中国のピカソ

 

京都国立博物館の庭。雨に濡れるロダンの「考える人」と噴水。

 

「中国のピカソというよりも、中国のヴァン・ゴッホかな。」

僕は思った。その日、僕は京都で観光ガイドの資格を持っている友人のMさんと、京都国立博物館に来ていた。Mさんが招待券を持っておられたので、「只」につられてやってきたのだ。しかし、入場料は普通に払っても、たったの五百二十円。紫野の家から地下鉄と京阪電車を乗り継いで東山七条の博物館まで来るには、片道五百円近くかかるので、「家で寝てた方が安い」ということになる。しかし、僕は絵を描くのも見るのも好きだし、たまに「目の正月」をさせてもらうつもりで、途中でMさんと待ち合わせて雨の中をやって来た。まだ、風邪が完全に抜けていなくて、頭が少し重い。

 国立博物館に来るのは五十年ぶり。「三十三間堂の向かい」、「明治時代の重厚なレンガ造りの建物」そんなイメージしかなかったのだが、奥に「平成知新館」という新しい建物が作られていた。ともかく、雨の日の観光には良い場所だ。外国人も多い。

その新しい建物に入る。中では、斉白石(Qi Baisi)の特別展をやっていた。彼は、一八六四年に中国に生まれ、一九五七年、僕の生まれた年に亡くなっている。中国共産党からの受けもよく「人民芸術家」の称号を持っていたという。彼の作品が五十点以上展示されていた。基本的に白い紙に黒い墨で描いた「水墨画」である。そこに少し着色してあるものもある。

「精緻」という言葉とは正反対な書き方、「乱暴」と言うか、「大胆」と言うか、ともかく、イメージをグイグイと形にしてしまう手法なのだ。それでいて、少し離れたところから見ると、不思議に現実感があり、しかも詩も浮かんでくるという不思議な絵だった。

「こんな絵を描くの、結構時間がかかるんかな。」

Mさん。

「いや、グイグイという感じで、十五分から二十分で書き上げたと思うよ。」

と僕は言った。大胆な筆遣いが特徴の斉白石だが、細かいことが苦手かというとそうではなく、彼の書いた昆虫の絵などは、とても精密なものだった。当然のことながら、基本的な描写の技術は持っておられるのである。それと、絵に添えられた詩がよかった。崩した行書の中国語、僕は意味が分からない。しかし、右上がりの独特の筆跡が、一見単純な絵と対照をなし、絵と詩がマッチして、いい雰囲気を醸し出していた。

後で、インターネット百科、「ウィキペディア」で調べていると、斉白石は「中国のピカソ」と呼ばれているという。ちょっと違うような気がするなあ。ピカソは抽象画だが、なかなか精緻な描き方をしている。例えるならば、大胆なタッチながら、不思議なリアリティーを見せるヴァン・ゴッホに近いような気がする。

Mさんは、何回かこの博物館に来られたそう。それも、何回かは、ホールで落語を聴きに。

「博物館も、最近は集客のために色々企画をしてるんだ。」

ユルキャラの「トラリン」のついた土産物を見ながら、僕はそう思った。

 

斉白石特別展のポスター。

 

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