庭を見ていた午後、無鄰菴

 

東山を借景に、水は疎水を引き込んでいるという。まさに我田引水。

 

金沢から戻った翌日、昼前に、英語の観光ガイドをやっている友人Mさんから、メールで誘いが来た。

「天気も良いので、『Murinan』に行きませんか。」

と英語で書いてある。

「ええっ、『ムリナン』?『マリンアン』?」

僕は、それが日本語であると、にわかに信じ難かった。京都には色々隠れた名所、穴場があるのは知っているが、その名前は一度も聞いたことがなかった。「蹴上」(けあげ)にあるという。

僕は地下鉄で蹴上へ向かい、Mさんに会った。そこで初めて、その場所の名前が漢字で書くと「無鄰菴」であることを知った。難しい字だが、マイクロソフトの漢字変換で、「むりんあん」と打てば一発で引っ張ってくるので、固有名詞として一般に認知されていることになる。「鄰」は「隣」と同じ意味。と言うことは、「隣のない孤立した一軒家」という意味になる。

地下鉄の蹴上駅から歩いて五分、超一流の料亭「瓢亭」の向かいに、ひっそりと無鄰菴はあった。庭園に入る入り口が小さくて低い。屈まないと入れない。それにも意味があるそうだが、Mさんの説明を忘れてしまった。この建物、総理大臣にもなった明治維新の重鎮、山県有朋の別荘として建てられたもの。一八九六年に完成したとのことで、京都の建築としては、比較的歴史が浅い。山県は、山口県と京都に三つの別荘を作ったが、どれも「無鄰菴」と名付けられた。メチャややこしいと思うだが。よっぽどその名前が気に入ってたのね。

中は明るい日本式の庭園だった。庭の真ん中に小川が流れ、背後には、東山が借景になっている。「借景」というのは実に合理的かつ経済的な発想だと思う。いくら大金持ちでも、庭に大きな山までは作れないし、山は買い占められない。そんな場合、後ろの山を、背景として拝借する。誰のものでもあり、誰のものでもない山を、自分の庭の一部として利用してしまうのだ。

「海を見ているのもいいけど、庭を見ているのもいい。」

無鄰菴には和風の建物と、洋館があったが、和風の家には庭に向かった縁側があり、そこに座って庭を眺めることができるのである。僕は、寺などで、三十分以上、ずっと庭を眺めていることがある。庭を見ていると、海を見ているのと同じくらい、「癒し効果」があるように思える。その日も、僕は一時間くらい、庭を眺めていた。最初にも書いたが、樹木がそれほど鬱蒼としていない、太陽光がよく入る明るい庭で、借景の東山が、青い空に美しく映えている。実に良い場所だ。

「京都には、僕が知らないこんな場所が、きっと他にも沢山あるんだ。」

改めて、京都の奥の深さを思い知らされた。

 

庭の楓の枝ぶり、うなってしまうほど素晴らしい。

 

<次へ> <戻る>