エピローグ・チェコの歴史

 

プラハの繁栄をしのばせる丘の上の王宮。

 

 最後に、チェコの歴史について、少し述べてみたい。チェコの人々は、これまで二度、強権的な支配者に対して戦いを挑み、自由を勝ち取った歴史がある。なかなか、勇敢な人たちなのである。

 先にも書いたが、チェコはかつて「ボヘミア」と呼ばれていた。ボヘミア王国は、五世紀ころから、十六世紀まで、この辺りでは結構栄えていた。「神聖ローマ帝国」の、皇帝を決める国々のひとつだった。特に、十四世紀、カール五世のときに最盛期を迎え、プラハはヨーロッパ政治、文化の中心となった。「カロリナ大学」(「カロリナ」は「カール」のチェコ語読み)は、当時のヨーロッパで、数校しかなかった大学であった。ガイドのカミルさんは、この大学を出たという。

「旧市街を見てると、プラハがヨーロッパ文化の中心都市であったことがよう分かる。」

僕は納得する。

 しかし、十六世紀から、一九一八年まで、チェコは、オーストリア、ハプスブルグ家の支配下となる。そして、ドイツ文化と、ドイツ語を押し付けられるのだ。十九世紀、チェコの人々は何度も、オーストリアに対して反旗をひるがえす。しかし、その都度、武力で抑えつけられる。スメタナの組曲「わが祖国」もまさに、そのような民族意識をより高めるために作られたもの言っていい。

「そうか、『モルダウ』の曲は祖国を流れる川を、高々と歌い上げて、民族意識を高揚させる目的なんや。そやから感動的なんや。」

とまた納得。しかし、チェコの人は、あの川を「モルダウ」とは呼ばない。「ヴルタヴァ」と呼んでいる。なんでやねん。

 第一次世界大戦後、ドイツ・オーストリーの敗戦と共に、チェコスロヴァキアはやっと独立を果たす。ウォーキングツアーの集合した場所のすぐ横に、「市民劇場」があるのだが、独立宣言は、そのバルコニーで発せられたという。

 しかし、第二次世界大戦後、東ヨーロッパの国々は、ソ連を中心にした社会主義体制に組み入れられてしまう。人々の自由は侵害され、反政府の人々は次々に投獄、処刑された。一九六八年、「プラハの春」。人々は自由を求めて立ち上がる。しかし、ソ連は軍隊を派遣し、デモに参加した人々を徹底的に弾圧する。

 そして、一九八九年、ヴァーツラフ・ハヴェルの率いる「ビロード革命」によって、チェコスロヴァキアは血を流すことなく、民主主義国家として生まれ変わった。東ドイツ、ルーマニア、ハンガリーなど、旧社会主義国が次々民主主義化された時期である。チェコの人々は再び自由を得る。めでたし、めでたし。と行きたいところだが、まだ、おまけがあった。経済的格差、政治的な対立から、盟友であったスロヴァキアが分離する。そして、二〇〇四年にはEUに加盟し、現在のチェコに至るのである。

「ご退屈さまでした。ご清聴ありがとうございました。」

 

王宮から旧市街を望む。昔住んでいたドイツのマ―ブルクの景色に似ている。

 

<了>

 

<戻る>