アンデシュ・ルースルンド/ベリエ・ヘルストレム

(Anders Roslund / Börge Hellström)

ルースルンド(1961年〜)イェンケーピング出身、ジャーナリスト、作家

ヘルストレム(19572017年)グスタフスベリ出身、評論家、作家

 

ヘルストレム(左)ルースルンド。Publishers Weekly, 201111日の紹介記事より。

 

 シューヴァル/ヴァールーの流れを汲む、社会派の犯罪小説である。マンケルも、その時々の社会現象を題材に取り入れている。しかし、それはあくまで背景、道具として使われているに過ぎない。ルースルンド/ヘルストレムは、社会現象を単なる筋立てに使うだけではなく、それに鋭いメスを入れて、問題提起をしている。そういう意味で、小説を通じて、社会の矛盾に光を当て、社会を変えようとした、シューヴァル/ヴァールーの伝統を受け継いでいると言える。

 刑務所を舞台にした話が多く、その部分が妙に生々しい。それもそのはず、ヘルストレムは犯罪者として服役していた経験があるのである。彼は服役中、刑務所に関するドキュメンタリー番組を制作するために訪れたルースルンドと意気投合し、後に共作で犯罪小説を書くことになる。ヘルストレムは、二〇一七年に、癌により、五十九歳で死去している。(1

 彼等の作品の主人公は、エヴェルト・グレーンス、定年を数年後に控えたストックホルム警察の警視である。独身。頻繁にオフィスに寝泊りし、いつもスウェーデンの女性歌手、シヴ・マルムクヴィストの曲を大音量でかけている。何故彼が今も独身で、シヴの曲を好むかには、理由がある。それが、回を重ねるにつれ、段々と明らかになってくる。

ところで、グレーンスは、二十五年前に買ったカセットレコーダーで、マルムクヴィストの曲を聴いていることになっている。しかし、

「毎日使っているカセットレコーダーが、二十五年も持つの?」

と思ってしまった。ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」の主人公は、同じように二十数年前に買ったミッキーマウスの腕時計をしていたが、どちらも設定にちょっと無理があるような気が。ともかく、グレーンスが一度シヴの曲をかけ始めると、その曲が終わるまで、絶対に中断してはいけないという不文律が、グレーンスの周りの人間にあるのだった。

副主人公として登場するのが、スヴェン・スンドクヴィスト、グレーンスの部下である。事件の為に、幼い息子と約束していた誕生日パーティーのために帰宅することができなかったことを悔やみ、約束を守れなかった自分を恥じる、そんな、家族思いの父親である。スヴェンは、「家族、家庭」とは一切縁のないように振舞っているグレーンスと対極をなしている。そして、スンドクヴィストは、常に自分が正しい職を選んだのかどうか、疑問に思っている。

スウェーデンの犯罪小説に次々と登場する「はみだし刑事」たち。これまで、どこか、マンケルのクルト・ヴァランダーの亜流、真似という印象を拭い去れなかった。しかし、このグレーンスの設定には、一切そんな印象を持たなかった。

 

第一作の「Odjuret(野獣/邦題:制裁)」は、自分の幼い娘を、性的に虐待された上で殺された父親が、刑務所から脱走したその犯人に復讐をするストーリーである。(2)個人的には父親、フレデリックの行動に共感を覚える。子供に対する性犯罪は許し難い。犯人のルンドは、殺されてしかるべき人間である。しかし、法律はそのような人間をも殺すことを許さず、殺したものを罰せようとする。そこに非条理を感じる。この物語を、その非条理をえぐっている。

 父親に対する同情、これは全ての登場人物に共通した感情である。警官や看守の誰もが、フレデリックに対して、

「あんたがここにいるのは間違いだ。」

と言う。グレーンス、検察官のオゲスタムまでが、自分のやっている行為に疑問を感じている。私も、フレデリックが有罪になるならば、世の中が間違っている、そして、有罪が合法ならば、法律そのものが間違っているか、その解釈に誤りがあると思った。

透明感のある文章。あちらこちらに、キラリと光る描写がある。例えば、少女マリーの死体は老夫婦により発見されるが、以下はその夫、定年退職をした男の描写である。彼は、かつてジュース工場で一緒に働いていた同僚について、次のように考えている。

「奇妙な話だ、と彼は思う。自分に興味もなく、自分を必要ともしない同僚たちとずっと一緒にいたなんて。居間の隅にあるつけっぱなしのテレビに写っているような人たちと。彼らとの生活は儀式であり慣習であり、そこには空虚さと沈黙が隠されていた。同僚たちは、いわば、自分がまだ存在することを確信するために、自分自身を映し出す鏡にすぎなかったのだ。それ以外はどうでもいい人々だった。自分自身にとっても、彼ら全てにとっても。定年になり、自分は突然存在しなくなった。しかし、彼らは何事もなかったように働き続けている。彼らは毎日ジュースをかき混ぜ、ロトの紙に書き込みをし、休憩時間に笑っている。自分などまるで一度も存在しなかったように。」(ドイツ語版122ページ)

この男は、物語ではほんの端役である。しかし、そんな登場人物に対しても、ここまで念入りで、細密な描写が試みられている。

 この物語、もうひとつの舞台が、アスプソス刑務所である。看守同士の同性愛、麻薬の持ち込みと吸引、消火器を使った酒造り、囚人同士のリンチなどの様子が、事細かに記述されている。ヘルストレムが「囲いの中」で暮らしたことがあり、これらのエピソードがある程度事実だとすれば・・・恐ろしい。囚人の中にも、犯罪によりランクがあり、「子供に対する性犯罪」は、囚人の中でも最も恥ずべきものであり、リンチの対象となるというのが面白い。

被害者が加害者という構図。これは、この作者の作品に共通するものである。この物語で、フレデリック・ステファンソンは娘を殺された被害者であると同時に、犯人を射殺した加害者である。次の作品「コインロッカー二十一番」では、人身売買でスウェーデンに送られ、売春を強要されていた若い女性が、人質事件の加害者となる。この「被害者が加害者」という構図が、物語に陰影と深みを与えている。どの作品も、現代の社会問題を鋭くえぐって、読者に問題を投げかけている。

 

第二作の「Box 21(コインロッカー二十一番/邦題:ボックス21」も、なかなかハラハラする展開である。(3)しかし、何とも、割り切れない結末が待っている。

リトアニアから連れて来られ、ストックホルムで売春婦をする若い女性、リディア。彼女の父はリトアニア独立の闘士であったが、裏切りにあって獄死。その裏切り者の対する、彼女の復讐の物語である。前半の興味は、病院に立て篭もるリディアの行動である。まず、リディア、オルデウス、グレーンス、ラングの行動が別々に語られ、それらの登場人物が、全て「ストックホルム南病院」に集結する。ラングはオルデウスを殺害、リディアは病院の地下にある遺体安置室に立て篭もる。何故、遺体安置室なのか、これはリディアの恐ろしく綿密で周到な計画のひとつなのである。ともかく物語は、前半のクライマックスを向かえ、ひとつの帰結を見る。

 後半の興味は、グレーンスの嘘と、それを追う同僚たち。これはもう別の話にしてしまっても良いくらいだ。グレーンスは友人の警官を守るために、証拠隠滅を図り、重要参考人を国外に逃がしてしまう。いかに殺されたのが友人であり、その友人に死に追いやったのは自分であるという自責の念に駆られているとは言え、警察官としては許されない行為。このグレーンスの考え方には、なかなか感情移入できない。同僚のスヴェンと、検察官のオゲンタムは、グレーンスの言動の不自然さにかなり早い段階で気づく。そして、彼らがグレーンスの嘘を見破ることができるのかということが、先にも述べたが、後半の焦点となる。

 グレーンスが何故独身なのか、彼が何故定期的に病院にいるアニを訪れるのかが、明らかになる。二十五年前、自分のミスで、同僚であり、恋人でもあったアニを植物人間にしてしまったのだ。グレーンスは自分の恋人が植物人間になる原因となった男、ヨッフム・ラングの再逮捕に異常な執念を傾ける。ラングを目撃した女医リサは、ラングの仲間からの脅迫に屈して、面通しの際、ラングは自分の目撃した男ではないと証言する。その証言を、再び覆させるために、グレーンスはラングの被害者の悲惨な写真を、ファックスでリサに送り続ける。その執念はすごい。

また、グレーンスは、スコーネ地方から、病気の警官の臨時補充として来た若い女性警察官、マリアナ・ヘルマンソンに、アニの面影を見つけ、すっかり気に入ってしまう。そして、彼女を自分の部下にしようと画策する。この点、気持ちは分かるが、更に公私混同ではと思ってしまう。ともかく、グレーンスは、「仕事に私情を持ち込んでしまう男」として描かれている。

 何故、リディアは刑事のノルドヴァルを人質交換の際に指名したのか。何故、リディアは激しい憎悪を彼に対して持っているのか。ノルドヴァルは、過去にリディアに対して何をしたのか。それは職務の遂行の際なのか、個人的な問題なのか。そこが読者の興味を引く。ノルドヴァルはグレーンスの目から見ると穏やかな人物である。また、彼はバルト三国で働いていたことがあり、ロシア語が堪能であることが語られる。この「何故」、最後の数ページで語られるが、この「何故」が意表を突くものであることは言うまでもない。

 スウェーデン語のタイトル、「コインロッカー二十一番」は、リディアとアレナが私物を隠し持っていた、ストックホルム中央駅のコインロッカーの番号である。小さな空間であるが、アパートに閉じ込められ、監視下に置かれているふたりにとって、この自由に使える空間は、極めて大切なものであった。もちろん、ストーリーの展開の上でも、この小さな空間が、大きな役割を果たすことになる。

 

第三作の「Edward Finningans Upprättelse(エドヴァルド・フィニガンの矯正/邦題:死刑囚)」は、死刑制度にメスを入れる物語。(4

米国オハイオ州で、ジョンは死刑判決を受けた。いくら死刑制度のある州でも、十七歳の少年が死刑判決を受けてしまったという設定に、いささか不自然さを感じた。しかも、証拠が、被害者の体内に残された精液と、被害者の部屋に残された指紋だけであるという。ジョンは殺されたエリザベスのボーイフレンドであったのだから、それらは当然の帰結であるのでは。作者の方でも、その辺りが問題になることを意識してか、「何故ジョンが死刑判決を受けたか」という点の説明には、かなりのページを割いている。

 まず、過去にジョンの素行に問題があり、二度少年鑑別所に送られていること。次に、被害者は土地の権力者の娘で、事件を迷宮入りさせることは、州の警察、検察の沽券に関わること。また、オハイオ州の陪審員は、死刑制度に反対する者が最初から排除されていることなど。しかし、十七歳という年齢と、初犯であることを考えると、どう考えても、この設定には無理があるような気がする。

  ストーリーの前半の興味は、死刑囚のジョンがどのようにして、処刑を免れ、スウェーデンに逃げおおせたかという点であろう。そして、後半の興味は、強行にジョンの引渡しを要求してくる米国政府に対して、スウェーデン側がどのように対応するかという点。二つとも、意外な結末が待っている。

  これまで死刑制度の不条理さと、その廃止を訴えることを目的に書かれた小説を何度か読んだこともある。その意味では、この小説も、死刑制度に対する不条理を訴えていると言ってよい。グレーンスの部下、スヴェン・スンドクヴィストは、ジョンの送還が決まってから、心の晴れない時間を送っている。幼い息子の前でも、ジョンのことをつい考えてしまう。以下はスヴェンとその会話である。

「彼(ジョン)は別の国に住んでいるんだ。USAっていうんだけど知ってるかい。そこには誰かを殺したと思われる人がいっぱいいる。それで、誰かを殺したら、その人間も殺されてしまうんだ。」

彼は息子に死刑制度についてそう説明する。

「その人間を殺してもいいって、誰が決めるの?」

と息子は尋ねる。

「裁判所、そして裁判官。知ってるだろ、裁判所。テレビで見たことあるだろ。」

「裁判所、裁判官、それって人間なの。」

「もちろん、普通の人間だ。」

「じゃあ、裁判所と裁判官を誰が殺すの。」

「誰も殺しはしない。」

「でも、人を殺したら殺されなくてはいけないなら、その裁判所と裁判官も殺されなくてはいけないじゃない。そうじゃないパパ。どうもよく分からないよ。」

「人が人を殺す権利があるのか」という点を、単純ながら鋭く突いている会話である。

  グレーンスは、マルメーの警察署から引き抜いたマリアナ・ヘルマンソンを部下にすることに成功した。ヘルマンソンは、何故グレーンスが自分をわざわざ遠くから呼び寄せて部下にしたのかを疑問に思っている。その理由は、どうやらヘルマンソンがアニー似ているということであった。

 かなりよく似た設定であるにもかかわらず、エヴェルト・グレーンスとクルト・ヴァランダーは重ならない。何故か全く異質の人物のように思えてくる。ヴァランダーは良くも悪くも直情径行型の人物であるが、グレーンスは陰にこもる、かなり屈折した人物のようだ。考えてみると、ヴァランダーはポピュラー音楽ではなく、オペラのファンであった。複雑で、多面的で、一筋縄でいかないグレーンスの性格が、この物語に不思議なリアリティーを与えてくれている。

 十七歳で死刑判決を受けた、ジョンの人物描写、心理描写はなかなか説得力がある。喋りすぎないところが良い。この手の小説は、突然登場人物が聞かれてもいないのに、どんどん喋りだすことが多いのであるが、それが抑えられており、小説のリアリティーに対して一役買っている。

 それに対して、部下のマリアナ・ヘルマンソンはかなり類型的な人物で、少しがっかりする。どうして、この手の警察小説には、若くて、美しくて、聡明で、しかもやり手の女性刑事が登場するのであろうか。映画化されたときに、若い女性が登場しないと、客が取れないからであろうか。

 

  ルースルンド/ヘルストレムのこれらの作品を読んで感じることは、推理小説と社会小説のミックスと言う点で、スウェーデンで最も成功した作家であるということである。

 

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(1)      ウィキペディア英語版、Anders Roslund Börge Hellström Johan Theorinの項。

(2)    Die Bestie,Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt, 2006

(3)    Blasse Engel, Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt, 2007

(4)    Todes Falle, Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt, 2008

 

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