「俺は客だ、助けてくれ」

Ich bin ein Kunede, holt mich hier raus

 

「解約?やれるものならやってみな」

Kündige, wenn du es schafst

2012年)

 

トム・ケーニヒ

Tom König

 

 

<はじめに>

 

現代の消費者が、金儲けのことしか頭にない企業によって、どんな目に遭わされているか、恨み辛みの数々をコラムに書いてきたトム・ケーニヒ。この本はその集大成である。日本では「お客様は神様」だが、ヨーロッパでは「お客様は王様」。「王様」はドイツ語では「ケーニヒ」である。本来なら「王様」であるべき人間が語る、ドイツでの「サービス」の実態。

 

 

<ストーリー>

 

第一部:「俺は客だ、助けてくれ」

 

トム・ケーニヒは、家族と共にハンブルクからミュンヘンに越してきた社会学者兼コラムニストである。彼は、引越しと、新しい環境に身を置くことを通じて、ドイツにおける「サービス」がいかなるものか、客がどんな扱いを受けているか、改めて体験する。彼はそれを「ドイツにおけるサービス砂漠」、「サービスの迷路」と名づける。

 電力業界。彼はハンブルクにおける電気の契約を解約しようとした。電気会社はファックスで解約書類を送れという。

「確か大昔にそんなものがあったなあ。」

ファックスはそんな代物になってしまった。どのオフィスでも、何年も前に片付けてしまっている。トム・ケーニヒは、やっとのことでファックス機を探し出し、解約書類を送ろうとする。するとずっと話し中。

 サービスに関していえばドイツでは「東ドイツ時代」から少しも変わっていないとトム・ケーニヒは分析する。その原因として、彼は

  ドイツの企業は売ることだけ考えて、その製品が使われることを考えていない

  ドイツのサービス業で働く人間の給料が安く、モティベーションが極めて低い

  ドイツの企業には基本的に「客は馬鹿だ」という認識がある

の三点を挙げる。

 

 ドイツにおいて、客の最大の義務は「待つことで」である。郵便局で切手を買う行列がなくなったと思ったら、別のところにもっとひどい待ち行列が出来ていた。それは「コールセンター」である。コールセンターへ電話をしても、すぐに通じたためしがない。耳障りな音楽を聴かされながら、何十分も待たされる。それなら、新鮮な空気を吸いながら外で行列している方がまだまし。やっと通じたと思ったら、担当者の間でたらい回し。

「お客様との会話の内容はサービスの向上のために録音されています。」

それに対しトム・ケーニヒは言う。

「嘘をいうな。低賃金でやる気のない従業員がサボらないように監視しているだけだろう。」

 ドイツで「医者へ行く」という言葉は「待つ」と同義語である。何故、医者では予約をしたにも関わらず、あれほど待たされるのか。トム・ケーニヒは、眼科で余りにも長く待たされるので、その理由を尋ねたら、

「今日は急患が多いもので。」

と受付の女性が答えた。彼は考える。

「『眼科での急患』って一体何なのだろう。近くの化学工場が爆発して有毒ガスが大量に流れ出したのなら分かるけれど。」

彼は考える。どうして、医者は一日に来るせいぜい二、三十人の患者をアレンジできないのか。そこには、「専門馬鹿」、「超楽観的」という医者の特性があるとトム・ケーニヒは分析する。外科医は手術ができればよい、それ以外のことは気にしなくて良い、そんな風潮が昔から医者にはある。それに加え、医者の場合は、急患などの「例外」が余りにも多いために、時間をアレンジすることを最初からあきらめてしまっているのかも知れない。それは自分自身にも当てはまると彼は考える。ジャーナリストも医者と同じくらい、「書く」だけで他のことがアレンジできない「専門馬鹿」の集団であると。

 トム・ケーニヒと妻のタニアは、息子のトニーの行く幼稚園をミュンヘンで捜さなければならない。今日も彼は幼稚園の説明会を訪れる。これで十五箇所めくらいだろうか。園長がその幼稚園の教育方針について説明する。もう聞き飽きた話。その幼稚園で、入園を待っている子供は何と約二百人。今はクリスマスの前だが、入園できるかどうかの返事が来るのは復活祭の後になると言う。その間、定期的に入園の意思がある確認書を送付し続けなければならない。皆が二十も、三十もの幼稚園に同時に申し込んでいる。もし、幼稚園が入園の可否が即座に答えられたなら、待ち行列もうんと減るものを。ここでもひたすら待つことが客の使命であるらしい。

 

 デパートで客が服を買うときに寄ってくる店員、「ファッションアドバイザー」というのだそうだが、彼らはトム・ケーニヒにとって、実に胡散臭い人種である。彼はデパートへジャケットを買いに行った。店員が勧めてくるのは、丈の短いものばかり。

「これが今年の流行なんですよ。」

と言う。家に帰った彼が買ってきたジャケットを妻の前で着てみせる。すると、妻は大笑いをする、

「それ、二つか三つ、サイズが小さいんじゃないの。」

結局、そのジャケットは着られることがなく、彼の家の「箪笥の肥やし」になってしまった。トム・ケーニヒが「本当の」ファッションアドバイザーに話を聞くと、デパートの「いわゆる」ファッションアドバイザーにとっては、その服が客に似合おうが似合うまいが、そんなことは関係ないのだそうだ。とにかく、売れ残っている商品を客に売りつけることが、彼らの使命なのである。

 風呂場のシャワーが故障し、トム・ケーニヒはミュンヘンで一番大きいと言われている「DIYショップ」に部品を買いに行った。とにかく広い。駐車場だけで、ウィンブルドンのテニスの全試合が行うことができるだけの広さがある。暖房の効いていない倉庫のような建物を端から端まで歩くだけで、一キロはあろうと思われる。その中から目当ての部品を捜すのは並大抵のことではない。殆ど店員が姿はなく、やっと店員を見つけても極めて無愛想な応対。

「昔は良かった。」

トム・ケーニヒは思う。金物屋に行き、壊れた部品を見せると、金物屋の親爺が同じ部品を、

「はいよ。」

と、持ってきてくれた。彼は諦めて家に戻る。そして、配管業者に電話をして、来てもらうことにする。たとえ何百ユーロかかったとしても、今の世の中、それしかない。

ここで一句、

「宅急便、トラック来るけど、荷物は来ない」

トム・ケーニヒが勤め人であった頃、彼が家に帰ると、

「荷物をお届けにあがりましたがお留守でした。」

というカードがよく郵便受けに入っていた。その場合は、DHLUPSの宅急便の配送センターまで(大抵は武器の携行が必要なほど辺鄙で怪しげな場所にあるのだが)荷物を取りに行かねばならなかった。彼は、自宅で仕事を始め、これでカードを持って配送センターに行く必要はないと思った。しかし、彼がずっと自宅にいても、宅急便が配達される気配は一向になく、カードだけが入っている。彼はその秘密に気がついた。宅急便の配達員は、重い荷物や、エレベーターのないアパートに届いた荷物を、最初から配達する気がなく、カードだけを入れておさらばしているのである。配達員もノルマが決められているか歩合制で働いているの。とてもまともに配達などしてはいられないのだ。しかし、「送料」を払いながら、結局荷物を取りに行かされる客こそ、良い迷惑である。

 人は地下鉄やバスの汚れた席に座って、雑踏の中を移動するより、ベンツに乗り、速やかに静かに移動するためにタクシーを使う。しかし、最近、街で拾うタクシーは古くて汚い。そして、運転手が道を知らない。トム・ケーニヒがタクシーに乗ると、運転手が、

「おまえ、どこ行くか?」

と聞いてくる。ドイツ語さえも知らない。タクシーの運転手が、移民や高齢者など、他の仕事に就くことが難しい人種で占められるようになってから、タクシーは変わった。もちろん、きれいな車、優秀な運転手もいるのだろう。しかし、そんな車は、企業や固定客と契約できるので、空港や駅前で「流し」などする必要などないのだ。

 「たらいまわし」というのが、ドイツでの顧客対応の典型である。ある日、トム・ケーニヒの息子がおもちゃで遊んでいて、置時計のガラスを割ってしまった。トム・ケーニヒが母親から記念にもらった、結構高級な時計である。彼はメーカーにメールを打ち、メーカーは、部品のガラスはあるので修理は可能、送るようにと言ってくる。彼はその時計をメーカーに送るが、何週間もして、時計はそのまま送り返されて来る。どこも壊れていないという。トム・ケーニヒは電話でメーカーに事情を説明する。今度は、専門店に持ち込んで、そこから送れと言ってくる。その通りにしてまた何週間も経つ。やっと送り返されてきた時計、ガラスは入っていたが壊れて動かなくなっていた。

 そんなことに懲りたトム・ケーニヒは、自分のパソコンの部品が壊れたとき、メーカーに頼まないで、インターネットで見つけた名もない業者にコンタクトをする。それが土曜日の夜。日曜日の朝に彼に電話が架かる。電話はその業者からであり、部品は水曜日に配達でき、しかも保障期間中なので無料だという。

「水曜日、無料・・・・そんなことが世の中にあるなんて。」

それを聞いて、余りのショックにトム・ケーニヒは踊り出してしまう。彼の家族は、朝食の途中踊り出した彼を見て、気が触れたのではないかと心配する。

 

 サービス精神の欠如、客をないがしろにするという点で、民間の範となっているのが、警察である。トム・ケーニヒがある朝自宅から車を出そうとすると、他の車が出入り口の前に停まっていて出せない。彼はその車に警告の張り紙をする。しかし、毎朝その車は彼の家の前に停められている。トム・ケーニヒは、仕方なく警察に向かいその状況を訴える。

「分かりました、今、パトカーが出払ってますので、戻り次第伺います。」

という担当警察官の話。しかし、パトカーは現れない。警察も、色々事件を抱えて忙しいのだとトム・ケーニヒは自分を納得させる。数日後、今度はトラックが彼の家の出入り口だけではなく、隣のアパートの緊急自動車の出入り口まで塞いで停まっていた。トム・ケーニヒは、再び警察に向かう。当直の警察官は、

「今、時間がないので後で伺います。」

と言う返事。家に戻ってトム・ケーニヒは警察に電話をする。さきほどの警察官が電話を取る。

「さきほどのトラックの件、片付きましたので、もういいです。運転手を射殺、トラックは私が動かして、火をつけましたので。」

数分後、トム・ケーニヒの家の前には数台のパトカーが停まっていた。さきほど話した警察官がトム・ケーニヒに叫んだ。

「あんた、運転手を射殺したと言ったじゃないか。」

トム・ケーニヒは警察官に言う。

「あんた、時間がないと言ったじゃないか。」

 

 ドイツでは「規則がサービスに優先する」国である。例えば、レストラン。ウェーター、ウェートレスの担当するテーブルが決まっている。これは店が決めた規則である。自分のテーブル担当以外のウェーターに注文しようとすると、

「わたしはそこの担当ではない。」

とあっさり断られてしまう。トム・ケーニヒはある天気の良い日、家族を連れて街に出て、喫茶店の外のテーブルに座り、子供たちのために「コーン」に乗ったアイスクリームを注文した。ウェートレスは、それはできないという。隣では、コーンに乗せたアイスクリームを売っているのに。しかし、それは「お持ち帰り」の人のためのもので、テーブルに座った人には、皿に乗ったアイスクリームしか売れないという。逆に、コーンのアイスクリームを買った人は、テーブルに座れない。何でも、これは持ち帰りをする食品と、店内で食べる食品の間で、付加価値税の税率が違うからだという。

 しかし、変な規則もいっぱいある。トム・ケーニヒが米国のマクドナルドでハンバーガーやフライドポテトを注文したとき、それに付いてくるケチャップは只であった。しかし、ドイツのマクドナルドでは小さなケチャップの袋に、二十セントの金を取られる。一方、コーラはお代わりし放題だし、コーヒーに入れる砂糖も無料である。トム・ケーニヒが調べてみると、砂糖の価格はここ十年で何倍にも値上がりしているが、トマトの価格は反対に下がっているのである。ドイツでは何が無料で何が有料か、その根拠ははっきりしないものが多い。

 規則の適用は、店員や担当者によって異なる。留守の間に配達できなかった小包を、トム・ケーニヒは郵便局に取りに行く。列に並んでやっと窓口に辿り着いたが、窓口の「百一匹わんちゃん」のクルエラに似た女性は、

「会社宛の郵便は、会社からの委任状を持った人にしか渡せません。」

と言う。「トム・ケーニヒ編集社」は彼が仕事の便宜上会社組織にしただけで、社員は彼一人。じゃあこの場で、自分で自分に委任状を書いていいのかと聞くと、会社印がないとダメだという。彼は一度家に戻り、立派な委任状を書き、それを持って郵便局に戻り、また一段と長くなった列に並び、やっと窓口についた。そして、今度の担当者は、彼の委任状を見ることもなく、小包を渡してくれたのであった。

 転居に伴って、彼は郵貯銀行の口座を解約し、民間銀行に口座を持つことになった。彼の友人は、それには二、三週間かかるよと忠告するが、トム・ケーニヒは

「コンピューターの時代にまさかそんなことはないよ。」

と聞き流す。口座の解約期日の前、彼は郵貯銀行に金を下ろしに言った。しかしキャッシュカードは使えない。解約を通告した人には「安全性」のため、カードを使えなくしているという。新しい銀行は既にキャッシュカードを送ってきていたが、それもまだ使えない。翌日、分厚い郵貯銀行から封筒が配達される。そこには、何十枚もの小切手が入っていた。新しい銀行との間にコンピューターの接続がないため、その小切手を使って入金しろとのこと。トム・ケーニヒの妻は数日かけて、その小切手を新しい銀行に持っていく。しかし、その小切手が銀行間で決済されるまで「七日から十日間」、金を下ろすことができないという。友人の言うことは正しかった。

食料品には、そこで使われている原材料が明記され、一見消費者にとって、明確になっているように思われる。しかし、商品の名前は付けたい放題。イチゴが入っていなくても「ストロベリー味ヨーグルト」の名前が付けられる。一番得体の知れないのが「ハーブティー」と呼ばれるものである。「心を落ち着ける」、「愛情を高める」という能書きはすがごい。しかし、そこに何が入っているかは、謎である。トム・ケーニヒはその味から、靴底を削って混ぜたのではないかと疑う。

 

 トム・ケーニヒの伯父が亡くなった。彼が、その伯父の後始末をすることになる。昔気質の伯父だが、何故か携帯電話は持っていた。トム・ケーニヒは、死亡診断書を携帯の会社に送り、解約を依頼する。しかし、その後も請求書、督促状が毎月送られてくる。不思議なことに、請求書には伯父が亡くなったあとも通話の記録がある。携帯電話会社には一種の「不死の世界」があるらしい。仕方なくトム・ケーニヒは伯父の住所変更をする。「OO教会内、墓地XX番地」へと。伯父が死んでから一年経ち、トム・ケーニヒの妹が、伯父の家を継ぐことになった。電気会社に名義の変更を依頼すると、「前の契約者のサイン」と「前の契約者による電気のメーターの読み取りの際の立ち合い」を要求してくる。ここでも「不死の世界」が存在したのだ。

 トム・ケーニヒがインターネットのプロバイダー「Tモーバイル」と契約したとき、その会社の社員が、サービスの最新情報をSMSで流すという。翌日から、トム・ケーニヒの携帯に、

「お客様のご注文品は間もなく発送されます。」

「お客様のご注文品は本日配達業者に渡されました。」

等のメッセージが入ってくる。しかし、注文したルーターはいつまで経っても届かない。数週間後やっとルーターが届く。その間トム・ケーニヒは毎日意味不明のメッセージを受け取っていた。その後、

「お客様のご注文は本日受け取り処理いたします。」

というメッセージ。もちろん、コンピューターが勝手にメッセージを送っているのだが、「Tモーバイル」での時間の流れは、相対性理論などの通用しない、独特のものであるらしい。

 

 空港で飛行機を待っている。掲示板に「新しい出発時刻になります」と表示されます。そしてアナウンスが入る。

OO便は予定の出発時刻よりも遅れます。皆様の『ご理解』をお願いいたします。」

「どうして、『謝罪』ではなく『理解』なのか。遅れるのは、天気や管制塔の責任であって、自分の責任ではないというのか。」

トム・ケーニヒは考える。もし、誰かが上司に、

「こんなミスを犯しました。でも、謝りません。その代わりに部長のご理解をお願いします。」

なんて言ったら、まず即刻クビになるところだ。航空会社だけに通用する、奇妙な論理、奇妙なドイツ語である。

 トム・ケーニヒは「電話アンケート」を度々受けるようになった。

「先日は弊社をご利用いただきありがとうございました。つきましては、私どものサービスに対して、お客様のご意見をお聞きしたいのですが。」

そこで私が、サービスに対して苦情を言おうとすると、電話の主はそれを遮り、

「これから伺う質問に、一から五まででお答えください。」

と言う。社会学者として、トム・ケーニヒはそんなアンケートが意味のないことを知っている。「イエス・ノー」で答えろと言われたら、大多数の人は自動的に「イエス」と答え、「一から五まで」で答えろと言われると大多数の人は自動的に「三」と答えるのである。電話アンケートはする者にとっても、答えるものにとっても、単に無駄な時間を使っているにすぎない。

 スーパーマーケット。買い物を入れるトロリーはどんどん大きくなり、棚と棚の間隔はどんどん狭くなってきている。

「トロリーは大きければ大きいほど、『まだ十分に買っていない』という心理を客に与え、売り上げの増加につながる。」

「棚と棚の間隔は狭いほど、客がゆっくり歩くので、売り上げの増加につながる。」

誰かがそんな説を唱えたのだろう。しかし、狭い場所で、大きなトロリーを押さなければいけない客はたまったものではない。トム・ケーニヒは今日もラビオリの缶詰の山をひっくり返してしまった。

 トム・ケーニヒは最近とみに、アマゾンなどのEコマースを利用するようになってきた。彼はアマゾンが、本や電化製品の専門店を駆逐してしまったことを知っており、そんなアマゾンを利用することに心から賛成しているわけではない。しかし、そうせざるを得ない一面があるのだ。彼は、冬のジャケットを買いにミュンヘンの街のスポーツ店へ行く。店員の対応も良いし、お気に入りのモデルも見つかった。しかし気に入った色がない。スマートホーンで調べると、そのモデルには黒と灰色もあるという。店員にそれを言ったが、店には置いていないという返事。彼は家に戻り、インターネットで同じモデルの灰色のジャケットを注文する。そして翌日は届いたそのジャケットを着て、休暇に向かう。

 ユナイテッド航空に乗った歌手のデイブ・キャロルは飛行機を乗り換える時、荷物係が自分のギターケースを投げて遊んでいるのに気付く。キャビンアテンダントに言うが誰も取り合わない。案の定ギターは壊れていた。損害賠償を請求してもたらいまわし。埒が明かない。彼は「ユナイテッドが俺のギターを壊した」という曲を作り、ユーチューブに載せる。その歌は人気を博し、ユナイテッド航空は大きなイメージダウンを被る。この出来事を、トム・ケーニヒは、これまで沈黙せざるを得なかった客の「逆襲の始まり」であると位置づける。

ツイッター、フェースブックなどのソーシャルメディアを通じて、客が企業に対する発言をする機会は増えてきた。またEメールで、客が企業の上層部に直接苦情を言う機会もできた。企業も、それに気づき、ソーシャルメディア対策や、お客の満足度の維持に、それなりの対応を払うようなってきた。

「ソーシャルメディアは色々問題もあるが、少なくともソーシャルメディアは客の大きな味方となった。」

トム・ケーニヒは位置付ける。

 

第二部:「解約?やれるものならやってみな」

 

トム・ケーニヒとは誰か。本名はトム・ヒレンブラント。シュピーゲル・オンラインの「待ち行列」というコラムに文章を書くコラムニストである。この十年間、ドイツの消費者の受けているサービスについてのコラムを書いている。トム・ヒレンブラントとトム・ケーニヒは、ミュンヘンに住んでいる、結婚している等の共通点はある。しかし、トム・ケーニヒは架空の人物である。しかし、トム・ケーニヒが描くドイツの消費者とサービスの実態は、作者が直接経験した、あるいは第三者が経験したという違いはあるものの、全て事実である。

 

「失われた時を求めて」という小説があるが、ドイツの客、消費者は、一体何百時間、ひどいサービスのために「時を失って」いるのであろう。その最たるものが「コールセンター」である。ひどい音楽を聞かせられながら、延々と待たされ続ける。

「只今、電話が混み合っております。」

「『コールエージェント』が空き次第、次におつなぎいたします。」

嘘ばかり。何時に電話をしようが常に待たすくせに。

トム・ケーニヒは、電力会社を替えた。そこへ電話をすると、

「只今、皆様からの契約が殺到しておりますので、処理には十日かかります。」

との返事。これもまともに信じてはいけない。その会社は何日も待たした挙句、破たんした。要するに、事務処理、コールセンターに金をかけられない企業は、金がないのである。

「お客様とのお話の内容は、サービスの改善のために録音させていただいております。」

「嘘をつけ。」

とトム・ケーニヒは言う。低賃金でやる気のない従業員がサボらないか、監視をしているということなのだ。

しかし、このコールセンターのひたすら長い待ち時間は、実際、電話会社と企業が結託をして金儲けをする手段だったのである。待っている間、つまりひどい音楽を聞かされている間も、電話をした客は電話料金を電話会社に徴収されていたのだ。そして、電話会社はキックバックとして、その一部を企業に払っていた。つまり、待ち時間が長ければ長いほど、電話会社も企業も儲かるという仕組みだった。最近になって、やっと法律が改正され、企業は顧客を待たしている時間、顧客に電話料金を請求してはいけないことになった。それで、事態は改善されるであろうか。答え否であるとトム・ケーニヒは明言する。企業は、コンピューターによる仕組みで、客が待っている間、つまらない質問を繰り返し、結局は金を取ることが可能なのである。

統計によると、予定の時間より三十分以上待たされると顧客は不満を感じ、その会社にはもう注文しない。それで、決して遅れないように、企業はとんでもない配達時間を指定する。DPDは配達時間を「午前八時から午後六時の間」に指定。これでは遅れようがない。その間、ずっと待っていなければいけない客の都合などお構いなしである。

トム・ケーニヒは薬局に行く。どんな理由で行っても、薬局の店員は「亜鉛」が身体に良いと言って勧める。医学的な根拠は何もない。単に、流行なのか、それとも製薬会社の倉庫に「亜鉛」が山のように売れ残っていてそれをさばくためか。相手の体調、体質などお構いなしに、自動的に薬を勧めているのである。

ドイツには「煙突掃除人」という職業がある。実際に煙突を掃除することもあるのだろうが、ほとんどは、ボイラーの排煙装置の定期点検をするのが仕事である。これが地域による独占で、客は自由に業者を選ぶことができない。トム・ケーニヒの家にも、その地域の「煙突掃除人」がやってきた。約束の時間から大幅に遅れて。その男がやったことは、市販の検査機器による、あまり意味のあるようには思えない十分ほどの検査。自分でやっても同じではないかとトム・ケーニヒは思う。それで六十ユーロが請求される。そもそも、ハイテクのガスボイラーの煙突を、毎年検査する必要があるのだろうか。古い時代の利権がそのまま保存されているとしか思えない。幸い二〇一三年に、この地域独占制度は廃止された。

トム・ケーニヒの義理の母は、銀行から自分担当の「アセットマネージャー」が来ると言って、一端の金持ちになった気分で喜んでいる。その男はやってきた。量販店の背広を着て、腕には安物のプラスチックの時計をはめている。そして、その「アセットマネージャー」は、投機的な金融商品ばかり勧めてくる。

「この人、大丈夫なのかしら。」

最初は喜んでいた母親も心配を始める。「大丈夫ではない」ことをトム・ケーニヒは知っている。優秀なアドバイザーはとっくの昔に有料で働いている。トム・ケーニヒは何度かアドバイザーと話すうちに、彼らの言葉の裏にある魂胆が見えるようになった。本当に儲かる話を只で他人にするわけはないのである。要するに、彼らはノルマとして課せられた金融商品のセールスをしているだけなのだ。客が儲かろうが損をしようが、興味はないのである。

「只のものから期待できるのはゼロ。」

それがトム・ケーニヒのモットーである。

トム・ケーニヒはギックリ腰で整形外科へ行く。そこで、待ち時間、診察時間、治療方法に関して、健康保険の患者とプライベートの患者への扱いが全く違うのに気づく。

MRIをやりましょう、マッサージを手配しておきますね。」

というのがプライベートの患者への対応。

「鎮痛剤でも飲んでおいてください。」

というのが健康保険の患者への対応。トム・ケーニヒは、「金を払っている者にはより良いサービスをする」、そのことは経済原理として受け入れている。それは航空会社のビジネスクラスとエコノミークラスの違いでも分かる。しかし医者がそれを大っぴらにしないところに問題があると彼は考える。

「陰でコソコソやるなよな。」

と彼は思う。

トム・ケーニヒは金について学ばせるために、小学生の娘の銀行口座を作り、ピンク色の豚の貯金箱を彼女に買ってやる。その豚の貯金箱が一杯になり、彼は娘と一緒にそれを持って銀行へ行く。小銭ばかりだというと、銀行の窓口の女性は露骨に嫌な顔をする。そして、小銭の自動選別機がこの支店にはなく、フランクフルトの本店に送るので、入金には二、三週間かかると言った。儲からない仕事はやりませんという、嫌がらせとも言える態度。その金でおもちゃを買おうと思っていた娘は失望する。

トム・ケーニヒはハンブルク・アルトナ駅で、ミュンヘン行きのICE(特急列車)を待っている。列車はやって来ない。掲示板には「遅延」と表示されているだけで、発車予定時刻は出ない。

「きっと運転手が寝坊したんでしょうね。」

と彼は隣で待っている男に冗談を言う。

「私が運転手だ。」

とその男は言った。列車は車庫から別の運転手によって、始発駅まで回送される途中だが、今列車がどこにいるのか誰にも分からないという。つまり、回送する係と実際に運転する係には、何の連携もないのだ。

トム・ケーニヒは特急列車の軽食堂車(ビストロカフェ)へ行く。そこでラップトップ・パソコンを使おうとすると、従業員が、軽食堂車でラップトップを使うことは禁止されているという。トム・ケーニヒはその理由を尋ねるが、従業員は答えられない。トム・ケーニヒはドイツ国鉄のツイッターで、そのことを話題にする。

「キーボードを叩く音が他のお客様のご迷惑になりますので。」

するとこんな返事がドイツ国鉄によって書き込まれた。

「じゃあ新聞をめくるカサカサいう音はどうなるんだ、食器のカタカタいう音はどうなるんだ。」

というような意見がドンドン書き込まれ、最後は、

「そんな規則はありません。」

とドイツ国鉄は認めた。こんなとき、ツイッターは、消費者の味方になってくれる。

家族と大きな荷物を持って休暇に出かけたトム・ケーニヒは、ドイツの主要駅に、荷物を運ぶトロリーがないことに気づいた。何故ないのかと駅員に尋ねると、皆盗まれたという。確かに金属製のトロリーはスクラップにすれば売れるのだろう。しかし、何故新しいトロリーを買わないのか。

「トロリーが皆盗まれましたので、買い物は自分で運んでください。」

とスーパーマーケットが言い出したらどうなるのか。彼がまた、ツイッターで問い合わせると、

「最近はキャスター付きのトランクが多いから需要がない。」

という返事。

「嘘をつけ。」

と彼は思う。どうして空港ではあれだけ沢山のトロリーが用意され、皆が使っているのか。ようするに、国鉄はやる気がないだけなのだ。

オンラインバンキングやインターネットバンキングの発達の裏で、それらを利用しての不正取引も増えた。トム・ケーニヒも小額であるがその被害にある。しかし、基本的に銀行は責任を取ろうとしない。ある期間が過ぎたらアピールもできないのだ。ある会社との取引が終ったら、法律上では、会社は個人情報を消さなくてはならない。しかし、銀行やその他の口座を解約してもデータが消されないことをトム・ケーニヒは経験する。特に「イーベイ」と結託したペイパルはひどい。

 

トム・ケーニヒの息子がチョコレートのかかったコーンフレークを食べている。いかにも甘そうである。最近では、加工食品に含まれている砂糖や食塩の量と、その量が一日の必要量の何パーセントに当たるかがパッケージに明記されている。しかし、それはあくまで成人に対するものである。トム・ケーニヒは、子供向けの食品に含まれる砂糖の量が、子供の一日の必要量に対して何パーセントになるのか、メーカーに問い合わせる。しかし、どのメーカーも明確な返答を避けてくる。不思議に思ったトム・ケーニヒは、独自に計算をしてみる。メーカーが答えたくないのもそのはず、コーンフレーク一皿には子供の一日の必要量とほぼ同僚の砂糖が入っていたのだった。

ヨーグルト、アイスクリーム、プリン、それらにバニラの香りは欠かせない。しかし、天然のバニラの産出量は非常に小さい。大部分は、木材からパルプを作ったカスから人工的に作られたバニリンが使われている。どちらを使っているのかは明確に表示されておらず、パッケージには単に「香料」としか書いていないことが多い。トム・ケーニヒは、食品メーカーに、バニラとバニリンのどちらを使っているのかを問い合わせる。どのメーカーも「化学薬品」を使っているとはなかなか認めたがらない。

「自然と同じ素材を使っている」

と答えたメーカーもあった。不思議な答えである、世の中には「自然」と「人工」しかない。自然と同じ素材でも、要するに人工は人工なのである。彼の更なる質問に対して、メーカーは最後には「バニリン」を使っていると白状した。

トム・ケーニヒは義理の母親と一緒に寿司屋へ行く。初めて寿司屋に来た母親は、いわゆる「ワサビ」を口に入れて目を白黒させ、涙を流している。しかし、これは単に色を付けた辛子に過ぎない。天然ワサビは、貴重品で高価である。ドイツはちょっとした「ワサビ・ブーム」で「ワサビ味のポテトチップス」なども売られているが、これらには本当のワサビは全く入っていない。しかしなおかつ「ワサビ」と名づけられるところが、ドイツの奇妙なところである。

 

企業から受け取る手紙には二種類ある。ひとつは事務的、官僚的な手紙。やたら法律用語、専門用語を使い、読者に理解の余地を与えない。もうひとつは、馬鹿丁寧だが内容のない手紙。やたら丁寧な言葉が使ってあるが、実際何が書いてあるのか、要点がさっぱり分からない。ドイツの「オットー」という会社は、これらの代表的なビジネスレターの形式を廃止、正直にありのままを書く、という方針を打ち出した。トム・ケーニヒはこの動きが主流になって欲しいと願う。

インターネットの発達により、客が直接企業に対して苦情を言える環境ができた。例えば、その会社の社長の名前を知っていれば、「名前+アット+会社名+ドットコム」で大抵の場合はEメールの宛名が分かる。そこにメールを打てば、直接社長に届くわけである。また、ツイッター、フェースブックなどのソーシャルメディアも、不特定多数にわずかな時間で情報が伝達されるため、企業はその効果を恐れ、大切にし始めた。ツイッターに書き込むとすぐに返事が来る。しかし、トム・ケーニヒはすぐに返事が来ることと、その点が改善されることは別だと言う。答えが来るだけで対応はなされない場合が多いのだ。包装紙は新しくなっても、中身は旧態依然なのだ。

トム・ケーニヒはこれまで、英国製の「クラーク」の靴を愛用してきた。彼の足の形が人よりちょっと変わっているので、その中でも特定のモデルのみを何年にも渡って買い続けていた。靴屋へ行っても、「クラーク」の靴は少ししか置いていない。その中から気に入った靴を見つけるのは結構難しいものだった。トム・ケーニヒは、近くのショッピングモールの中に、「クラークの専門店ができたことを知る。自分の気に入った靴が、ずらりと並んでいることを期待して、彼はその店に行く。そして彼は、失望する。自分の好きなモデルはない。そのモデルについて店員に尋ねても要を得ない。モダンな店なのだが、店員は専門知識に欠け、商品について知らなすぎる。

インターネットを使っていると、あらゆるサイトでパスワードを要求される。最近は、簡単なパスワードを入れると、「弱い」と文句を言ってくる。余計なお世話なのだが。大文字、小文字、数字などを混ぜないといけないという。何を入れても「弱い」と言われるので「TomKoenig」という名前をそのまま入れたら「強い」と褒められた。しかし、一番セキュリティーを厳しくしなくてならない、銀行のキャッシュカードの「パスワード」が何故、簡単な数字四桁なのかと、トム・ケーニヒは不思議に思う。もし、銀行のキャッシュカードの暗証番号がアルファベットのものになったら、月曜日の朝、キャッシュマシーンの前で「アメリカンパイ」の歌詞を思い出すために歌いだす人、義母の結婚する前の苗字を思い出す人等で、大混乱になるだろう。

トム・ケーニヒがこき下ろしてきた「コールセンター」も、最近はその重要性に気づいて改善する企業が現れた。「オットー」いう会社は、新入社員全員にコールセンターを担当させ、顧客のニーズを肌で感じさせるという。

トム・ケーニヒの最大の戦いの相手は、インターネット会社の「アインスツーアインス」であった。最近派手な広告、CMでのし上がってきた会社で、社長は業界の「グル」と呼ばれる人物である。トム・ケーニヒは、この会社との契約を打ち切ろうとする。会社のホームページを見るが、解約の方法が書かれていない。しかし、トム・ケーニヒほどのベテランになると、その秘密を知っている。彼は解約のための隠れたサイトを発見する。そのサイトで、延々とアンケートに答ささせられた末に辿り着いたのは解約のための用紙。それをファックスで送れという。この時代にファックス。何から何まで、単に「いやがらせ」である。何とか友人の事務所でファックス機を捜しだして送る。さあ、これで終ったと思うと、まだ請求書が来る。無視すると、差し押さえをすると言ってくる。この会社、ファックスが着いていないと言い、受信確認を見せるとファックスは着いたが白紙だったという。とにかく、いわくつきの会社らしい。トム・ケーニヒの呪いが通じたのか、この会社の社長は間もなく死亡した。

 

<感想など>

 

「トム・ケーニヒ」というのは筆者のペンネームでもあり、主人公の名前でもある。この「ケーニヒ」というのは「王様」という意味である。日本では「お客様は神様です」と言うが、同じことを英語やドイツ語では「お客様は王様です」という。「ケーニヒ」という名前には、「消費者」、「客」の代表という意味が込められている。そして、その「神様」、「王様」がどんな仕打ちをうけているか、数々の恨みが述べられる。

作者の本名はトム・ヒレンブラントである。彼は十年に渡って、雑誌「シュピーゲル」のインターネット版である「シュピーゲル・オンライン」に「ヴァルテシュライフェ(待ち行列)」というタイトルのコラムを担当した。そのコラムに書かれた記事をまとめたものが、この本である。ヒレンブラントは、第二部の前書きで、コラムに書かれたことは、彼自身が経験したことか、コラムの読者が経験したこと、つまり百パーセント実際に起こったことであると述べている。そして、トム・ケーニヒは彼の分身ではあるが、本人ではないと述べている。

私は常々日本は「サービス大国」であると感じている。「客の身になって行動する」という規範が、これほど強く、これほど自然なものとして浸透している国は他にないであろう。日本から、初めてヨーロッパを訪れた人の感じる最初の「カルチャー・ショック」は、店員や、乗務員から受ける「サービス」のレベルの低さである。

永年ヨーロッパに住んでいる私にとって、この本に描かれるエピソードは馴染み深いものである。それどころか、ここに描かれる殆ど全てのことを体験したと言ってもよい。ここに書かれたことが全て事実であることを、私自身が断言できる。例えば、ドイツのストランで、

「ここは私の受け持ちのテーブルではない。」

とサービスを断られたことなんて、何度あったか分からない。ルフトハンザの飛行機で、キャビンアテンダントに、

「ビールくれない。」

と聞いて、

「今はそのサービスをする時間ではない。」

と断られたことが何度もあった。

ヨーロッパに住んでいて、最初に慣れなければいけないことは、トム・ケーニヒが何度も取り上げるように、「待つ」ということだろう。とにかく、こちらの従業員は、客がどれだけ長い列を作っていても、どれだけ長時間並んでいても、全然慌てないのである。マイペースで仕事を片付けていく。従って、ちょっと込み入ったことを話す人が前にいると、数秒で終る人も、何分も待たされる。また、それをどうにかしようという考えもないのである。しかし、私がずっと感じてきた、ヨーロッパのサービスによるストレスは、ヨーロッパ人も感じていたことなのだ。この本を読んでそれが分かった。やっぱり人間なら誰でも感じることなのだ。

では、客、消費者は企業から自分たちが受けた「理不尽な仕打ち」、「ひどい仕打ち」対して反撃できないのか。これに対して、トム・ケーニヒは、「フェースブック」、「ツイッター」などのソーシャルメディアの発達により、かなり改善はされてきていると言っている。デイブ・キャロルの「ユナイテッドが俺のギターを壊した」を、ユーチューブで見たが、歌もそうだが、画像もなかなか面白い。軽快なメロディーと歌い方が、一段と客の素直な怒りの気持ちを表している。たしかに、ユナイテッド航空にとっては、大きなイメージダウンになっただろう。今では、多くの企業が、ソーシャルメディアの運営やその内容の監視に力を入れている。しかし、いくら新しいメディアを使っても、どれだけ聞いていて気持ちの良いことを言っても、結局は行動に移されなければ何もならないのである。それは大いに疑問である。

では、ヨーロッパでの、あるいはドイツでのサービスのレベルは改善され、いつかは日本と一緒になるだろうか。私は否と答える。それは、ドイツ人は、良質のサービスは「誰か」の犠牲の上に成り立っていることを知っている。しかし、自分がその「誰か」にはなりたくないからだ。定時にさっさと帰って家族と過ごす、年に二十五日間しっかり有給休暇を取る。人間として「豊かな」生活をする権利は、誰が困ろうと行使する。だから、まだ客が並んでいるのを知っていながら、店員は定時になるとさっさと帰ってしまう。自分がそんなことをしているだけに、待たされても余り文句を言わないのだ。いいや、言えないのである。

「企業は客を基本的に馬鹿だと考えている」というトム・ケーニヒの主張は、本当にそうだと思う。ごまかすだけごまかして、欺くだけ欺いて、それでもダメならあとはノラリクラリ、時間がそれを忘れさせるのを待つ。これに関しては日本も同じ、万国共通だと思う。まあ、企業はどんなきれいごとを言っても、利益を追求する集団であるので、仕方のないことなのだが。

ドイツの内情を知っている人にとっては、思わずにんまりする本だが、知らない人はただただ驚くばかりの本である。

 

201410月)

 

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