない?」

と誘ってくれ、バレーの舞台を見ることになった。それもいきなり世界最高峰のロシア・マリインスキーバレー団(旧キーロフ・バレー団)のロンドン公演を、コヴェントガーデンの王立歌劇場のバルコニー席で見るという贅沢さ。どうもスミレは誰か他の男性と見に行くつもりで切符を買ったが、その人物が行けなくなったので、僕にお鉢が回って来たらしい。

 バレーには馴染みがあるような、ないような。スミレが子供の頃からバレーを習っていたので、何度か子供達の舞台は見たことがあるが、白いタイツにパステルカラーのチュチュを着た娘たちが、ピョンピョン跳ね回るという印象しかない。舞台の上で見るとまだいいが、廊下や楽屋であの格好で若い娘さんに周囲をウロウロされると、何となく艶かしくて、スケベな中年のおじさんは目のやり場に困ってしまった経験がある。

 七月末のある水曜日、僕はコヴェントガーデンの駅前に六時半にスミレと待ち合わせをしていた。会社を思ったより早く出られたので、時間的には余裕がある。しかし、夕方のコヴェントガーデン付近の人出は凄い。ここは待ち合わせ場所としては適当ではないと後で気付く。携帯で連絡を取り合いながら何とか群衆の中にスミレを発見。日本食ファストフードで簡単な夕食を済ませたあと、王立歌劇場に入る。

 この劇場でオペラは何度か見たことがあるが、バレーを見るのは初めてだ。舞台の前には「ストール」と呼ばれる平土間があって、それを「バルコニー」が囲んでいる。三階建てのバルコニーの後方には「円形劇場」と呼ばれるすり鉢型の席がある。僕達の席は左側のバルコニーだった。舞台が左手下に見えるので、幕が上がるとずっと左を向いていないといけない。結構首の疲れる席である。これで三十六ポンド、約五千円。

「お金払おうか。」

とスミレに聞くと、

「いいのいいの。」

と今日は不気味なほど彼女は鷹揚である。多分彼女が払ったのではないようだ。

 午後七時半、舞台が始まる。しかし、バレーというのは大層な芸である。嬉しくても、悲しくても、何と大げさに表現されることか。「浄瑠璃」を題材にした落語の枕に、
「泣いても笑うても、あんな大層な芸はおまへんで。」
というのがある。噺家が浄瑠璃を語る太夫が笑っているシーンを再現する。

「こんなこと、街中でやってみなはれ。パーパーパーパー言うて、すぐ救急車が飛んで来ます。」

しかし、それはバレーにも当てはまる。本当に、飛んだり跳ねたり、ご苦労さんな芸だ。

 

バレーというのは僕にとって何となく照れくさい芸である。