シューヴァル/ヴァールーの価値

 

マイ・シューヴァル、下記のオブザーバー紙の記事より。

 

 マイ・シューヴァル(Maj Sjöwall)とペール・ヴァールー(Per Wahlöö)について書き始めると、本が一冊出来てしまう。

「もし、彼等がいなかったら・・・」

と考えても、私はその帰結を思い浮かべることができない。現在、私の書いている書評の殆ど全てが存在しないであろう。二人こそ、スウェーデンで、いや世界で現在書かれている推理小説、犯罪小説の道を開いたと作家だと言っても過言でないと思う。私のこれまでの活動は、「現在の犯罪小説、ミステリーのルーツを辿って行くと、シューヴァル/ヴァールーに行き着く」ということを証明するためだったと言ってもよい。

そう考えるのは私だけではない。例えば、英国人のジャーナリスト、ルイーズ・フランス(Louise France)は、シューヴァルに対するインタビュー記事(1)の冒頭で、

「彼らなしには、イアン・ランキン(Ian Rankin)の『ジョン・リーバス(John Rebus)』シリーズ(2)や、ヘニング・マンケルの『クルト・ヴァランダー』シリーズも生まれなかっただろう。」

と述べている。シューヴァル/ヴァールーの書いた、「マルティン・ベック」シリーズ、全十作が、その後書かれる犯罪小説の一種の「ひな型」となったと言っても過言ではない。

 では、彼らの小説で、何が新しかったのであろう。ヘニング・マンケルの項でも書いたが、ここで繰り返させていただく。

1.      主人公の刑事がスーパーマンでなく、私生活を持った、血の通った、悩める人物であること。

2.      主人公の刑事が単独で事件を解決するのではなく、彼の同僚にも活躍の場が与えられ、チームとして事件の解決に取り組んでいること。

3.      その時々の社会問題が織り込まれて、作品が社会の矛盾についての訴えを持っていること。

この三点に集約される。そして、シューヴァル/ヴァールーの作品が、マンケルに先立つこと二十五年、一九六〇年代に書き始められたということに、ただただ驚くばかりである。一九六五年から一九七五年にかけて書かれた「マルティン・ベック」シリーズは、今読んでも新しい。十分に楽しめる作品である。

 ストックホルム警察の警部「マルティン・ベック」を主人公にした作品群は、ジャーナリストの夫婦によって、台所の食卓で書かれた。それも、ふたりが一章ごとに交代して。前述のルイーゼ・フランスによるシューヴァルへのインタビュー記事の中で、作者自身がその作品の作られた背景、環境について、次のように語っている。

「『マルティン・ベック』シリーズは、夕食後、子供達が寝静まった食卓で、ヴァールーと私が一緒に、一章毎に交代で書きました。私は全く本を書いた経験がなく、ヴァールーも文筆業でしたが、それまで推理小説など書いたことはありませんでした。私たちは最初から、十冊の本を書くことを決めていました。そして、シリーズは毎年一冊のペースで十年に渡って書き続けられることになります。十冊目が完成すると同時に、ヴァールーは四十九歳で亡くなりました。」

インタビューの中で、シューヴァルはシリーズを書き始めた動機について次のように語っている。

「このシリーズを通じて、私たちは、一九六〇年代のスウェーデンの社会問題を掘り起こそうとしたのです。ヴァールーはマルクス主義者でした。このシリーズはマルクス主義者の目から見た、当時の社会への問題提起だったのです。私たち、自分達の本が、それほど売れるとは期待していませんでした。」

結果的に、シリーズは世界中で一千万部を越えるベストセラーとなる。しかし、不思議なことに、彼等は本が売れたわりには、金銭的には恵まれなかったという。

「でも、それでいいんです。金持ちになるより自由なままがよかった。」

と、シューヴァルはインタビューで、そう振り返る。

シューヴァルはインタビューの中で、彼女の私生活についても語っている。彼女の父はホテルのマネージャーをしており、ストックホルムのホテルに住み込んでいた。スイートルームを借り切る金持ちの客から、地下の厨房でジャガイモを剥く従業員まで、ホテルはありとあらゆる階級が混在する場所であった。シューヴァルはそれを見ながら育った。ティーンエージャーのとき、彼女は積極的にパブやレストランなど大人の世界に入り込んだという。

シューヴァルとヴァールーが出会ったのは一九六二年のことだった。ジャーナリストとしての道を歩み始めたシューヴァルは、当時二十七歳。ヴァールーはシューヴァルより九歳年上で既婚、娘がひとりいた。彼は、新聞記者で共産党員であった。彼らはジャーナリストが集まる一軒のバーで出会い、意気投合する。そしてヴァールーは妻と幼い娘を捨ててシューヴァルの元に移った。

一緒に住むようになったふたりは、推理小説を書くことを計画する。シューヴァルは、自分たちの意図を、

「推理小説の執筆を『書斎』から『表通り』に引きずり出そうとした。」

と表現している。ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon)(3)やダシール・ハメット(Dashiell Hammett)(4)の影響を受け、彼らも社会問題を取り扱った作品を書こうとする。

「私たちは『左翼的な』視点から見た社会を描こうと思っていました。ペールは一度政治的な本を書きましたが、たった三百冊しか売れませんでした。人々が推理小説なら読むことを発見し、『福祉国家』というスウェーデンのイメージの裏に存在する、貧困、犯罪、暴力など別の層があることを読者に訴えることを目的に書き始めました。私たちは、スウェーデンが資本主義的な、冷たい、非人間的な方向に向かっていること、そこでは富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなることを訴えたかったのです。」

とシューヴァルは動機を説明する。

かくしてふたりは小説を書き始めた。それはふたりきりの「プロジェクト」であった。シリーズは最初から十冊と限定されていた。最初の本は、スウェーデンの運河を船で旅をする途中で殺された米国人の女性を描いた「ロゼアンナ」である。今読んでみると特に感じないが、当時は「余りにもリアリスティック過ぎる」という批判を浴びたという。しかし、彼らは児童虐待、殺人狂、セックス産業、自殺と言ったテーマを次々に扱っていく。彼らの本は彼等自身の予想を超えてベストセラーとなる。しかし、不思議なことに、本が売れたことはふたりにそれほど金をもたらさず、彼らはずっと印税だけで生活ができなかったという。

当初の計画通り、十冊の本を発表する上での大きな障害が現れる。それはヴァールーが病を得たことである。彼らは何とか十冊目の本「テロリスト」を一九七五年の五月に書き上げる。ヴァールーはその出版を待たず、同年の七月に亡くなる。インタヴュアーのフランスは、シューヴァルに尋ねている。

「あなた方が予想し、怖れていた社会は実際に来ましたか。」

「全てが予想したより早くやってきました。市場が支配し、人々が『人間』ではなく『消費者』として理解される社会が。」 

とシューヴァルは答える。

「では、あなた方の『プロジェクト』は失敗に終わったのですか。」

とフランスが更に聞くと、シューヴァルは笑いながら答えている。

「はい、失敗しました。でも大事なことは、私たちの本の読んだ人々が、既に私たちと同じように考えるようになってくれることです。そのままでは何も変わらない。自分たちで変えるようにしなければ。」

フランスとのインタビューの最後で、シューヴァルはそう答えている。

 

***

 

(1)    The queen of crime 20091122日、英国「オブザーバー」紙、日曜版に掲載。

(2)    英国、グラスゴー出身の作家、イアン・ランキンが、1987年から発表している、刑事ジョン・リーバスを主人公としたシリーズ。リーバスには、軍隊時代に受けた非人間的な訓練によるトラウマがある。

(3)    ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon1903年−1989年。ベルギー出身の小説家。フランス語で執筆。メグレ警視シリーズで好評を博す。世界で最も読まれたフランスの作家は、ヴィクトル・ユーゴー、ジュール・ヴェルヌについで、シムノンという説があるほど。

(4)    ダシール・ハメット(Dashiell Hammett1894年−1961年。米国のミステリー作家。推理小説の世界にいわゆるハードボイルドのスタイルを確立した。代表作は「血の収穫」、「マルタの鷹」、サム・スペードやコンチネンタル・オプ等の探偵を創造した。

 

<次へ> <戻る>