ラーシュ・ケプレル

Lars Kepler

 

アレクサンドラ・コエーリョ・アンドリル Alexandra Coelho Ahndoril 

(1966年〜)

ヘルシングボリ出身、脚本家、作家

 

 

アレクサンデル・アンドリル Alexander Ahndoril

 (1967年〜)

ウプランド・ヴェスビュー出身、脚本家、作家

 

写真は、ウィキペディア、スウェーデン語版より

 

二〇〇九年、第一作「Hypnotisören(催眠術師)」が発表されたとき、作家「ラーシュ・ケプレル」というペンネームのみが公表された。衝撃的な内容の作品を書いたのは誰か、色々と憶測が飛んだが、間もなく、純文学作家の夫婦、アレクサンドラ・コエーリョ・アンドリルとアレクサンデル・アンドリルの共作であることが明らかになった。(1

「キレがあるのにコクがある」、昔のビールの宣伝文句ではないが、そんな作品群である。まず、文章に「キレ」がある。短い文で、分かりやすく、テンポ良く読める。持って回った表現、思わせぶりの台詞も少なく、実にストレート、ストーリーがすっきりと頭に入る。しかし、書かれている内容の濃さは相当なもの。周到に練られたストーリーであり、登場人物の個性もきめ細かく描かれている。それで「キレがあるのにコクがある」と評したわけだ。先ほども書いたが、純文学作家の作品である。ふたりは、ジャンルの違う作品を別人として出版することに、挑戦してみたかったという。ストーリーの構成の妙、よく練られた文を見て、なるほど純文学出身者だなと思った。歯切れが良くて、一章も短くて読み易い。作者が、「どんな構成、どんな文章だと読者が読み易いか」を分析し、それを実行していることは間違いない。

「催眠術師」は、精神科医、エリック・マリア・バークが一人目の主人公である。(2)彼は、かつて催眠術を使った治療をしていたが、ある時、それを止めてしまった。それが何故なのかが、最初の興味となる。二人目の主人公はストックホルム警察の刑事、ヨーナ・リナである。彼は、一連の作品を通して登場する。推理の人というより、直感と行動の人である。ヨーナは、催眠術を利用し、容疑者の少年から証言を得ようとする。しかし、エリックはそれを頑なに拒否する。その理由となる、何か大きな事件が過去にあったことは予想できるが、謎のまま話は進む。後半、話が突然十年前に戻る。そこでは、エリックが集団催眠治療をやっている。その一連のエピソードで、エリックが催眠術を封印した理由が、やっと分かるという仕掛けだ。

ちなみに、催眠術は、医学的に使用すると大きな効果を生むらしい。例えば、催眠術をかけた患者に、麻酔なしで外科手術を施すことも可能であるという。しかし、催眠術の有効性を疑う意見も強く、日本では、催眠術は、公には治療に使われていないということだ。エリックは、

「催眠術をかけられた人間は、偽りを言わず、事実を話す。」

と述べる。

「しかし、それはあくまで、その人間の目を通して見た事実であり、それが真実であるかどうかは別問題である。」

とも話す。

この物語で、殺人の容疑者である少年が、催眠術をかけられ、自分が殺人を犯したことを自白してしまう。催眠術が解けた後、彼はその証言を覚えていない。しかし、自分が催眠術をかけられたことを後になって知り、その催眠術師に対する復讐を誓うのである。この物語に登場する十五歳の少年は、「モンスター」としか言いようがない。両親と妹を、残虐な方法で殺害するだけではなく、十二、三歳で成人した姉に肉体関係を迫る。

「受け入れなければ妹を殺す。」

と脅迫しながら。この少年の設定にはかなり無理があるような気がした。一応、「難産で、出産時に脳への酸素の供給が十分でなく、脳に異常をきたしてしまった」という説明がつけられてはいるが。

 推理小説の典型として、「一見別々に見える複数の事件が、実際は関連があった」というパターンがある。この物語はその逆を行き、「一見関連のあるように思える複数の事件が、実は別々であった」という展開になっている。また、アクション小説の「お決まり」のように、最後にはアクションシーンが展開される。しかし、これを入れる必要があったのかどうか、私としては考えてしまった。

 ラーシュ・ケプレルの小説は、「ヨーナ・リナ対犯罪者の知恵比べ」という図式になっている。第四作から、その犯罪者は、連続殺人犯、ユレック・ヴァルターとなる。極めて頭の良い、一筋縄ではいかない人物である。ヴァルターは、冷酷で狡猾、ち密な計画を基に犯罪を実行していく。タフな女性警察官、サガ・バウアーも、第三の主人公として、第三作から登場する。

第一作の「催眠術師」は、まだ「こじんまり」としていた。回が進むうちにだんだんとエスカレートし、一作で殺される人間が十人できかかなくなる。第四作では、最後までで、一体何人死亡したのか数えられない。「ヘリコプターがスナイパーに撃ち落され、乗組員が全員死亡」そんなエピソードもあるから。はっきり言って、読んでいるうちに、余りにも残虐なシーンに、流れる血の多さに、読む気が失せる読者も多いだろう。

 第二作は「Paganinikontraktet(パガニーニ契約)」である。(3)一枚の写真が、事件の背景を知り、犯人を見つけるきっかけとなる。フランクフルトの「アルテ・オパー」(古いオペラ座、フランクフルトには新旧のふたつの劇場がある)の貴賓室、弦楽四重奏の演奏をバックに、四人の人間がシャンペンで乾杯している写真。武器商人と武器製造会社の社長、スーダン政府のエージェントと、スウェーデンの武器輸出評議会の会長の四人が写っている。スーダンには、二〇〇八年に、国連によって武器の禁輸が施行されているので、その写真が、もし武器輸出の証拠写真だとすれば、何時撮られたのかがキーとなる。後ろに写っている弦楽四重奏の奏者の指の位置から曲目を見つけ、そのプログラムが演奏された日、つまり、写真が撮られた日を見つけてしまうという「離れ業」が行われる。「絶対に無理だ」と誰もが思うだろう。私もそう思うが、その着想の面白さに、何となく許してしまった。

 タイトルにもあるように、作曲家であり演奏家でもあるニコロ・パガニーニと、バイオリンが、この物語で大きな役割を占める。パガニーニは、一七八二年生まれのイタリア人で、超絶技巧を要求される作品を作曲し、演奏した人物として知られている。

「パガニーニの作曲した作品は、パガニーニしか弾けなかった。」

との逸話が語られている。スウェーデン語の原題は「パガニーニ契約」であるが、この「契約」がどんなもので、誰と誰との間に交わされているのかが最後に明らかになる。ヨーナの協力者となり、事件の解決を助けるアクセル・リーセンは、もともとバイオリン奏者であり、コンクールの決勝まで進んだ人物として描かれている。先にも書いた、写真に写っている演奏者の指の位置から、演奏されている曲目を当ててしまうという「離れ業」をやったのは彼である。

第三作の「Eldvittnet(炎の証人)」も、相変わらずストーリーがよく練られている。(4)最後の展開はまず予測できない。

フローラ・ハンセンという四十歳前後の女性が登場する。彼女は失業して里親の下に戻り、そこで里親からのいじめや暴力に耐えながら家政婦として働いている。彼女は「魂と出会う夕べ」、「交霊会」を主宰し、自分は恐山のイタコのように死んだ人間と交流できると雑誌記者に語る。しかし、これは嘘で、フローラはこれまで幽霊など見たことがない。その会を始めた友人が入院したので、代理を引き受けたまでで、小遣い稼ぎにやっているインチキなのである。しかし、ある時から、彼女は「嘘から出た真(まこと)」か、殺された少女からのメッセージを受け取るようになる。彼女はそのメッセージを何回も警察に伝えようとするが、信じてもらえず、最後は狂人扱いにされてしまう。しかし、ヨーナは彼女の言っていることの中に、警察のごく一部の人間しか知らない事実があるのに気づく。

途中、フローラに関しては、オカルトめいた方向へ話が展開していく。しかし、ヨーナもフローラを「霊媒師」としては信じず、「科学的」な解釈を試みる。フローラの「交霊」にどのような裏があったのか、過去の出来事があったのか、これがこの物語の最大の興味になる。

もう一つの興味は、車を盗んで逃げた少女ヴィッキーと、その車の中にいた四歳の男の子ダンテがどこへ消えたかという点である。脇道のない一本道、何十キロも真っ直ぐな道路、その両側には警察が非常線を張っている。その間で、ヴィッキーとダンテの乗った赤いトヨタは忽然と消えてしまう。辺りの農家を警察が訪れ、ヘリコプターまで動員されるが、見つけることができない。数日後、信号機に車のぶつかった跡と、川の中に車が沈んでいるのが発見される。潜水夫により調査が行われるが、ふたりの遺体は発見されず、僅かにヴィッキーのハンドバックが、洗堰の金網に引っかかっていただけだった。この点の説明を、作者はかなり引っ張り、物語も終盤に近付いて、ようやくヴィッキーとダンテの行方が分かる。

見過ごしてしまうような些細なことだが、殺された少女ミランダが、死ぬときに両手で顔を覆っていたこと、それは何故かということも、最後に事件を解く要素として重要になってくる。この辺り、実に芸が細かい。

第四作「Sandmannen(砂男)」では、前作で登場したサガ・バウアーが秘密捜査官として、連続殺人犯、ユレク・ヴァルターの入院している特殊精神病院に収容されることになる。(5)ヴァルターから、過去の犯罪に対する情報を得るためである。彼女の素性を知っているのは、一握りのトップのみ。病院のスタッフや患者に対して、彼女は凶暴な精神異常者であるとされている。その素性を見破られないためにヨーナがザガにしたアドバイスが面白い。

「嘘をつくな。真実だけを答えろ。真実が告げられないときは黙れ。」

ということだ。人間、嘘をつけば少しは心が動揺するもの、鋭い感覚を持った相手には、その動揺が察知されるというものだ。私事だが、長年の人生の中で嘘をつかれることもあった。そのうち、相手が嘘をついているときは、それが何となく分かるようになった。個人的には、余り獲得したくない資質であるが。ユレク・ヴァルターは人間の心理を読み、弄ぶ達人である。そんな相手には嘘が通用しない。ヨーナのアドバイス、なかなか実際の生活でも使い甲斐のあるものだと思う。

 ノルウェーの作家、ヨー・ネスベーの小説を読んで新鮮さを覚えたことがある。

「正義の味方は死なない。主人公やそのお友達には、危機に陥っても間一髪で助けの手が差し伸べられる」

そんな、「お約束事」を無視して、どんどんと「良い者」をストーリーの中で殺していったからだ。さすがに、主人公のハリー・ホーレだけは別だったが。(彼を死なせると、次の作品が書けなくなる。)ケプレルの作品にもネスベーと同じことが言える。「良い者」であっても、作者は容赦なく殺してしまう。「お約束事」に慣れた読者には、ちょっとショックである。

 この物語に登場するユレク・ヴァルターは、犯罪のために生まれてきた、そのために生きているような人物として描かれている。私はヴァルターのやり方を見て、当時話題になっていた少年棋士、藤井聡太七段を思い浮かべた。悪人と比較して藤井さんには悪いが。チェスや将棋のプレーヤーは、何手先までも読んで、相手がこう出てきたらこう打とうと、何種類ものケースを想定し、そのために準備をしているという。そして、現在の一手に、一見して意味が見いだせなくても、将来の布石になっているという。ヴァルターはそんな人間。何手も先を読んでいて、その時一見意味のないことも、将来のための周到な準備なのである。十三年間も、ヴァルターによって囚われの身だった男が解放されるが、それも、実は、ヴァルターの描く壮大な設計図の一部だったというわけだ。

第五作の「Stalker(ストーカー)」。二〇一四年に発表された。(6)誰もが利用できる「ユーチューブ」が犯罪に使われている。まず犯行宣言とも言えるビデオが警察に送られてくる。それは「ユーチューブ」のページへのリンクなのだが。警察は、過去の事件から、そこに写っている女性が殺人事件の被害者になることを知っている。そこで、その女性は誰か、撮影された場所はどこかという分析が始まるのである。

前作で、ヨーナと同僚のサガ・バウアーは、ユレック・ヴァルターをギリギリのところまで追い詰め、一度は射殺したと考えるが、結局死体は見つからなかった。ヨーナは妻を彼に殺されている。自分と、残された娘をヴァルターから守るため、彼は自殺を装い、実はフィンランドに潜んでいたという設定になっている。ヴァルターの死の知らせを受け、ストックホルムに戻って来たことから話が始まる。そして、彼は捜査班に加えられる。フラッと帰ってきたばかりのヨーナが捜査班にあっさりと加えられ、銃まで与えられるのはかなり不自然だと思うが。その間の手続きなどが一切省略され、一時間後にはもう捜査班の一員になっているというは・・・まあ、小説だから許そう。

 連続殺人犯人、ヴァルターの執拗さ、残忍さ、狡猾は益々エスカレートする。正に、アーチスト、犯罪建築家とも言える人間で、実にち密な計画と設計図を組み、長期間に渡り(時には十年を超えるスパンで)犯罪を実行していく。もう「モンスター」と言うしかない。個人的に、もう少し犯人側にも、人間的な逡巡が欲しい気がする。

 第一作で登場した、精神科医で催眠術師のエリックが第五作にも登場、一度は容疑者として警察に手配される。彼の催眠術の威力はここでも凄い。記憶喪失した男の記憶を蘇らせてしまう。本当にできるのなら、素晴らしいと思う。ヨーナは彼の無実を信じ、記憶喪失の男が催眠中に語った「汚い説教師」こそ、真犯人であると考えている。エリックを信じるヨーナは、警察の同僚に嘘をつき、エリックを助けながら、独りで真犯人を探す。これは非常に困難な仕事である。そして、彼は、その遂行のために、自分の命を投げ出すような行動を取る。

ケプレルの作品は、「透明度」が高い。透明度とは「移植性」と言っても良い。舞台をスウェーデン以外のどのような場所に移しても成り立つストーリーなのである。それ故に、スウェーデン人以外の読者の共感も得やすい。スウェーデンの小説には「透明感」があると私は常々書いているが、まさにこの点なのである。特に、ケプレルの作品には特にその傾向が強い。誰にでも受け入れ易い、理解しやすい。

私の好きな小説に、イタリアのナポリを舞台にしたエレナ・フィランテという作家の作品がある。五十年前の貧困と暴力に満ちたナポリの貧民街が舞台。面白い話なのだが、舞台設定がどのようなものか、まずイメージが湧かない。ヘニング・マンケルはアフリカを舞台にした小説も多数発表している。そして、それを読むときも、どんな風景を想像してよいのか、イメージを持つのに苦労する。しかし、ケプレルの作品にはその苦労がない。ケプレルの小説はスウェーデンを舞台にしてはいるが、物語はヨーロッパやアメリカのどの場所でも成立するものである。土着文化に密着した設定がないので、読者がその状況を容易に想像出来て、明確なイメージを持ちやすい。つまり「透明度」、「移植性」が高い。

読み進むうちに、語られるストーリーに嫌悪感を持ったことも事実だ。追跡者があまりにも「しつこい」ということ、また、余りにも残酷なシーンが続くことである。「顔のない追跡者」、「殺人ロボット」とでも言うのだろうか。黙々と殺人という使命を実行していく一種の「無機質」な人間に、違和感を覚えた。テンポのよいストーリーの展開や、よく考えられた構成、分析と調査の行き届いた背景、そして読み易さ、それをとってもケプレルの作品は一級品であると思うが、最後は読者が血の臭いに耐えられるかどうかだ。

ヨーナ・リナは行動の男。家族を殺され、一度は家族の身を守るため、偽装自殺、に国外脱出をする。それでも懲りずに、「ランボー」よろしく、独りで敵の中に乗り込んでいく。結末での「単独行」、その展開は、マンケルのクルト・ヴァランダー以来の、スウェーデン警察小説の伝統とも言える。

 

作品リスト:

「ヨーナ・リナ」シリーズ

l  Hypnotisören(催眠術師) 2009 (邦題:催眠、ハヤカワ・ミステリ文庫、2010年)

l  Paganinikontraktet (パガニーニ契約)2010 (邦題:契約、ハヤカワ・ミステリ文庫、2011年)

l  Eldvittnet (炎の証人)2011 (邦題:交霊、ハヤカワ・ミステリ文庫、2013年)

l  Sandmannen (砂男)2012年(邦題:砂男、扶桑社BOOKSミステリー、2019年)

l  Stalker (ストーカー)2014

l  Kaninjägaren(ラビットハンター)2016 

l  Lazarus (ラザロ)2018

その他:

l  Playground (遊び場)2015

 

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(1)    ウィキペディア、スウェーデン語版、Lars Keplerの項

(2)    Der Hypnotiseur, Bastei Lübbe GmbH & Co, Kōln, 2012

(3)    Paganinis Fluch, Bastei Lübbe GmbH & Co, Kōln, 2011

(4)    Flammenkinder, Bastei Lübbe GmbH & Co, Kōln, 2012

(5)    Der Sandmann, Bastei Lübbe GmbH & Co, Kōln, 2014

(6)    Ich Jage Dich, Bastei Lübbe GmbH & Co, Kōln, 2015

 

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