ドイツ歴史(二)ルネサンスからドイツ統一まで

 

 

<新しい時代の始まり>

暗い時代からの光を求めて、ギリシア、ローマの古典に目が向けられるようになった。「再生」を表す「ルネサンス」の萌芽である。人間の目的は死んでからの「あの世」ではなく「この世」にあり、人間は全体の一部分ではなく、それ自体に価値のあるものと考えられるようになった。人々は問いに対する回答を、聖書や聖職者からではなく、古典の哲学や文学から求めようとした。この考え方は「Humanisms人文主義」と呼ばれ、イタリアから全ヨーロッパに広がった。新しい知識の伝達に貢献したのが、1450年にグーテンベルクが作った活版印刷術である。これにより安価にかつ大量に作られた本やパンフレットが、人々に人文主義的な考えを伝えるのに役立った。最も重要な人文主義者はエラスムスである。彼は、聖書は各国語に翻訳され、その内容は聖職者の手を経なくても民衆に理解されるべきであると説いた。また、ウルリヒ・フォン・フッテンは、ドイツが強い王権の下に統一されるべきだと説いた。タキトゥスのゲルマニアも紹介され、ドイツ人の民族意識を高める役割を果たした。

 

<正しい教えとは>

「ルネサンス」や「人文主義」などの新しい考え方は、そう簡単に浸透しなかった。特に、キリスト教会はそれらに全く無関心であった。キリスト教会を批判し、その改革を叫んだ者は、1415年のフスのように異端者として扱われ、火あぶりの刑を受けた。また、魔女として数多くの無実の女性が火あぶりの刑に処せられた。教皇のレオは、ローマのサンピエトロ寺院をより豪華なものに建て替えようと考え、その資金集めのために、金を払えば天国へ行けるという触れ込みで「免罪符」を販売した。ヴィッテンベルクの僧であり、神学の教授であったマルティン・ルターは、その「免罪符」に怒り、「九十五箇条の質問書」を書く。彼の意見は短時間の間に多くに人に受け入れられ、人々は聖職者が金にしか興味のないことに気付き始める。キリスト教会はルターに説を取り下げるように言うが、彼はますます教会への批判を強めた。ハプスブルク家の皇帝カール五世はルターを逮捕しようとするが、ルターはザクセン候フリードリヒに匿われ、新約聖書のドイツ語訳に努める。

 

<卑しい人々の蜂起>

ルターが聖書のドイツ語訳を進めているとき、大きな社会不安が起きた。彼の説に影響された農民たちが蜂起したのである。「アダムが掘り、エヴァが種を蒔いた、そのとき貴族はどこにいた」と叫ぶ南ドイツの農民は歴史上初めて反乱を起こし、1525年ハイルブロンで遂に「農民議会」を結成するに至った。農民たちは、諸侯の権限の王への委譲、聖職者の財産の国有化、聖職者任命権を地元に与えるなど、斬新な改革案を打ち出す。しかし、支配者側は、強力な武力で蜂起を鎮圧する。ルターも蜂起を鎮圧する支配者側を指示する声明を出す。こうして、ドイツ史上最初の民衆の反乱は不発に終わり、後の歴史家たちを悲しませた。

 

<教会の分裂>

ルターの主張を指示する諸侯や都市も多かった。心からルターの考えを支持する人たちの他、教会の財産を狙っている人たちもいた。ともかく、それらの場所では修道院が解体され、聖職者の結婚が許され、礼拝がドイツ語で行われるようになった。ルター派とカトリック教会との対立は深まったが、1526年の帝国議会でカトリック教会側がルター派を容認する旨が決議された。しかし、三年後、カトリック派の諸侯がその決議を無視、ルター派の諸侯と都市はそれに抗議した。「Protestanten(抗議する人たち)」という名前はここに始まっている。両派の間に戦いが勃発、皇帝カール五世はルター派を破った。しかし、彼の意図が「王権を強める」であることが分かり、彼は諸侯たちから総スカンを食い、追放される。彼の弟フェルディナントは両派の融和に努め、1555年、アウグスブルクの公会議によって、この問題はひとまず決着する。両派が混在する地域では、両派の教会が並立し、互いに容認し合うということになる。

 

<三十年戦争>

アウグスブルクの公会議での決定の後も、カトリックとプロテスタントの争いは続いた。1600年ごろからその争いは激しくなり、1608年プロテスタント派がUnionをカトリック側がLigaを結成した。1608年、ボヘミアにおいて、カトリック支持である皇帝からの使者を、プロテスタント側が窓から放り出すという事件が起き、それが三十年戦争の引き金となった。三十年戦争は宗教戦争であると言われている。しかし、それだけでは語れない。カトリック/皇帝側のヴァレンシュタインの軍勢が北ドイツをほぼ制圧したとき、皇帝フェルディナンドは、プロテスタントの教会の所有物を全て皇帝のものにしようとした。しかし、王権の過度な伸長を恐れるカトリック諸侯の反対に会い、それができなかった。またカトリックの国であるはずのフランスは、ハプスブルク家の没落を狙ってプロテスタント側を支持した。プロテスタント側に救世主のように迎えられたスウェーデンのグスタフ・アドルフでさえ、国益を考えての行動であった。この三十年戦争の間、ドイツの人口は千七百万人から一千万人に減り、国は疲弊した。1555年、ウェストファリア条約で、ようやく戦いは終わる。ドイツではこの後、より広い信仰の自由が認められた。この戦争の結果、王(皇帝)の力がますます弱まった。また、ドイツはオランダとスイスを失う。力が弱まったドイツは、その後の二百年間、隣国フランスがヨーロッパの盟主となることを許す。

 

<朕は国家なり>

ウェストファリア条約の後のドイツの発展を理解する上で、隣国のフランスに注目する必要がある。1661年に即位したルイ十四世は「太陽王」と呼ばれ、強力な支配システムを確立し、自分の意思が国中くまなく行き渡るようにした。彼は国家財政を一元的に管理し、行政、立法、司法、軍事などの全ての権限を一手に握った。それは「absolutistisch(絶対的)」と呼ばれる。「朕は国家である」とまで彼は言い切っている。強力な軍隊と、奢侈な生活を支えるには多額の金を要した。財務大臣のコルベールは、輸出を増やし、輸入を抑えることにより得た金でそれを支えようとした。大規模な工場が作られ、そこで出来た製品を運搬するため、交通機関が整えられた。また輸入品には高い関税がかけられた。これは「Merkantilismus(重商主義)」と呼ばれている。ドイツの諸侯の中にも、フランスの政治体制を真似しようとする者が多数いた。軍隊を補強し、豪華な宮殿を立てた彼らの中には、財政危機に陥る者が多かった。

 

<プロイセンの勃興>

17世紀になって、諸侯のひとつであるホーエンツォレルン家が意味を持つ。11世紀から続く同家は、次第に勢力を伸ばし、1415年には選帝侯のひとつとなり、1618年には侯爵となっていた。1640年に家を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルムは、自分の領地ブランデンブルク・プロイセンにオランダ人を好条件で入植させ、これまで余り人の住んでいなかった地域に農業を定着させた。また、ルイ十四世によって弾圧されたフランスのユグノー(プロテスタント)を受け入れ、彼らの技術を利用し、工業の発展を狙った。ベルリンは都会となり、ホーエンツォレルン家は最大の選帝侯となった。1701年、息子のフリードリヒは王として即位する。しかし、その国家財政は危機に瀕していた。その息子フリードリヒ・ヴィルヘルムは、厳しい倫理観と、徹底的な緊縮財政で、国を立て直そうとした。しかし、彼は軍隊を強くすることにだけは金を惜しまず、国家財政の四分の三が軍事費に充てられ、兵士は四万人から八万人に増えた。その結果人口では欧州では13番目のプロイセンが、フランス、オーストリアに続いて3番目の軍事力を持つことになった。プロイセン全土は、フリードリヒ・ヴィルヘルムの徹底した規律と秩序を重んじる姿勢で貫かれていた。

 

<啓蒙主義とは何か>

政治的な変化と同様に、ルネサンス、人文主義を基調とする変化が精神的な世界にも生まれた。これまでの既成概念を疑ってかかり、全てを人間の「理性」を使って判断し、残すものは残し、捨てるものは捨てるという考えである。デカルトは「理性で判断できる物のみが真実である」と述べている。最終目標は「啓蒙された人間」を作ることであった。哲学者のカントは「啓蒙」について、「自分の責任でそうなった未熟さから抜け出すこと」、「他人に判断を任さないで、自分の理性で判断する勇気を持つこと」であると言っている。啓蒙主義は、キリスト教会の権威だけではなく、国家の権力にも疑いを投げかけた。ロック、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテールなどは、人間は生まれながらに自然に備わった権利を持っていると考えた。その権利を守るために、人間は国家と契約をしている。もし、国家がその権利を蹂躙するようなことがあれば、人間にはその国家を排し、置き換える権利があると彼らは考えた。

 

<弱虫から大王へ>

軍人王のフリードリヒ・ヴィルヘルムの長男フリードリヒは、父とは反対に、フランス式の生活と音楽と読書を好む少年であった。彼は親友と共に父親の下から逃亡を企てるが捕らえられ、親友は処刑されてしまう。それ以来彼は父親の志を継ぐべく、帝王学を学ぶ。彼が二十八歳で王になったとき、誰もが静かな時代が来ると期待した。しかし、その直後、ハプスブルク家のカール六世が亡くなり、娘のマリア・テレジアが跡を継いだ。彼女が神聖ローマ皇帝も兼ねることに、難色を示す者が多かった。この混乱に乗じ、フリードリヒはシュレジエン地方を占領した。フランス等の外国も、オーストリア、ハプスブルク家の力を弱めるためにプロイセンを援助した。これが第一次シュレジエン戦争である。第二次シュレジエン戦争の後、北はプロテスタントであるホーエンツォレルン家のプロイセン、南はカトリックであるハプスブルク家のオーストリアが支配するという、二大勢力の版図が出来た。1756年から1763年の七年戦争で、プロイセンは、オーストリア、フランス、ロシアと戦った。プロイセンは何度も窮地に陥ったが、予想外にロシアの王が死亡し、そのあとロシアが寝返ったために、フリードリヒは講和に持ち込むことに成功する。この結果、プロイセンはヨーロッパの「列強」の一つとして認めらえるようになった。

 

<国王は第一の下僕>

フリードリヒ大王は、国家を自分の私物であると考えず、全ての人間が国家に対する義務を果たすのと同じように、自分も国家の僕(しもべ)であると考えた。彼は、全ての国民が同じ基準で裁かれるように法律を整備した。サンスーシ宮殿の拡張のため、水車小屋を取り壊す必要があった。その持ち主が「裁判所の判決がなければ、例え王でもそんなことはできない」と答え、それを聞いた王も、自分の国のシステムを自画自賛したという。フリードリヒは、国民が自分の身分に応じた義務を国家に対して果たしている限り、その者は自由であるとした。彼は、芸術を愛し、啓蒙思想を支持するという学者的な一面と、規律を重んじる軍人としての一面を併せ持っていた。彼は自分の持つ権力を、私利私欲のためには使わなかった。それゆえに彼は「啓蒙絶対君主」と呼ばれる。レッシングは人間の理性を讃える戯曲を書いたが、国王はこれを認めた。

 

<ドイツはどこにある>

七年戦争を終わらせたフーベルツスブルク条約の後の30年間はドイツで初めての長い平和な時代であった。文学、美術、科学の発達が随所に見られ、ゲーテ、シラーなどの文学作品が作られた。その頃から、統一されたドイツという概念が取り沙汰されるようになった。プロイセン、オーストリア、その他300を超える諸侯のどれを取っても「ドイツ」とは言い難い。教養人の間から、せめて言語と文学からでもドイツのナショナリティーを作っていこうという考えが生まれた。オーストリア抜き、プロイセンを中心にしたドイツということが最も現実的であると考えられたが、その実現までには、まだ永い年月が必要である。

 

<フランスがドイツの礎を作る>

ドイツの詩人や思想家が、ドイツの統一について模索している間に、世界の状況は大きく変わった。1776年、アメリカの十三州が、英国からの独立を宣言、その独立宣言の中で、自由と平等という人間の生まれながらにして持った権利、国家と国民との関係を謳いあげた。また1789年には、フランス革命が起こり、同じような人権に関する宣言がなされた。フランス革命は最初ドイツの知識人に好意的に受け止められた。しかし、革命が数々の流血を呼ぶにつれ、失望感が広がっていった。他のヨーロッパ諸国は同盟を組んでフランスに対抗した。しかし、フランスは手強かった。ナポレオン・ボナパルトは次々と列強の軍隊を打ち破っていく。ヨーロッパ最強の支配者となったナポレオンは、ドイツ人だけでは200年かかっても成し遂げられなかったことを、僅か20年で達成した。1801年、ナポレオンとドイツ諸国は、ライン河をその国境と定め、オーストリアとフランスの間にある小さな国々は、バッファーとして整理された。その結果多くの国が地図から消え、バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルン等にまとめられた。1805年、フランスとオーストリアの間に戦いが起こった際、ドイツの諸侯はフランスに味方した。その結果、バーデン、バイエルンは王国として認知された。ナポレオン寄りの国々でライン同盟が結成され、それらはドイツ帝国から脱退した。「皇帝」フランツ二世は退位し、神聖ローマ帝国は終焉した。

 

<ドイツのフランス化>

多くのドイツ人は、ナポレオンを好意的に受け入れた。フランス革命の際に謳われた自由と平等が実現すると考えられたからだ。事実、フランスの「衛星国家」となった国には、自由、平等の原則がかなり取り入れられた。しかし、まだ民衆が選んだ議会というものは存在しなかった。諸国は次々とフランスの主導するライン同盟に入り、最後にはプロイセンとオーストリアが残るだけとなった。プロイセンでも、シュタインとハルデンベルクによって内部改革が行われた。市民に大幅な自由が認められ、学校制度が改革され、産業に競争原理が導入され、軍隊が近代的に再編された。また、民衆の代表が王と同等の権利を持つようになった。残念ながら、オーストリアではこのような内部改革は殆ど行われなかった。

 

<ナポレオンからの解放>

ナポレオンの率いるフランスに服従していること、屈辱だと感じる人が増えていった。哲学者のフィヒテは「ドイツ人として精神を持て」とアピールをした。そのとき、ナポレオンの60万人の軍勢が、ロシアで壊滅的な敗北を喫したという知らせが入った。60万人のうち20万人は、ドイツのライン同盟の兵士であった。プロイセン王は、1813年フランスへの宣戦を布告したが、国民の間にも、フランスからの独立の機運が盛り上がっていた。1814年、プロイセン、ロシア、英国、スウェーデン、オーストリアの連合軍はフランス軍を破り、パリに入った。ナポレオンはエルバ島に流され、フランスによるドイツ、ヨーロッパの支配は終わった。

 

<祖国ドイツとは>

フランスから解放された後、人々は、民衆も政治に参加できる、統一されたドイツを期待した。しかし、1814年から1815年に開かれた、新しいヨーロッパの秩序を作るための「ウィーン会議」は、その期待を裏切るものであった。議長を務めたオーストリアのメッテルニヒは、欧州を1789年以前の状態に戻そうとした。また統一されたドイツが強力になりすぎることを各国が恐れた。その結果、ドイツ同盟という緩い共同体が作られ、フランクフルトで連邦議会が開かれることになった。しかし、そこに参加するのは為政者側のみで、一般大衆の政治参加は許されなかった。人々は大いに失望した。そんな中で、多くの大学で「Burschenschaft(学生組合)」が作られ、ドイツの統一を願う教授や学生がデモを行った。1819年、ひとりの学生が政府のスパイと思われる男を殺害したことによって、政府側が取り締まりを強化する。学生組合は禁止され、参加した学生は逮捕、教授は免職となった。また、本やパンフレットには政府による厳しい「検閲」が義務付けられた。しかし、それを行ったメッテルニヒでさえ、ヨーロッパの古い秩序が終わりつつあることに気付いていた。

 

<また革命はなかった>

学生運動が潰された後、人々の間には無力感が漂い、家庭的なもの、自然に目を向ける傾向が生まれた。シューベルトの音楽、メリケの詩、カスパー・ダヴィット・フリードリヒの絵など、「ロマン主義」と呼ばれる作品が作られた。また、「ビーダーマイヤー」と呼ばれる、浮世離れしたドイツ人の姿が描かれた。1830年、フランスでの「パリ蜂起」で、王政が倒れるに至り、ドイツをはじめヨーロッパ各国で再び革命の機運が高まった。多くの諸侯は、その運動を抑えるために、革命派と妥協し、国民による議会参加を認めた。1832年の「ハンバッヒャーの祭」では3万人という当時では考えられない参加者を集め、ドイツの統一と民主主義が叫ばれた。しかし、その動きは今回も、メッテルニヒの指導する為政者側によって潰され、運動の指導者は今まで以上の弾圧を受けた。今回もドイツでは革命が起こらなかった。ハンブルクの王は、一度認めた議会を閉鎖し、それに抗議したグリム兄弟をはじめとする七人の教授を追放した。

 

<遮断機が下りた>

ドイツの統一が遅々として進まない間に、世界は科学的な進歩により急速に変化を遂げた。蒸気機関、鉄道、電信などの発明により、もはや社会を変えていくのは為政者ではなく、資本家であった。フリードリヒ・リストは、国境の間の遮断機を取り払えば、統一は自然に進むと考えた。彼の考えは、工業、商業に従事する人々に支持された。1934年、十八の国の間で「ドイツ関税同盟」が結成され、関税が撤廃された。また1835年にはニュルンベルクとフュルトの間に鉄道が開通した。10年後には鉄道は2000キロを超え、益々多くの国が関税同盟に参加するようになった。しかし、オーストリアだけは、このような動きに加わらなかった。ここに、オーストリア抜きでドイツの問題を解決しようとするきっかけが生まれた。

 

<社会問題とその答え>

英国から始まった産業の発達は、「産業革命」と呼ばれるほど急速なスピードで進んだ。機械の導入とともに、工場での人間の職場は失われた。それでも人々は働き口を求めたので、彼らの賃金は極めて低いものに抑えられた。また、病気は事故で困窮する者も多かった。詩人ゲオルク。ビューヒナーは「資本家にとっては毎日が日曜日、農民と労働者にとっては毎日が労働日」と書き「小屋に平和を、宮殿に戦争を」と呼びかけている。子供の労働も当たり前になった。1844年、シュレジエンで綿加工場の閉鎖により職を失った人々が、工場を占領し、破壊するという事件が起きた。しかし、彼らはプロイセンの軍隊により鎮圧された。しかし、全ヨーロッパに広がった労働者の困窮は、もはや武器で抑えられるレベルではなくなりつつあった。1848年、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」を発表、現在の社会は崩壊し、労働者による政権に取って代わられることを予言し、労働者に団結と蜂起を呼びかけた。1848年、フランスで王政が廃され共和制が宣言されるに至り、その動きは全ヨーロッパに波及した。ドイツでもあちこちでデモと市街戦が繰り広げられ、オーストリアはで遂に40年間保守政治の中心であったメッテルニヒが失脚、国王より憲法の制定が約束された。プロイセンでも、民衆に対して軍隊が発砲したことから市街戦となり、事態の拡大を恐れた王は民衆と妥協した。しかし、為政者と妥協せず、あくまで民衆の手で自由を得ようとする人々もいた。彼らはフランクフルトに集まり、今後の方針を協議した。しかし、多くの人々は革命を望まなかった。少数の「社会民主主義」を唱える人々が相蜂起武装したが、ことごとく弾圧された。

 

<統一と正義と自由を>

1848年、フランクフルトで全国から選ばれた代議員により、初めての全独の議会が開かれた。しかし、代議員は知識人であり、農民や労働者の代表は参加していなかった。参加者は、保守的な右派、君主制の中で改革を進める中間派、君主制を廃し共和制を進めたい左派に分かれていた。また、「立憲君主制でいくのか共和制でいくのか」、「中央集権でいくのか地方分権でいくのか」、「オーストリアを含めた大ドイツでいくのか、含めない小ドイツでいくのか」、「選挙制度をどのようなものにするのか」等の難しい問題があった。長い議論の末、「プロイセン王による立憲君主制、連邦制、帝国議会の開設」等が決定されたが、プロイセン王、ヴィルヘルム四世はその提案を拒否する。「民主主義には軍隊を持って対抗する」と宣言した王は、議会への参加者、民主主義者に徹底した攻撃を加え、彼らを処刑、投獄をした。またもや、「統一と正義と自由」を求める動きは頓挫した。

 

<鉄と血で目的を果たす>

革命の失敗の後、ドイツ諸国は旧態依然緩い同盟関係に戻り、プロイセンとオーストリアが互いに勢力を競い合い始めた。しかし、急速な科学の発達は、否応なしに二十世紀に向かって進んでいた。そんな中で現れたプロイセンの首相ビスマルクは、ドイツの統一は話し合いや民主主義ではなく、鉄と血(武力)で成し遂げられると述べた。事実1866年、彼はオーストリアに対する戦争を始めた。彼はケーニヒグレッツの戦いで、電撃的な勝利を収め、その後のプラハ条約で、オーストリアを「ドイツ同盟」から追放した。就任以来一切の民意を無視して政策を進めてきたビスマルクは、多くのリベラルな人々に毛嫌いされてきたが、ここでビスマルクが、これまで成し遂げられなかったドイツ統一を果たしてくれるのではないかという期待が高まるにつれ、彼の人気も高まった。彼は南部の諸侯を支持するフランスに戦いを挑み、1870年セダンの戦いで勝利を収めた。1871年、プロイセン王ヴィルヘルムは、初代ドイツ帝国皇帝として即位した。これによって、やっとドイツ統一は成し遂げられた。しかし、この統一は永年人々が夢見たようなものであったのだろうか。確かに普通選挙で選ばれた議員による帝国議会はあったが、議会は皇帝と首相に対して影響力がなかった。また、圧倒的な経済力と軍事力を持つプロイセン主導の帝国に対して、南部の地方の不満は大きい物があった。

 

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