ボルネオ島、コタ・キナバル

さあこれからマレーシアに向けて出発。飛行機はエアバス三三〇型だ。

 

十二月二十二日、夜半に目を覚ますと、激しい雨の音が聞こえる。五時半に起きる。雨は止んでいた。母も起きてきた。気分はかなり良くなったと言っている。今日は、関空を発って、クアラルンプールまで移動の予定だ。

タクシー会社の乗合マイクロバスが六時半に迎えに来る手はずになっている。昨日の鶏鍋の残りの出汁に、母の手打ちうどんを入れて食う。スープも麺も美味い。

全ての出発準備が終わって、バスを待っている間ほど、手持ち無沙汰で、変な気分の時間はない。両親と少しでも長くいたいと思う反面、早くバスが来てほしいとも思う。

六時二十五分、母に別れを告げ、バスに乗り込む。次に乗ってきた米国人の女性と言葉を交わしながら関空へ向かう。彼女は英語の先生。交通局や私鉄の、構内や社内の英語アナウンスもやっているという。僕も彼女の声をどこかで聞いているかも知れない。

マイクロバスは九時に関西空港に着いた。マレーシア航空の登場カウンターへ行く。マレーシア航空の登場手続きは全日空が代行しているらしいが、五十人以上の長い列が出来ている。開いている窓口が少なすぎるのだ。しかも、その窓口の後ろでボウッと立っている男性職員が何人もいる。思わず案内の女性係員に皮肉交じりに尋ねる。

「あの男の人たちは、後ろで暇そうに何をしてはるんですか。」

「荷物の整理係でございます。」

という返事。荷物は、誰の手も介さず、ベルトコンベアで自動的に流れていっているようなのだが。

 マレーシア航空、五十一便、コタ・キナバル経由クアラルンプール行きは定時の十一時に関空を出発した。隣の席は、これからマレーシアに出張する自動車部品会社の人だった。米国に十三年住まわれていたとのことと。そういう意味で、同じく海外生活の長い僕と話が合う。

飛行機はひたすら南へ向かう。赤道に近付くにつれ、窓の外には入道雲、積乱雲がキノコのように湧き上がっている。

夕方五時半。コタ・キナバルに到着。僕はその日まで、地球上にコタ・キナバルなる場所があるのも、そこがボルネオ島であるのも知らなかった。また、ボルネオ島の一部がマレーシア領であることも知らなかった。ボルネオ島は、大雑把に言うと、北半分がマレーシア領で、南半分がインドネシア領なのだ。コタ・キナバルは島の北の端に位置している。

飛行機が高度を下げると、スコール雲の間から、鬱蒼としたジャングルが見える。

コタ・キナバルの空港で、一時間待つことになる。僕は機外に出ることにした。トイレに入ると、日本と同じ「しゃがみ」式の便器で、トイレットペーパーはなく、短いホースが出ている。しゃがんで用を足して、後、水で洗えということらしい。実際やってみると、お尻を洗うときに、水が飛び散り、一面水浸しになってしまった。

気温は三十一度ということだったが、空港内は冷房が効いている。それも効いている所といないところがあって、移動すると暑くなったり寒くなったり。身体が変になりそうな空港だった。

 

鬱蒼としたジャングルに覆われたボルネオ島が近付いてくる。