「スティーグと私、スティーグ・ラーソンと過ごした日々」

Stieg & Me, Memories of My Life with Stieg Larsson

 

 

エヴァ・ガブリエルソン

Eva Gabrielsson

2011

 

<はじめに>

 

スティーグ・ラーソンのパートナーで、三十二年間彼と一緒に暮らした女性、エヴァ・ガブリエルソンの書いた回顧録である。「ミレニアム三部作」でベストセラー作家となったとき、ラーソンはもうこの世にはいなかった。従って、彼の人生と、作品が作られた背景を知る上で、貴重な本であると言える。

 

 

<ストーリー>

 

スティーグ・ラーソンと、彼の書いた「ミレニアム三部作」の主人公、ジャーナリストのミカエル・ブロムクヴィストの似ている点、それはコーヒーをガブ飲みするところだ。私も、スティーグと一緒にいる頃は、いつもコーヒーを飲んでいた。二〇〇四年十一月九日、スティーグが心臓麻痺で亡くなった。その後、私はコーヒーを飲まなくなり、もっぱら茶を飲むようになった。二〇〇五年、彼の書いた「ミレニアム」シリーズにより、ベストセラー作家としてのスティーグが生まれた。(本人はもう死んでいたのだが)それまでの彼は、ジャーナリストであり、フェミニストであり、「戦う人」であった。

 

 スティーグは一九五四年八月十五日に生まれた。「ミレニアム三部作」では、スウェーデン北方の、スウェーデン人でも名前を知らないような土地が、舞台になっている。その場所こそ、スティーグが生まれ、子供時代を過ごした場所なのだ。スティーグの生まれた後、両親はウメオの町に移り、彼は田舎に住む祖父母に育てられた。電気も、ガスも、水道もない丸太造りの家で、彼は九歳まで過ごした。そのとき見聞きしたことの多くを、彼は後に小説の中で使っている。厳しい自然環境の中での生活であったが、スティーグは田舎での祖父母との生活を楽しんでいたようである。

一九六二年に祖父が亡くなり、祖母独りでは生活を維持できなくなる。スティーグはウメオに住む両親の元に引き取られる。彼は町での生活になかなか馴染めなかった。その頃、彼は名前をStigからStiegに変えた。

「同姓同名の人間がウメオにもうひとりいて、間違えられることが多かった。」

という理由をスティーグは語っていた。十七歳のとき、スティーグは両親の住むアパートの地下室を借りて、独り暮らしを始める。彼は、運動が嫌いで、煙草も吸い、自分の身体に気を使わない性格であった。その性格が、後年彼の死を早めることになったのかも知れない。

スティーグと私は、一度だけ、彼が祖父母と住んだ家を訪れたことがある。スティーグはその家を見て、懐かしさに襲われ、その家を買いたいとまで言い出した。しかし、そこは当時私たちが住んでいたストックホルムから千キロ近く離れており、それは土台無理な話であった。後年、スティーグが、ホリデーハウスを建てようと計画したとき、私は、どの家を、彼の祖父母の家とできるだけ同じように設計した。

 

「ミレニアム三部作」に登場する女性には、リズベト・サランダーの母や、イザベラ・ヴェンガーのように、母親としての役割を果たさない女性が多い。スティーグも私も、祖父母に育てられ、母親の愛情を感じないで育ったという共通点がある。それが、作品に登場する女性にも影響を与えていると思う。私は、一九五三年にウメオから百キロほど離れたレヴォンガーという土地で十三人兄弟の一番上として生まれた。祖父母は農業をしていた。父はジャーナリストを志していた。母は都会的な生活を好み、農家の生活が性に合わなくて去っていった。私はその後、数回しか母と会っていない。

スティーグと私の祖母は馬が合い、また私とスティーグの母のヴィヴィアンも良い関係だった。スティーグと母親の関係は、母子というよりは、友人のようなものであった。ふたりとも使命感が強く、そのためには労を惜しまないという共通点があった。スティーグの母は、政治的な活動にも手を染めた。スティーグと彼の兄弟の関係は疎遠であった。

 

私がスティーグに初めて出会ったのは、一九七二年、高校生のときだった。私と妹は、スティーグの通っていた学校であった、ベトナム戦争に反対する集会に出た。それを主催していた共産主義者のグループのひとりがスティーグだった。他の共産主義者たちは、毛沢東の信奉者であったが、スティーグだけは少し違っていた。彼はトロツキー(1)に影響を受けていた。彼に影響を受けた私は、政治活動を始め、同時に私たちは付き合い始めた。

私は、彼に書くことを勧め、彼もそれ受けてジャーナリストを志すようになった。私は、ウメオの大学に入学した。スティーグも一応大学の入学資格は取ったが、実際には大学には行かず、もっぱら政治活動に精を出していた。彼は共産主義では、体制にそぐわない人間が、歴史から抹殺されることを知った。「体制に合わない者の抹殺」が、「ミレニアム」の中でひとつのテーマとなっている。ともかく、彼は私にとって「恋人」と言うよりも、「魂の友」と呼べるような存在だった。

 

一九七二年、二十二歳でスティーグは突然アフリカに旅立った。その目的を彼ははっきりとは言わなかったが、トロツキーの結成した「第四インターナショナル」のミッションで、紛争中のエチオピアに向かったと思われる。数ヶ月のアフリカ滞在の間、彼は女性で構成された軍隊組織の訓練などもやっていたようだ。スティーグはアフリカでマラリアを患い、生死の境を彷徨う。何とか快復してスウェーデンの土地を再び踏むことができたが、そのときに初めて、生命の大切さと私の存在の大切さに気付き、スウェーデンに帰ったら、私と一緒に住む決意をしたようである。

 

私は色々とやってみたが、最終的に建築家としての勉強をすることにして、一九七七年ストックホルムにやってきた。スティーグもストックホルムにやってきて、郵便局で働き始める。当時、ストックホルムの住宅事情は最悪、私たちは本来一人しか住むことの許されない学生寮に三人で住んでいた。もうひとりの住人の精神科医を目指す男が、「ミレニアム」の中に登場する、精神科医テレボリアンのモデルとなっている。一九七九年、私たちはストックホルム郊外のリンケビーにアパートを見つけて引っ越した。そこは、実に様々な国からの移民の住む街であった。私たちはそこで、色々な人種、文化と知り合った。そのときの経験の多くが、「ミレニアム三部作」の中に登場する、様々な背景を持った登場人物の中に使われている。また、同時に、家庭内暴力に悩む女性たちとも出会ったのもその頃だ。

一九九一年、私たちがストックホルムに移ったとき、周りがスウェーデン人ばかりなので驚いた。私たちはSFに興味を持ち、読むだけではなく、同人誌を作った。また、スティーグは早くからインターネットに興味を持ち、その知識は「サイバー・ワールド」に生きる、サランダーに生かされている。

 

一九七九年、スティーグは、郵便局を辞め、スウェーデンの大手通信社であるTTに就職、結局、そこで二十年間働くことになる。TTで、スティーグの主な任務は、配信されてくる情報を取捨選択し、顧客に流すということだった。彼は、ありとあらゆる情報の中心で、中継基地でもあった。彼は、その頃から、推理小説、特に女性作家の書いた推理小説に興味を持ち始める。同時に、彼は、極右グループ、ネオナチの活動にも興味を持ち始める。これが、彼のライフワークとなり、人生を変えることになる。

何故か「ラーソンは書けない」という奇妙な定評が会社にあり、彼には記事を書くという仕事が回ってこなかった。一九九〇年代に、TTは経営不振に陥り、リストラの結果、スティーグは法務部に回された。そこでも、スティーグは、極右、ネオナチの研究を続け、彼はその分野のスウェーデンでの第一人者となった。一九九九年、彼は経営方針にそれ以上付いていけず、TTを去ることになる。結局、彼はTTで「書く」という仕事はしなかった。後年の彼がベストセラー作家となることを考えれば、奇妙な話である。

 

英国で、人種差別、ユダヤ人排斥、ファシズムに反対する「サーチライト」という雑誌が、一九七五年に発行された。スティーグはこの雑誌に大きな影響を受け、一九八二年、創立者のひとりであるグリーム・アトキンソンを英国に訪れ、その後、スティーグもこの雑誌に寄稿するようになる。スティーグは、スウェーデンでも同じような雑誌を発行しようと計画する。そして、一九九五年、彼は仲間と「エキスポ」という季刊雑誌を立ち上げる。雑誌の基本線は「人種差別に反対する」ということであった。彼は若いライターに自由に書かせる場を与えた。当時、スティーグは、TTでの正規の仕事の他に、エキスポの編集、サーチライトへの執筆、本の執筆と超多忙で、私たちはほとんど顔を合わせる暇がなかった。私は当時真剣に彼と別れることも考えた。

「エキスポ」が集中的に取り上げた、極右、ネオナチ勢力からの脅迫、嫌がらせが激しくなる。「エキスポ」の編集局は、反対者からの襲撃から逃れるために何度も場所を変えた。「エキスポ」は何度も経営危機を迎えるが、大手新聞社が、言論の自由を守るキャンペーンの一環として協力してくれたりして、何とか危機を乗り越える。

「ミレニアム三部作」に、反対派や当局の圧力に屈せず、出版を引き受ける出版者が登場するが、あれにはモデルがある。出版者であるヤン・ケビンは、極右グループの執拗な妨害にもめげず、「エキスポ」の印刷、配本に協力をしてくれた。「エキスポ」は一九九七年まで生き延びるが、そこで行き詰る。しかし、二〇〇三年、新たなスポンサーを得て、復刊された。いずれにせよ、エキスポの編集局の雰囲気は、まさに雑誌「ミレニアム」の編集局のそれであった。

 

スティーグは、「サーチライト」に寄稿を始めた頃から、極右、ネオナチのメンバーから目を付けられ始める。一九九一年、かれは「右翼の過激主義」という本を、アナ・レナ・ロレニウスと共著で出版する。そこでは、極右、ネオナチの組織、彼らの犯罪が暴露されていた。これにより、スティーグは、極右、ネオナチから、敵として本格的に狙われ始める。彼が、表で待ち構えているネオナチを避けるために、裏口から密かに逃れたことも一度や二度ではなかった。私たちは、アパートに厳重な鍵を取り付けた。この鍵にまつわる逸話が、「ミレニアム」の中で、サランダーのアパートのエピソードの中に取り入れられている。彼は何度も、警察にも保護を求めた。当時、ふたりは本当に殺されるのではないかと心配していた。事実一九九〇年代だけで、何十人もがネオナチに政治的な理由で暗殺され、その中にはジャーナリストも含まれていた。

私が彼と正式に結婚しなかったこと、子供を作らなかったひとつの理由に、私や家族がテロリストの巻き添えにならないようにということがあった。もうひとつの理由に、私はずっと「母に捨てられた」と思っていたので、自分が母親になることを恐れていたのかも知れない。いずれにせよ、これが終ったら、もう少ししたらと思っているうちに、結婚も、出産も、手遅れになってしまった。

 

スティーグは「ミレニアム・シリーズ」を、一九九七年頃から書き始めていたと思う。彼は断片的に書いては、それをつなげていった。「老人が、誕生日に押し花を受け取る」話を、二〇〇二年の休暇中に書いていたのを覚えている。スティーグは執筆の際、余りコンピューターは使わなかった。彼は二〇〇二年から二年間で、二千ページに上る文章を書いた。彼は、文字通り「寝る暇も惜しんで」小説を書いた。それは、ストレスから逃れるための一種のセラピーであるとも言えた。

 

スティーグは、インターネットも、他のメディアと同じように法律が適応されるべきだと主張していた。ウェッブサイトが、極右、ネオナチ、人種差別主義者などのキャンペーンの媒体として使われていることを強く感じていたからだ。彼は国連の外部機関であるOSCEOrganization for Security and Co-operation in Europe)に出向き、その必要性を説いている。スティーグは自分のジャーナリストとしての信条、倫理観を、ミカエル・ブロムクヴィストに代弁させている。

ブロムクヴィストは、ハリエットの事件を記事にすれば雑誌が売れるのが分かっていても、倫理観を重んじてそれをしなかった。ブロムクヴィストは、自分の書いた記事が名誉毀損で訴えられ、記事の根拠が希薄であるという理由で有罪となり、服役する。それはまさにスティーグのやり方であった。スティーグは実に厳密にニュースソースの信頼性のチェックを行い、同時にソースの守秘に精力を傾けた。

 

「ミレニアム三部作」は男性に暴力を振るわれた女性の物語である。スティーグはかつて私に、高校生のころの話をした。ひとりの女生徒がキャンプ場でレイプされた。スティーグは誰がやったかを知っていたが、名乗り出なかった。良心の痛みに苛まれた彼は、その女生徒に詫びにいく。しかし、彼女に「あんたも同類だ」と言われ衝撃を受け、自己嫌悪に陥る。この出来事が、彼のフェミニズムの根源にあることは確かだと思う。「ミレニアム三部作」の一冊目のタイトルは「女を憎悪する男たち」というものだった。このタイトルは後ほど改定されている。

スティーグは女性のロック歌手の歌を聴くのが好きで、女生と一緒にいるのが好きだった。それが気にならなかったというと嘘になる。彼は仕事の上でも、女性を男性と同じように扱った。「ミレニアム」の中に、大新聞の編集長になったエリカ・ベルガーが、女性であるが上に、様々な差別や嫌がらせを受けるシーンがある。そして「ミレニアム三部作」の中では、女性が復讐を遂げる。「ミレニアム三部作」の中で、女性が殺されるエピソードが幾つもあるが、それらは全て実際に起こった事件が根本になっている。

 

「ミレニアム」の中で、聖書の文句が登場し、それが事件を解決する重要な手がかりとなっている。スウェーデンは本来、ルター派のプロテスタントの国であるが、特に北部では、厳しい戒律を持った教会が十九世紀の中ごろから支配的であった。スティーグも私も、そのような風土の中に育った。どの家庭にも(おそらく共産主義者の家にも)聖書があり、その聖書を読むことが推奨されていた。厳しい風土の中で、隣人愛を説く新約聖書より、厳しい神の存在する旧約聖書の方が好んで読まれ、スティーグもその聖書を「ミレニアム三部作」の題材として使っている。

 

スティーグは、穏やかな男性だったが、「やられればやり返す」という意味で、別の性格を持っていた。彼は、他人から不合理な仕打ちを受けると、どれだけかかってもその復讐、報復をした。彼は「復讐をすることは権利ではなく、義務である」とまで言っていた。また、彼は同時に高い道徳観、倫理観、モラルを持っていた。そして、それらは法律に勝ると考えていた。つまり、高い倫理観を持って行動するとき、法律を破ることも厭わないということである。「ミレニアム三部作」の中で、ブロムクヴィストはサランダーを担当する医師に、彼女を助けるために法律に反するような協力を求める。スティーグは、自分の小説のなかに彼の倫理観を実現しようとしたのだ。

 

「ミレニアム三部作」の中に登場するエリカ・ベルガーの夫は建築家である。スティーグは彼に、同じく建築家である私の考えを代弁させている。私は、ストックホルムの都市計画に関わり、数多くの建築物を残したペール・オロフ・ハルマンの研究をし、彼の作品についての本も書いた。私は、スティーグにハルマンの設計した建物を見せた。スティーグは、その中で登場人物のキャラクターに合った場所を探し出し、そこを小説の中に登場させている。ブロムクヴィストの住むアパートだけは、よい「物件」が実際には見つからず、架空のもになった。サランダーがグレナダから帰って住む、高級マンションは、私が仕事の中で見つけた物件だ。サランダーは有り余る金を持っていることになっているので、最高級のアパートをあてがった。

登場人物の多くは、ストックホルムの中心、ズーダーマルムに住んでいることになっている。そこは文化の中心であるからだ。小説に登場する喫茶店も、実在し、私たちがよく利用したものだ。ブロムクヴィストが、執筆のために訪れるサンドハムの小さな別荘は、私たちいつもが借りていたものだ。

 

「ミレニアム三部作」の登場人物には、そのモデルがいる場合が多い。まず、ブロムクヴィストがスティーグ自身なのか、彼の分身なのかということが問題になる。答えは否。私は、ふたりの共通点は、ジャーナリストであり、カフェイン中毒であることくらいだろうと思う。ブロムクヴィストは人気のあるオールラウンドなジャーナリストであるが、スティーグはその範疇には当てはまらない。

では、リズベト・サランダーは、スティーグの女性的な面の分身であろうか。サランダーは、「写真のような」記憶力を持ち、コンピューターのハッカーであり、スーパーヒーローにあこがれている。確かに、スティーグも抜群の記憶力を持っていた。しかし、スティーグ自身は、サランダーのモデルをひとり挙げるとすれば、それは「長靴下のピッピ」だという。ピッピは何者も恐れない奔放な性格の娘である。リズベト・サランダーという名の女性はスウェーデンにひとりだけ実在し、小説がベストセラーになってから、取材の電話が続出し、悲鳴を上げたそうだ。

雑誌「ミレニアム」編集長のエリカ・ベルガーは、完全に架空の女性、アニタ・ヴェンガーは、私の妹ブリットがモデルになっている。ボクサーのパオロ・ロベルトが登場し、大活躍をするが、スティーグ自身がロベルトに会ったことはない。スティーグは、ロベルトの出演する料理番組を見て、その飾り気のない性格に惚れ込み、小説の中に登場させたという。登場する医師の中には、スティーグの知り合いである実在の人物もいる。何人かは、自分の名前消すか、別の名前に変えるように要求してきた。また、小説の中に登場する冤罪事件の被害者等も、実在するものである。

 

二作目の冒頭で、サランダーはカリブ海に浮かぶ島、グレナダに滞在している。一九八一年、スティーグと私は、当時、政治的な記事を書くために共産主義者の支配するこの島に滞在した。スティーグと私にとっては大変良い思い出である。しかし、島は一九八三年、米国の侵攻を受け、共産主義政権は倒れ、親米国政権が樹立された。それは、私たちにとってショックで残念なことだった。

 

ブロムクヴィストは、ヨットやボートで色々な場所へ出かけ、船の上で色々な人から、色々なアイデアを得る。実際、スウェーデン人と船は切り離せない。私たちも、ある時期自分たちのボートを持っていた他、ヨットやボートを借りて、スウェーデンの海岸を旅した。ブロムクヴィストが妻や娘とクリスマスに会う場所、ブロムクヴィストがボートでの旅の途中旧友と出会い、実業家のヴェナストレームの汚職についての情報を得る場所は、私たちとって馴染みに深い場所であった。

 

一九九〇年代、不況がスウェーデンを襲い、特に金融業と建築業が影響を受けた。建築業界で働いていた私も仕事を失い、経済的に困窮していた時代だった。直前にローンを組んでアパートを買っていたが、貯金のお陰で何とか不動産を手放さないで済んだ。その後、政府は、住宅開発事業の立て直しを図り、私も一九九六年に、住宅開発のプロジェクトに雇われるようになった。しかし、その頃、建築業界のカルテルが発覚、政府の人間もそれに絡んでいることが分かった。スティーグと私は記事を書いて、官民を含めた汚職を告発しようとした。

 

二〇〇三年、スティーグは、小説を出版することを決意、興味を示した出版社に原稿を送った。しかし、原稿はそのまま返されてきたどころか、封筒を開いた形跡もなかった。スティーグは失望したが、他の出版社を探し、最終的にノルステッズ社が出版を引き受けることになった。契約を交わした後のスティーグの生活は一変した。考えがぐっとポジティブになった。スティーグと私は、金が入ったらまず借金を返し、「エキスポ」の経営基盤を建て直し、海辺に小さなコテッジを建てて・・・と色々計画を立てた。これまでの人生の中で一番楽しい時だった。しかし、私はスティーグが極端に疲れていることに気付いた。スティーグは死ぬ年の八月、結婚を口に出した。

 

二〇〇四年十一月八日の午後、私は出張のため、ストックホルムを離れて、ファルンに向かった。夜、スティーグに電話をしたが、特に変わったことはなかった。しかし、翌朝、私はエキスポの同僚からスティーグが倒れて病院に運ばれたことを電話で知らされた。私は、その日のうちに電車でストックホルムに戻ることにした。私は夕方にストックホルムに着き、急いで病院に向かった。午後四時二十二分にスティーグは心臓麻痺で亡くなっていた。大勢の人々が知らせを聞いて集まって来るのを見て、私はスティーグが皆から愛されていたことを改めて知った。私は、やはり知らせを聞いてウメオから駆けつけたスティーグの父親と共に、スティーグの遺体に面会した。

「エキスポ」は残された人々で運営されていくことになった。私だけではなく、エキスポのメンバーも指導者を失い、大きなショックを受けていた。私は、メンバー全員に一度カウンセリングを受けるように勧めた。私は自分を守るためだろうか、動物的になり、本能に従って生きるようになった。独りでいるのが怖くなり、食欲も落ちた。しかし、スティーグの本の出版準備が進むにつれ、スティーグが本の中に行き続けると思えるようになった。

二〇〇四年十二月十日、スティーグの埋葬が行われた。極右団体の妨害を恐れた警察が警戒に当たった。埋葬の後で、「お別れの会」が行われ、各国から集まった十八人の人々が演壇に立った。その数日前、私はスティーグの遺品の中に、「僕が死んだら開けるように」と書かれた封筒を発見した。それは、スティーグが二十二歳のとき、アフリカに出かける前に、自分が死ぬことを予想して、私に宛てて書いた手紙だった。私は、お別れの会で、その手紙を読み上げた。彼の死後、私と彼の父と兄との関係は疎遠になった。

 

サランダーは、過去の記憶を焼付け、憎しみと復讐心を失わないため身体中に刺青を施した。スティーグの死後、私も、何らかの復讐をしなければたまらないような気になっていた。これまでスティーグは、彼の能力に気付かない人々、気付いてもそれを無視しようとする人々によって、不当な仕打ちを受け、ストレスに晒されていた。特にTTでは彼の能力は無視され、TTを去ってから、エキスポでは経済的に行き詰まり、絶えず、多方面からストレスを受けていた。私はスティーグにひどい仕打ちをした人々に復讐を企てた。私は、神秘主義に走り、北欧に昔から伝わる儀式で、スティーグの敵に、復讐の鉄槌が落ちることを祈った。少なくとも、これは私自身をストレスから解放するセラピーとなった 

 

スティーグの死後、私は出版社のノルステッズと話をする。その結果は、スティーグから私が聞いていたものと大きく違っていた。私と共同で会社を立ち上げ、その会社が契約主になるという話や、スウェーデン国内で出版されるという話を、出版社は否定する。彼らはスティーグの死後、版権は自分たちあり、小説は、まずノルウェーとオランダで出版されることになると言う。私は、人の良いスティーグが、出版社に良いように扱われていたことを知る。そして、正式に結婚していない私には、法律に何の権限もないことを知る。

 また、スティーグの父と兄が、スティーグの知的財産や、私たちのアパートまで、全ての遺産を相続する権利を主張していることを知る。私は、ショックでうつ状態になりながらも、弁護士に依頼し、自分の住む場所の確保と、スティーグの遺志ができるだけ尊重されるように努力をした。

その間に、スティーグの本は出版され、映像化の話も持ち上がった。しかし、交渉権や、利益は、全て出版社と、スティーグの父と兄に行ってしまった。スティーグの書きかけていた、四冊目のストーリーの存在が明らかになり、出版社が躍起になって、それを探し始めた。私の元にも、四冊目のストーリーの原稿を提供することを条件に、色々な働きかけが届いた。私も、「エキスポ」も、そのストーリーの原稿が入っているであろうコンピューターの存在を「知らない」と言い通した。

その後、スディーグの本は、社会現象と呼べるほどブレークし、ありとあらゆるメディアにありとあらゆるスティーグ・ラーソン論が書かれた。しかし、スティーグと私の関係を含め、本当のスティーグの生活を描いたものはなかった。私はまた、正式に結婚していなかったばっかりに、パートナーの死後、不当な仕打ちを受ける女性のための立法の運動に参加した。

 

私は「ミレニアム三部作」は、単なる優れた作家の書いた、優れた推理小説ではないと思っている。この作品は、「相手がどれだけ力を持っていても、自分が正しいと思えば、あきらめずに戦い続ける」というスティーグの考え方を具体化したものだと思っている。また、スティーグの作品が、世界各国で読まれることにより、豊かな福祉国家だと考えられていたスウェーデンの実態が、世界に紹介された意義も大きいと思う。

二〇〇六年ごろになって、マスコミが私の存在に気付き始めた。私は世界各国の色々な人からインタビューを受けた。本に書かれているようなことが、本当にスウェーデンで行われているのか、どうして私はスティーグと正式に結婚しなかったのかということが、誰からも聞かれることだった。また、私とラーソン家との関係も取りざたされるようになった。その結果、ラーソン家からの歩みよりも見られるようになった。彼らは「スティーグ・ラーソン賞」を設定し、私がその選考委員のひとりとなった。最初の受賞者は、雑誌「エキスポ」であった。

 

 

<感想など>

 

スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」が出版され、世界的なベストセラーになった二〇〇五年、彼はもうこの世の人ではなかった。本を読んだ人が、彼についてもっと知りたいと思っても、彼に直接インタビューをすることは、もはや不可能であった。そんな人たちの好奇心を、この本はいくらかでも満たしてくれる。著者のエマ・ガブリエルソンは、正式には結婚していないとは言うものの、三十二年間スティーグのパートナーであり、彼と苦楽を共にしてきた人である。

 

私がこの本を読むことにしたきっかけは、

「仮に『ミレニアム三部作』がベストセラーにならなくても、スティーグ・ラーソンは歴史に名前を残す人物だったのだろうか。」

という興味であった。BBCテレビのインタビューの中で、ラーソンと一緒に雑誌「エキスポ」の編集にあたっていたラッセ・ヴィンクラーは、

「例え作家として成功しなくても、身体を張ってファシズムと戦ったジャーナリストとして名前を残していたはずだ。」

と述べている。筆者のガブリエルソンが描いているが、実際、ラーソンは文字通り「身体を張って」極右、ネオナチ、ファシスト、人種差別主義者と戦った。待ち構えている右翼団体から逃れるために裏口からこっそり抜け出したり、妨害工作を避けるために、「エキスポ」の編集局を常に移動させたり、ガブリエルソンの記述を読む限り、よくラーソンは無事でいられたと思う。ガブリエルソンは、ラーソンと自分が正式に結婚したかった理由、子供を作らなかった理由はで最大のものは、ラーソンが自分に対する極右団体からの嫌がらせが、妻や子供に及ぶことを恐れたらだという。まさにその意味では、例え小説がヒットしなくても、ラーソンはスウェーデンでは一部ではあるが人々の記憶に残る人物であったと結論付けられる。

その証拠に、彼の死後、「お別れの会」に英国の人権擁護の雑誌「サーチライト」の編集者を始め、海外からも多くの出席者があったことでも分かる。ガブリエルソン自身が、彼の死後、余りも多くの人が彼の弔問に訪れ、余りにも多くの人が彼の死にショックを受けていることに驚いたと書いている。

 

次に、スティーグ・ラーソンの性格と、彼の作品の関係について知ることも興味深い。「ミレニアム三部作」は、リズベト・サランダーを虐げた者たちに対する、彼女の復讐の物語であると言える。ラーソンは、「復讐」、「リベンジ」に対して、独特の考えを持っていた。彼は、他人からひどい仕打ちを受けたとき、それに復讐することは「権利」ではなく「義務」であると考えていた。「目には目を、歯には歯を」ということだ。たとえそのときには復讐できなくても、雌伏し、チャンスを待ち、何時かは「復讐」することが、ラーソンの美学であり、子供の頃から、彼はそれを実行していた。

「仕返しはしてはいけません。」

という日本の考え方や(おそらく仏教か儒教から来るのだと思う)

「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出しなさい」(マタイによる福音書第五章)

という新約聖書的な教えとは正反対の、まさに、旧約聖書の「怒れる神」の世界である。意外なことだが、一度は共産主義者であったラーソンだが、聖書への傾倒は深く、「ミレニアム三部作」でも、旧約聖書からの引用が、事件の解決の重要な鍵を握っている。

「ミレニアム三部作」の人気の理由は、何と言っても、リズベト・サランダーの強烈な個性であろう。当然、彼女にはモデルがあるのかと言うことになる。ガブリエルソンは本書の中で、作品に登場する人物と、その実在するモデルについて述べている。ボクサーのパオロ・ロベルトの他に、何人もが実名で登場している。しかし、サランダーと、ミレニアムの編集長であった(後に大新聞の編集長として引き抜かれるが)エリカ・ベルガーだけは、架空の、創作された人物であるという。サランダーのモデルについて、ラーソンが「長靴下のピッピ」であると言っているのは面白い。確かに、サランダーは小柄で胸も小さく(後に豊胸手術をするが)、少女の面影を残した女性として描かれている。童話の主人公と、復讐に燃える女性というギャップが面白い。

 

ガブリエルソンの語りを読んでいて、最後の五十ページ、ラーソンの亡くなってからのエピソードには、少々気が滅入る。「恨み、つらみ」が延々と書き連ねられているからだ。ラーソンの父と兄が、ガブリエルソンをスティーグの遺産の相続から外そうとした。彼女は三十二年間ラーソンと暮らし、実質的は「妻」なのであるが、ラーソン一族は彼女が「内縁」であるということを利用し、「ミレニアム三部作」の版権を主張し、ガブリエルソンの住むアパートの半分まで要求する。この辺り、どこの国でも同じだと思う。遺産の相続を巡り、親族が争いを繰り広げる。

さて、四冊目の本の存在は存在するのだろうか。ラーソンは生前、四冊目を二百ページまで書き、ラップトップ・コンピューターに保存していた。そのラップトップは「エキスポ」の編集局にあるのだが、ジャーナリストのソースの守秘義務のため裁判所の命令により公表できない。ガブリエルソンは、何度も、その四冊目のストーリーを交換条件として持ち出される。この本の中では、四冊目の原稿は発見されたが、ラーソン一族がその出版を拒否したところで終わっている。二〇一四年現在、スティーグの遺した原稿を基に、他の作家が手を加え、出版の準備がされているという。

 

ガブリエルソンの言うように、「ミレニアム三部作」の魅力は、その卓越したストーリー展開に加えて、「権力を持つ者にも、あきらめないで戦っていけ」というラーソンのメッセージであると思われる。そして、それを生涯実行したのがラーソン自身なのである。

正直言って、この本の最後の三十ページほどは楽しめず、読むのが嫌になった。ラーソンの死後、ラーソンの父や兄に騙されたことに対する、「恨み、つらみ」が延々と述べられているからである。しかし、スウェーデンのような人権を重んじる国家で、たとえ法的に結婚していないとはいえ、永年連れ添った「内縁の妻」に対して、社会的にこれほど冷たい仕打ちがなされるとは、ちょっと信じがたかった。他人の愚痴を聞くほど、つまらないものはない。この本自体がガブリエルソンの復讐なのかもと思った。

 

 

<注釈>

 

(1)   

レフ・トロツキー

ロシアの政治家。官僚制に反対し、スターリンと対立し国外追放を受けたあと、亡命先で「第四インターナショナル」を結成した。1940年、亡命先のメキシコで暗殺されている。

 

20148月)

 

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