シェル‐ウーロフ・ボーネマルク

Kjell-Olof Bornemark

19202006

作家、ギャンブラー

 

Swedish Crime Write – A Comprehensive Listより。インターネット上はこの写真しか見つからなかった。

 

ボーネマルクは、―九八九年の「スウェーデン犯罪小説作家アカデミー賞」の受賞者である。次に控えるのは一九九〇年に受賞したヘニング・マンケル。マンケルに関しては、ほぼ全ての作品を読み、それなりにリサーチもしている。

「後ひとり!後ひとり!」

ここまで来てホッとしている。しかし、安心するのは早かった。ボーネマルクは、これまで登場していただいた作家たち以上に情報が少ない、手強い相手だったのである。

頼みの、スウェーデン語版のウィキペディアの記載がたった一行。他にはノルウェー語版があるだけで、英語、ドイツ語での説明はない。

 

「シェル‐ウーロフ・ボーネマルク、(一九二〇年生まれ、二〇〇六年死亡)はスウェーデンの作家である。彼は犯罪小説とスパイ小説を書いた。」(1

 

これだけ。その後に、彼の残した本の一覧がある。それも八冊のみ。

l  Legat till en trolös 1982)(トロリーへの遺産)

l  Skiljelinjen 1983)(分割ライン)

l  Förgiftat område 1984)(中毒地域)

l  Handgången man 1986)(操られて歩く男)

l  Skyldig utan skuld 1989)(罪なき無罪)

l  De malätna 1991)(モルト)

l  Kontrollören 1992)(ヴェリファイア)

l  Spelaren 1994)(プレーヤー)

全く寡作な人かと思ったら、そうではない。活動期間が短か過ぎるのだ。彼の作家としての活動は、一九八二年から一九九四年までのわずか十二年間だけである。

 

何とかボーネマルクの生涯について知りたいと思って調べたところ、彼の友人による追悼文が見つかった。ヨハン・ヴォペンカ(Johan Wopenka)という人が書いている。もちろん、スウェーデン語である。

 

「シェル‐ウーロフ・ボーネマルクは実に多彩な背景を持つ人物だった。彼が自身で語ったところによると、彼はマルチリンガーであり、船乗り、ジャーナリスト、報道官、聖書セールスマン、不動産業者などの職業を経験したという。それに加え彼はギャンブルの専門家であり、プロのギャンブラーとして、特に『トラヴ競馬』(訳中:馬が車を引く競走、繋駕速歩競走)で生計を立てていたという。

作家としては、彼はスウェーデン犯罪小説作家アカデミーのメンバーであるハンス・ステルトマン(Hans Stertman)に促され、スリラーの『Legat till en trolös(トロリーへの遺産)』を書いた。それは、トーンの低い、心理学的なスパイ小説で、日々変化する可能性があり、誰が本当に信頼できるものが何であるかを誰も知らない政治的なゲームの上で活動する諜報エージェントの姿を描写している。この作品により、ボーネマルクは、『シャーロック・ホームズ賞』と『スウェーデン犯罪小説作家アカデミー、新人賞』を受賞した。

彼は、その後、同じような題材を扱った本を七冊書いている。『Kontrollören(ヴェリファイア)』がその中でも出色である。『Skyldig utan skuld(罪なき無罪)』は、オロフ・パルメ暗殺事件を扱っており、彼の作品の中でも最も有名になり、『スウェーデン犯罪小説作家アカデミー賞』を受賞した。彼の最後の作品『Spelaren(プレーヤー)』で、彼は自分のギャンブラーとしての経験を生かしている。また彼のアイルランドと愛への関心が『Förgiftat område(中毒地域)』に描かれている。

一九九四年、ボルネーマークは、犯罪小説の分野から、彼がそれに入る際と同じくらい早く足を洗い、意外にも、『作家協会』の要請により、そこを退去した。しかし、ボーネマルクの残した少数の小説は、精神的なポートレートや、国際諜報機関の信憑性のある描写によって、彼を非常に思い出深いものにしている。彼の本はまた、英語、フランス語、ドイツ語、日本語。を含む多くの言語に翻訳されている。」(2

 

衝撃的なデビューを果たし、数々のヒットを飛ばし、栄誉のある賞を得ながら、突然引退したボーネマルク。その理由は書かれていない。手元にある資料で、それを調べようとしたが、ボーネマルク自体が触れられていなかった。多彩な趣味と特技を持った人だったようなので、一つの分野だけでの活動に嫌気がさしたのかもしれない。これは、あくまで想像だが。

二〇一九年三月現在、上の記事にも書かれているが、「Skyldig utan skuld(罪なき無罪)」は英独で翻訳が出ている。それを読んでみた。

本人は周囲と上手くやろうと努力はするのだが、その努力が裏目に出る人間というのを、私もこれまで見てきた。「場を読めない」、「空気を読めない」、そんな人間は、周囲に疎まれる。この物語のマルティン・ラーションは、まさにそのような人物。身体から、「皆に嫌われるオーラ」を放っている人物として描かれている。バーで飲んでいても、誰も彼のテーブルには近寄らない。彼が接近しようとした人物は、ことごとく予防線を張ってしまう。彼がよかれと思ってかけた言葉は、他人に「挑発」として受け取られる。他人には、虫けらのように扱われているそんな彼が、唯一自信を取り戻せるのが、フィンランド人から買った拳銃を手にしたときである。彼はその拳銃で、自分を虐げた人々に復讐をすることを思い描き、何とか心の平衡を保っている。彼は自分が始めたのではない喧嘩で、逮捕され、起訴され、有罪判決を受ける。そして、自分をそんな目に合わせた「社会」、「体制」に復讐するために、毎晩拳銃をポケットに入れてストックホルムの街を徘徊する。マルティンは、映画館の前に、マルティンもよく知っている、政治的に極めて重要な人物がいることに気づく。間もなく、映画館の扉が開き、人々は中へと入っていく。一瞬、その重要人物とマルティンがふたりだけで対峙することになる。マルティンは拳銃を抜き、その人物に向かって発射する・・・

マルティンが射殺した「政治的に極めて重要な人物」とは、当時の首相のオロフ・パルメである。ウィキペディアによると、パルメは、一九八六年二月二十八日、午後十一時二十一分、ストックホルムの中心街を、妻のリズベット・パルメと映画館に向かって歩いている途中、何者かに銃撃された。パルメは即死、リズベットにも二発命中したが軽傷だった。その当時、首相夫妻はボディーガードを持っていなかった。以前に傷害致死罪で起訴されたことのあるクリステル・ペターソンという男が、容疑者として逮捕され、一九九八年に殺人罪で有罪判決を受けた。しかし、控訴裁判所はそれを覆し、彼は無罪となった。この事件は、スウェーデン国民にとって大きな衝撃であった。自国の首相が公共の場で暗殺され、警察の威信をかけた捜査にも関わらず、犯人を見つけることが出来なかったからだ。それは、福祉国家、安全な国家に住んでいるというスウェーデン国民の幻想を、打ち砕くものであった。この小説は、パルメ暗殺事件の「真相」、あるいは「可能性」のひとつを提示している。

オロフ・パルメ暗殺事件が一九八六年、この小説が発表されたのが一九八九年。つまり、執筆の段階で、まだ容疑者の逮捕、起訴は行われていなかった。そんな状態で、この小説は、「犯人像」、「犯行の動機」について、一石を投じた形になっている。警察、検察は、オロフ・パルメに敵意を持つ者、敵対する利害関係を持つ者を探していた。しかし、この小説は、

「被害者は、パルメでなくても、誰でもよかった。犯人は『社会』と『体制』に対して復讐したかったのだ。」

という、新しい観点から、事件の背景を推理している。

タイトルは「罪なき有罪」、「冤罪」という常識を破って、「罪なき無罪」という表現が使われている。マルティンは殺人を犯すが、二重の意味で「無罪」と言えるのではないか。ひとつは、彼が逮捕され、起訴されなかったこと。もうひとつは、彼が殺人を犯さざるを得ないような境遇に追い詰められていくことである。

文体も流れるようで、ストーリーの展開も読者を飽きささない。ボーネマルクはこの作品で、スウェーデンの「犯罪小説作家アカデミー賞」に輝いている。その後、ドイツ語の翻訳も出たのだが・・・さっぱり売れなかったらしい。当時は九〇年代のヘニング・マンケルや「ノルディック・ノワール」ブームのまだ前。スウェーデンの小説は、ほとんど注目されていなかった。私の読んだ本は、二〇〇七年に再販されたものである。この本が私にとって貴重な理由は、ボーネマルクの略歴が、編集者によって記されていることである。ボーネマルクについての、英語、ドイツ語の資料は殆どない。この作家紹介はためになった。その要約を以下に記しておく。書いているのは、編集者のエリク・グロースマン(Erik Großmann)である。

 

「シェル‐ウーロフ・ボーネマルクはスウェーデン犯罪小説の歴史の中で、おそらく最高齢でデビューをした作家と考えられる。ボーネマルクが「Legat till en trolös(トロリーへの遺産)」で一九八二年にデビューを果たしたとき、彼は既に五十八歳であった。その作品で、彼は、同年の「スウェーデン犯罪小説作家アカデミー・新人賞」を受けている。裏切者の共産主義者をめぐるスパイ小説は、ジョン・ル・カレJohn le Carré1931年生まれ、英国の小説家、スパイ小説で知られる)の作品群と比べられた。「Aktuellt i politiken」誌のレビューは、 ボーネマルクがカレと同じような乖離したモラルと、同じような疲れた皮肉を持っていると述べている。ボーネマルクは、続いて「Skiljelinjen(分割ライン)」(1983年)、「Förgiftat område(中毒地域)」(1984年)、「Handgången man (操られて歩く男)」(1986年)を発表したが、最初の作品のレベルに達するものではなかった。

三年間の空白の後、一九八九年に発表された「罪なき無罪」は、スウェーデン中に大きな反響を巻き起こし、その年の「スウェーデン犯罪小説作家アカデミー賞」に輝いた。批評家たちは、今回はボーネマルクを、当時、人間の本能的な不安の表現で人気を博していた米国の作家、スティーヴン・キング(Stephen King)と並び称した。ボーネマルクもこの作品で、主人公を精神的な極限状態に追い込んでいる。しかし、ボーネマルクの場合は、社会的な枠外へと追いやられ、自らが犯罪者となるように仕向けられた人間の、微妙な心理図を提供している。」(3

 

この紹介文を読んでも、ボーネマルクの作品の中で、「罪なき無罪」が傑出していることが分かる。この作品しか翻訳が出ていないことはそれなりの理由があったのだ。

 

ボーネマルクが愛したトラヴ競馬。ウィキペディアの同項目の紹介記事より。

 

***

 

(1)                Wikipedia, the free encyclopedia, スウェーデン語版「Kjell-Olof Bornemark」の項より引用。

(2)                http://deckarakademin.org/hem/deckarakademin/ledamoter/kjell-olof-bornemark/ をスウェーデン語より翻訳。

(3)                「スウェーデン、犯罪小説図書シリーズ第6巻」、Band 6 der Sschwedischen Kriminalbibliothek, Neuer Europa Verlag, Leipzig, 2007, 181-184ページ

 

 

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