ミカエル・ヒョルト/ハンス・ローゼンフェルド

Michael HjorthHans Rosenfeldt

ヒョルト:(1963年〜)ヴィスビュー出身、脚本家、映画プロデューサー、作家

ローゼンフェルド:(1964年〜)ボロス出身、俳優、脚本家、作家

 

Wikimedia Commons サイトより。

 

斬新な人物設定と、複雑な人間関係、巧妙な描写で、スウェーデン犯罪小説の新しい時代を切り開いた二人組がミカエル・ヒョルトとハンス・ローゼンフェルドである。彼らの本を最初に読んだ時、マンケルの「クルト・ヴァランダー」と出会ったときと同じような強い衝撃を受けた。一時、スティーグ・ラーソンがスウェーデン犯罪小説の新しい旗手としてもてはやされたが、ヒョルト/ローゼンフェルドの小説の斬新さと面白さは、ラーソンの「ミレニアム三部作」に匹敵するものだと思う。

「クルト・ヴァランダー」シリーズを読み始めたとき、ヴァランダーの人物設定に新しさを感じた。妻には逃げられ、酒浸り、酔っ払い運転で捕まり、ひどい食生活で糖尿病になってしまう。そんな、人生の落伍者のような主人公が当時は実に新鮮だった。しかし、それから二十年、そのような主人公が次々に現れ、ステレオタイプになった。その意味で、この小説の主人公、セバスティアン・ベルイマンからは、それまでのステレオタイプを更に破った、新鮮な印象を受けた。しかし、新鮮ではあるが、共感が持てて、感情移入ができる人物というわけではない。

ラーソンの「ミレニアム三部作」に登場する、リズベト・サランダーというキャラクターは、まさに読者の度肝を抜くものであった。ヒョルト/ローゼンフェルドの描くセバスティアン・ベルイマンも、それに匹敵する、ある種衝撃的な斬新さを持っている。この、セバスティアンという男、一言でいうと、「セックス中毒」。彼は二十代の頃から、女性とセックスがないと生けていけない体質であった。結婚した後、一度妻一筋となるが、妻と娘をタイでの休暇中に津波で失い、その後、セックス依存に拍車がかかった。

「寂しさを紛らわせるためだ。」

と彼は自分に言い訳する。彼の関係する相手は、酒場で出会った女性から、被害者の母親まで、多岐に及ぶ。しかし、彼には、それほど男性的な魅力があるわけではない。中年太りが進み、髪も薄くなりかけた、冴えない中年である。彼の武器は、心理学者として磨かれた、相手の心を読む能力と、会話能力である。女性がついつい気を許し、肉体関係を持つのを容認してしまう、そんな不思議な魅力を備えたキャラクターとして描かれている。セバスティアンは、女性が、

「相手に誘われたのではなく、自分が誘った。」

と思うようなアプローチが、彼の「極意」であると述べている。とにかく、その「はみ出しぶり」は、マンケル描くヴァランダーの人物設定の遥かに上を行くものである。読者に嫌悪感を抱かせるような主人公という設定、これには恐れ入る。

 彼は、酒浸り、セックス浸りの日々を送っているが、かつては、優秀な犯罪心理学者で、プロファイラーとして警察と一緒に働き、成功を収めた経験を持っている。第一作の「Det Fördolda(秘密)」で、彼は、かつての仲間である、ストックホルム警察の警視トルケルと再会し、強引に自分を売り込み、プロファイラーとして、捜査班に居座ってしまう。(1

そんなセバスティアンだが、彼の行動に共感を覚え、さすが心理学者、さすが苦労人と感じさせられた場面がひとつあった。嘘をついていた女子生徒を、両親の前で弁護するシーンである。その説得力には感動さえ覚えた。リサ(女子生徒の名前)は最初証言を拒否するが、殺された少年ロガーはボーイフレンドでなく、ボーイフレンドは別にいることを認める。しかし、別のボーイフレンドが居ることを両親に知られたくないため、嘘をついたと言う。そこへ彼女の両親が戻り、警察が親の許可もなく、高校生の娘を尋問したことを責める。セバスティアンは、娘が嘘をついたのは、両親が彼女に過大な期待をし、自由と信頼を与えなかったためだと諭す。その、迫力と説得力に、読んでいて、胸のつかえが取れた。

捜査する側も、犯罪に関係した側も、ドロドロとした人間関係が描かれる。それも性的な関係が。捜査班だが、鑑識担当のウルズラとセバスティアンは過去に関係があった。セバスティアンが、ウルズラの妹とも関係してしまい、ふたりの関係は終わっている。ウルズラとリーダーのトルケルは現在関係がある。しかし、ウルズラには夫のミカエルがいる。ここまで捜査班側のドロドロとした人間関係設定も珍しい。他のシリーズでは、捜査班のひとりが別の人物に好意を抱く程度。こうまで仲間内で性的関係を持たしてしまうのは・・・新しい。

今回はギムナジウム、つまり高校が舞台の要所となっている。校長、女性教諭、生徒たち、その親たち、その複雑極まる関係は、図を書いてみないと理解できないくらいだ。そして、彼らも、捜査班側と同じように「性的関係」で結ばれている。

セバスティアンの両親の家が、たまたま容疑者の家の隣であったり、反発しながらも一緒に捜査をしていたセバスティアンとヴァーニャが、実際は父と娘であったり、「ご都合主義、有り得ない偶然」もあるにはあるのだが、それを飲み込んでしまう迫力が、この作品にはある。

 第二作の「Lärjungen(弟子)」でのセバスティアン、今度はストーカーである。彼は津波で娘を亡くしたが、もうひとりの娘、ヴァーニャがいることを知り、夜昼となく、彼女の跡をつける。(2)しかし、自分とヴァーニャの関係が表沙汰になることを、何に代えても防ごうとする。

前回に引き続き、トルケル、ヴァーニャ、ウルズラ、ビリーという捜査班に、今回もセバスティアンが加わる設定である。もちろん、最後には犯人が見つかり、事件は解決する。しかし、それまでに、四人の女性と、一人の男性、合計五人が殺される。しかも、彼らはセバスティアンの身勝手な行動の犠牲者なのである。確かに、犯人を追い詰める過程で、新たな犠牲者が出ることはある。しかし、このストーリーでは、セバスティアンの「個人的な」それも「褒められない」行動によって、犠牲者の輪が広がっていく。このような展開で、セバスティアンという人物に共感を持てというは、無理な話だろう。男性の私でさえそう思うのだから、女性の読者からは、総スカンを食うのでは。

「クルト・ヴァランダー」シリーズで、ヴァランダーは、いつも最後には、チームを置き去りにして単独行動に出る。この作品で、セバスティアンも最後は独りで犯人の元に、罠であることを知りながら出かけて行く。しかし、その動機は、自分がヴァーニャの父親であるという秘密知られたくないという、極めて身勝手なものなのである。これだけの文句を並べても、次の本を注文してしまった。このシリーズには、読むものを捉えて離さない、何かがある。

第三作、「Fjällgrave(フィエルの穴)」を購入する際、

「ヒョルト/ローゼンフェルドは、ヘニング・マンケル亡き後の、スウェーデン犯罪小説界のエースである。」

そんな出版社の広告文が目に入った。(3)もちろん、本を売るための誇張もあるだろうが。彼らの本を読んでみて、確かにそう思う。毎回、トルケルの率いる警察の捜査班が登場するが、マンケルの「ヴァランダー」のように、傑出した人物が捜査班をリードするという設定ではない。トルケル、セバスティアン、ヴァーニャ、ウルズラ、ビリー、イェニファーのそれぞれに、満遍なく活躍の機会が与えられている。これは、シューヴァル/ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズと似ている。違うのは、その捜査班の中にある、ドロドロとした人間関係、性的関係である。

セバスティアンは冒頭で、それまで一緒に住んでいた女性エリノアを自分のアパートから叩き出す。その原因は、新しい看護婦のガールフレンド、グニラができたからだという。しかし、最後には、夫のある同僚のウルズラを自分のアパートに泊めている。今回も、彼のとことん節操のない行動が描かれている。

ヴァーニャは、FBIの研修を受けるために、三年間米国に行くことになる。彼女と会えないことを寂しく感じたセバスティアンは、同じ犯罪心理学者で、派遣員選択の担当である同僚、ホカンに手を回して、その話を潰してしまう。ここまで来ると、花菱アチャコではないが、

「無茶苦茶でござりますがな。」

と言いたくなる。しかし、セバスティアンが払った代償も大きい。叩き出されたエリノアの復讐が始まるのだ。その復讐の結果は描かれていない。しかし、人の命に関わる、重大な結果をもたらすものと想像できる。その結果は次の作品の中に述べられる。

ふたつのストーリーの流れがあり、最後までそれらは独立して進む。ひとつは山の中で発見された六人の白骨死体の身元に挑む、ストックホルム警察殺人課の捜査班、もうひとつは九年前に行方不明になった夫と父親を探し出そうとする、アフガニスタン人のシーベッカとメーランである。もちろん、最後にこのふたつの筋は合流する。登場人物に嫌悪を抱きながらも、別の作品も読んでみたくなるという、不思議な魅力を持つシリーズである。

第四作の「Den stumma flickan(沈黙していた少女)」では、殺人事件に目撃者の少女がおり、その事件の証人を巡って、犯人と警察が争奪戦を繰り広げるという展開である。(4)その少女は、殺人事件のトラウマで、外部に対して沈黙してしまっている。それで、「沈黙していた少女」というタイトルとなったわけだ。

これまで、事件の当事者であろうが、証人であろうが、女性とみると関係を持ってきたセバスティアンだが、今回は「進歩」を見せている。事件の唯一の目撃者である少女ニコルと、その母親のマリアを自宅に匿い、家族のような生活を送る。そして、今回彼はマリアと性的関係は持たなかった。セバスティアンにとって、ニコルは失った娘ザビーネの再来であり、マリアは同じく亡くなった妻リリーの再来であった。セバスティアンは、彼らと一緒に住み、十年ぶりに性的関係以外に立脚した、女性との信頼関係を取り戻そうとする。 それは、成功するのだろうか。     

「全ては金」であるというメッセージが聞こえる。小さな子供ふたりを含む、一家四人が惨殺されるという事件、犯人は浮かんでは消えるのだが、肝心の動機が警察の捜査班には分からない。そして、後半になって、鉱山の開発計画、土地の買収計画と周辺の住人の思惑、環境保護の活動家である一家の反対による計画の挫折等の経緯が明らかにされる。

「やはり動機は金だった。」

と、トルケルが呟くが、この辺りが作者の主張のような気がする。人間を残忍な行動に駆り立てるのは、所詮金であるということ。

 読んでいて不自然な点。それは、セバスティアンの家に匿われているニコルに、全然警察の護衛がつかないことである。彼女は洞窟と病院で二度も命を狙われている。いくら、トルケルが警察の中にマスコミへの内通者がいることを感づいているにしても、犯人が銃を持って、誰にも妨げられることなく、セバスティアンのアパートの前に立つことができるというのは、ちょっと無理があると思った。

 結構早い段階、全体の四分の三が終わった段階で、殺人犯人が分かってしまう。正直この早さには意外であった。しかし、犯人は分かっても、警察の情報をリークしていたのは誰であったかという疑問が残る。ニコルの居場所等、警察の内部情報が、不思議と外に漏れてしまう。この内通者が誰であるかという点を巡り、物語はもう一段階の展開を見せる。

 先にも書いたが、セバスティアンは、休暇中、タイで出会った津波で、妻と娘を失う。津波が海岸に押し寄せた際、彼は娘ザビーネの手を握っていた。しかし、彼はその手を放してしまう。その瀬罪悪感で、彼は十年間、毎晩悪夢にうなされる。この物語の結末は、まさに「水中で娘の手を放してしまった」という過去の、「償い」とも言えるものであり、よく考えられたものであると思った。

第五作、「(De Underkända(拒否された者)」のテーマはリアリティー番組である。(5)英国で二〇〇〇年から「ビッグ・ブラザー」という番組が始まった。「リアリティー・ショー」の草分けだと思う。若い男女が、スタジオの中に作られた家で何か月も共同生活をする。彼らの行動は、セックスまでもテレビカメラで監視される。毎週視聴者の投票で、気に入らない人物が脱落していく。そして、最後に残った人物が勝者となる、そんな構成であった。そして、勝者は素人から突然有名人になった。最初の数シーズンは英国で大人気を博したが、その後ほとんど話題にならなくなった。驚くべきことに、十五年後にも、その番組は続いていた。そして、それは私が住んでいる町のスタジオで収録されていたのだった。「柳の下の泥鰌」を狙って、同じような素人が参加する「リアリティー・ショー」が次々と作られた。そして、その現象は英国だけでなく、他の国にも波及していたのだった。

 ドイツ語で「リアリティー番組」のことを「ドク・ソープ」と言うことを、この本を読んで初めて知った。「ドク」とは「ドキュメンタリー」の略であり、「ソープ」とは日本でも同じだが、「ソープオペラ」、大衆向きの、どちらかというと低俗な番組を意味する。シリーズ五冊目となる今回ズは、低俗な文化と、それを鼓舞するマスコミを嫌悪した人物が、その関係者を殺していくという物語である。誘拐犯が、捕らえた人物に六十問のクイズを出す。そして、二十五問以上正解しないと殺されてしまうという設定。テレビの影響を嫌悪している犯人が、一番テレビの影響を受けているような気がするのだが。過去の四作に比べると、マンネリズム、現実離れしてきた設定が見られる。しかし、読者はこの辺りで中毒になっている。

 前作の最後で、ヴァーニャに自分が実の父親であることを告白したセバスティアンは、今回ヴァーニャの母で、自分の昔の恋人であるアナと関係を持つ。それが、ヴァーニャに知れてしまい、ヴァーニャはトルケルにセバスチャンを捜査班から排斥するように頼む。そのヴァーニャは、父母に嘘をつき続けられてきたショックでしばらく仕事を離れ、その後、昔の恋人であるヨナタンとよりを戻そうとする。結婚したばかりのビリーは、家に帰らず、昔の女友達のイェニファーと関係を求める。同僚のウルズラと密かに関係を持っていたトルケルは、高校時代の恋人、リセ・ロッテと再会し、彼女と付き合い始める。そんな具合で、今回主人公たちの「相手の総取り換え」が実行される。

第六作「En högre rättvisa(より高い正義)」が二〇二〇年現在の最新作である。(6)今回も、「人間関係」で読ませる。まず、「三角関係」、「固定されないパートナー」、日本や韓国の恋愛ドラマによくあるパターンだ。複数の男女が出てきて、お互いにくっついたり、離れたりする。次に、「出生の秘密」というのもある。親だと思っていた人物が、実際は実の親ではなく、親は別にいたり、恋人が実は自分の実の兄弟や姉妹だったり。更に「二重人格」というのもよく登場する。いい人だと思っていた相手に、実は隠された一面がある。そんな、「恋愛ドラマ」、「ソープオペラのお約束事」を、ヒョルト/ローゼンフェルド巧みに作品の中に詰め込んでいる。

警察の捜査の際の「徒労」を描き始めたのはマンケルである。全然結果につながらなかった努力が、丁寧に描かれていて、それが物語に現実感を与えていた。それから、多くの犯罪小説作家が、その徒労を描くようになった。基本的にマンケル以前の犯罪小説の探偵は、失敗をしなかった。シャーロック・ホームズでもエルキュール・ポアロでも、一見本筋に関係ない行動が、後の伏線になっていた。それを変えたのがマンケルである。ヒョルト/ローゼンフェルドもマンケルの伝統を忠実に受け継いでいる。この作品の中で、ふたりの男性が捜査線上に現れ、かなりのページがふたりのために費やされるが、結局、そのふたりは強姦、殺人事件に関係のないことが分かる。

私が読んだ限り、この作品の最大のテーマは「宗教の名を借りた犯罪」であると思う。宗教というのは、人間に生き甲斐を与え、人間に友人に与え、死からの恐怖を和らげる。そんな意味で私は良い面も沢山あると思う。何よりも、宗教の最大の功績は、人間を正しい行いに導くことだと思う。しかし、余りに狂信的な人々、教義の余りにも偏狭な解釈は、犯罪につながる。これまで、宗教の名のもとに行われた殺戮は数限りない。そんなことが現代社会でも起こっていることを、この作品は示唆している。

「歩く自分勝手」、「セックス中毒」と自他ともに認めるセバスティアン・ベルイマン、

「傲慢で、協調性はないし、セックス中毒で誰とでも寝る、おまけに私の父親なの。」

と娘のヴァーニャに言われる。そして、それは全て当たっている。しかし、彼は今回、狂言回が主な役割であり、トルケルをリーダーにしたストックホルム警視庁殺人課のメンバーによる集団劇となる。

さて、先に、テレビドラマとこの作品の共通点をいくつか述べたが、もうひとつの共通点がある。それは、終わり方である。テレビドラマは、次週も見てもらわねばならない。最後にまた事件が起き、視聴者の興味を喚起しつつ、「続く」のテロップが出る。この作品群も全く同じ手法を取っており、一旦事件が解決したように見えるが、毎回、新たな事件の「芽」を残して作品が終わる。

ヒョルト/ローゼンフェルドの慧眼は、どうすれば本が売れるのか、読者の嗜好を読み切った上で、商業的に成功する方法を分析し尽くした上で、この作品群を書いていることである。私事になるが、ヘニング・マンケルが存命の頃、私はいつも彼の新しい作品の出るのを楽しみにしていた。新作が出ると、安いペーパーバックになる前に、ハードカバーで買っていた。だから、私の本棚のマンケルの作品は、ハードカバーが多い。ヒョルト/ローゼンフェルドが現在それに当たる。「セバスティアン・ベルイマン」シリーズが、ほぼ二年に一度の間隔で刊行されているが、ドイツ語版が出たとたんにアマゾンに注文して買ってしまう。要するに、それほど面白く、病みつきになっているのだ。とにかく面白い。テンポもよく、気持ち良く読み進めることが出来る。

著者のひとり、ハンス・ローゼンフェルドは一九六四年生まれ、俳優であり、脚本家でもある。彼は、スウェーデンで人気を博し、英国でも放映されたテレビシリーズ「ブリッジ(橋)」の脚本を書いている。また、彼は、マンケルの「クルト・ヴァランダー」シリーズの脚本を書いている。つまり、マンケルの作品をとことん分析しているのである。もうひとりの著者、ミカエル・ヒョルトも、脚本家であり、テレビや映画のプロデューサーでもあり、監督もしている多才な人物である。

 第一作と第二作がテレビ映画化されたものをDVDで見た。満足できるものであった。セバスティアン役のロルフ・ラスゴルドもよかったが、ヴァーニャ役のモア・シレンが、私の描いていたイメージと余りにもピッタリなので驚いた。 

原作が出てから短期間で英語、ドイツ語に翻訳され、映像化もされている。しかし、日本ではまだ全く知られていないようで、作家の名前を日本語でグーグルに入れて検索しても、私自身の書評しか引っかからなかった。日本語の翻訳が出て、日本の人にもこの作家の作品を読んで欲しいような気もするし、自分のだけの楽しみにとして取っておきたいような気もする。

 

第一作と第二作はテレビ映画化されている。残念ながら、続編は作られなかった。BBC4のウェッブサイトより。

 

作品リスト:

l  Det fördolda(秘密) 2011

l  Lärjungen, (弟子)2012

l  Fjällgraven, (フィエルの穴)2014

l  Den stumma flickan, (沈黙していた少女)2014

l  De Underkända (拒否された者)2015

l  En högre rättvisa(より高い正義)2018

 

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(1)      Der Mann, Der Kein Mörder War, Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2013

(2)      Die Frauen, Die Er Kannte, Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2013

(3)      Die Toten, Die Niemand Vermisst, Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2014

(4)      Das Mädchen, Das Verstummte, Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2015

(5)      Die Menschen, Die Es Nicht Verdienen, Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2016

(6)      Die Opfer, Die Man Bringt, Rowohlt Verlag GmbH, Reinbek bei Hamburg, 2018

(7)      ウィキペディア、スウェーデン語版、Micheal Hjorth Hans Rosenfeldtの項

 

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