次はキガリでね

 

緑の丘が波打つように続く美しいルワンダの風景。

 

幼馴染のGさんを訪ねて、ルワンダを訪れることになった。彼は昨年の夏から、海外協力隊の仕事で、ルワンダで働いておられる。仕事柄、彼はこれまで地球上の色々な場所に住んでおり、僕は彼の任地を訪れるのが「趣味」になった。昨年、京都で彼と会ったとき、ルワンダ赴任が決まっており、

「次はキガリでね。」

と言って別れたのであった。その約束を果たすべく、二〇一八年の五月、僕は十日間、妻は五日間ルワンダを訪れることになった。

これまでルワンダに対する知識はほぼゼロ。それで、出発の数週間前からリサーチを始めた。インターネットを使ってルワンダの歴史、地理、文化等を調べる。調べていて、どうしても一九九四年の大量虐殺事件を避けて通れない。一九九四年の四月から約三ヶ月の間に、百万人が殺されたという。これまで、十字軍、ホロコーストを始め、数々の「ジェノサイト」、つまり、民族を理由にした大量殺人はあった。しかし、それらは僕にとって、過去の歴史の一部に過ぎなかった。たった二十四年前、僕が大人としてこの世で生活しているときに、そのような大量虐殺があったことは、正直信じられない。

僕は、リサーチの一環として、YouTubeで、ルワンダに関するテレビ番組も見た。その中でも、印象的だったのが、大量虐殺が行われたとき、国連平和維持軍の司令官としてルワンダに赴任していたカナダ人、ロメオ・ダレールを取材した番組であった。ダレールは一九九三年、和平協定の監視という役目を帯びて、ルワンダに赴任する。しかし、その和平協定そのものが、湖に張った薄い氷のようなものであった。まもなく、大統領の暗殺をきっかけにして、和平協定は崩壊、フツ族がツチ族を襲うという、大虐殺が始まる。ダレールは何とか食い止めたいと考えるが、数百人という規模の軍隊では、それを止めることはできない。彼は、国連本部に増援を求めるが、彼の要求は無視され、彼は大虐殺の様子を、手をこまねいて見ているしかなかった。彼はうつ病を発病し、職務を解かれカナダに戻る。そして、その後、十年間彼は再びルワンダを訪れる・・・そんなドキュメンタリーであった。

妻と一緒にその番組を見たが、一番ショッキングなシーンは、虐殺記念館だった。その場所はツチ族の人々が集められ、皆殺しにされた教会の跡だという。何千という白い頭蓋骨。小さなものは子供のもの、頭を斧か何かで割られた頭蓋骨もあった。アウシュヴィッツを訪れた人々は、そこに残された犠牲者の毛髪、歯、靴などを見て愕然とするという。しかし、この無数の頭蓋骨は、あまりにも直接的であった。しかし、僕はその場を訪れてみたくなった。おこがましい言い方だが、現実と向き合うことが、僕自身の成長につながると思ったからである。

ルワンダ行きの旅はアムステルダム経由だった。朝四時に家を出てヒースロー空港へ。そこで、送ってきてくれた妻と別れる。と言っても、彼女も翌日の同じ便で、ルワンダへ向かうのだが。僕が飛行機を予約した後、妻も来ることになったのだが、彼女の仕事の都合で、同じ日に出発することができなかったのだ。六時半発の飛行機に乗り、アムステルダムへ。アムステルダムのスキポール空港で、キガリ空港で待っていてくれるはずのGさんに、遅れのない旨のメールを出す。そして午前十時に、キガリ経由エンテベ行きのKLMオランダ航空機に乗る。乗客の六割が黒人、残りの四割が白人。アジア人は僕ひとりだけだった。

 

1994年当時、国連平和維持軍の司令官として、大虐殺の目撃者となったロメオ・ダレール。

 

 

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