石川丈山と星野君の二塁打

 

詩仙堂、建物から庭を望む。ツツジのピンク色、木の緑、白い砂のコントラストが美しい。

 

今回日本へ帰ったら、京都の詩仙堂を訪れようと思っていた。小学生の頃、父母に連れられて一度訪れた。もう四十年以上前である。今日でも、そのときのポジティブな印象が残っているので、今回是非再訪しようと思ったのだ。土曜日の午前中北大路駅からバスに乗る。天気が良くて爽やかな風が吹き渡っている。北大路駅の案内所で、

「詩仙堂へ行くにはどうしたらいいんですか。」

と聞くと、

「『赤乗り場』から『キタハチ』に乗って、『一条寺下り松町』で降りて直ぐです。」

とのこと。「キタハチ?!」、「喜多八、弥二さん喜多さんの喜多さん?」と思ったが「北八」というバスの系統であった。「一条寺下り松」、どこかで聞いたことがある。バスを降りるとそれが分かった。「宮本武蔵決闘の場」と書いてある。「一条寺下り松」は武蔵が吉岡一門と決闘に臨んだ場所だった。白川通りから山に向かって坂を上がっていくと、十分ほどで右側に詩仙堂の入り口が見える。気付かずに通り過ぎてしまうほど、さりげない造りがよい。

庭を望む縁側に座る。枯山水。白い砂と緑の木々、ツツジのピンク色が美しい。「鹿威し(ししおどし)」のコーンという音が静寂を破る。受付でもらった案内書によると、「詩仙堂」とは本来この建物の一部分、三十六詩仙の額のある部屋を指し、この建物全体は「凹凸窠」と呼ばれていたそうである。「でこぼこくつ」と読んでしまいそうだが、「おうとつか」と読むそうだ。戦国の武将、石川丈山が建てた彼自身の隠居場とのこと。丈山は三十年間、この場所に住んだそうだ。

「この繊細な庭と建物、そして詩や文学への造詣。丈山と言う人はきっと繊細な文化人だったんだ。」

と僕は最初想像した。ところがどっこい、丈山は勇猛な武人であったという。大坂夏の陣のとき、徳川家康の配下で、一番乗りして武功を立てた。しかし、家康は犠牲者を最小限に抑えるために、団体戦を命じ、一騎打ち、抜け駆けを禁じていた。その禁を破った丈山は、手柄を立てながら、蟄居を命じられるのである。家康は「結果オーライ」の人ではなかったのである。

案内書に載っているこのエピソードを読んで、僕は小学校の国語の教科書に載っていた「星野君の二塁打」を思い出した。星野君は少年野球の選手、同点、ランナー一塁の場面で、監督さんから送りバントを命じられる。しかし、星野君はとっさの判断で強振、二塁打を放つ。ランナーが帰り、星野君のチームは勝利を収める。彼はヒーローなる。しかし、監督さんは、サインに従わなかった星野君に、次の試合の出場停止を命じる・・・

今となっては「何と日本的な」と思う。欧州なら、選手が独自に状況判断をし、機転で作戦を変更し、しかもそれが成功したとき、褒められこそすれ、罰せられることはないと思う。丈山と家康の話と言い、星野君の話と言い、規律を重んじ、上からの命令を絶対と考える、日本らしいエピソードだと僕は思った。

 

逆に庭から建物を望む。静かで寛げる場所だ。(行楽シーズンはもっと混むのだろうが。)

 

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