ドイツ歴史(一)始まりから中世まで

 

<はじまり>

キリストが誕生した頃、ゲルマン人は沼と森に覆われた土地で、部族ごとに暮らしていた。ローマの歴史家、タキトゥスの書いた「ゲルマニア」によると、青い目、赤い髪をし、大きな身体を持ち、「誰も同じように見える」野蛮人が、木の家に住み、農業と共に狩りをして暮らしていた。男たちは怠惰であったと書かれている。タキトゥスは実際にゲルマニアを訪れたことがなく、大部分はシーザーの「ガリア戦記」のような別の書物からの聞き書きである。しかし、少なくとも、ゲルマン人が、贅沢を好まず、厳しい自然に耐え、勇敢な人種であったことは想像できる。ゲルマン人は、紀元前50年ごろ、組織、装備ともに優秀なローマ軍に敗れ、ローマの軍門に下る。ライン川より西の地方と、ガリア(後のフランス)がローマ帝国の領土となった。ローマの初代皇帝アウグスティヌスは、その領地を更に広げようとする。しかし、今回ゲルマン人は抵抗を示し、紀元9年に、族長のアルミニウスが率いるゲルマン人は、ローマ軍を破る。ローマ人は、ライン河畔のボンから、ドナウ河畔のレーゲンスブルクに至る「リメス」という城壁を作って防衛ラインとした。当時ゲルマン人は、重要な決定を、一族の主要メンバーが集まる席での合議制で決めていた。また、彼らは多神教で、来世を信じ、勇敢な者は、幸せな暮らしが約束されたヴァルハラに行くと信じられていた。

 

<混ざり合う民族>

ゲルマン人とローマ人は数世紀の間、平和共存した。ゲルマン人はローマ人から、進んだ文化や技術を学び、トリア、ヴォルムス、ケルン、マインツ、アウグスブルクのような町が作られた。町の真ん中にはフォーラムと呼ばれる集会と裁判のための広場が作られ、進んだ建築技術により、水道や建物が作られた。城壁「リメス」の外に住むゲルマン人も、兵士などとしてローマ人と関わりを持つことにより、進んだ文化や技術を学んでいった。しかし、三世紀になり、北方に住んでいたゲルマン人の部族、アレマン族、ザクセン族、フランク族、シュヴェーベン族等が西南に移動を始める。その本当の原因は分かっていない。ローマ人は、最初はそれを食い止めようと努力するが、ゲルマン人の勢いは止まらず、ヨーロッパの殆どが、ゲルマン人の支配下となる。その土地では、ゲルマン人の文化とローマ人の文化が混ざり合い、発展を遂げた。フランク族のクロードヴィック(クロードヴィス)一世は、徐々に力を伸ばし、他の部族を駆逐し、紀元500年にフランク王国を作る。この王国が後のドイツとフランスの基礎となる。キリストの死後、迫害にもめげず、キリスト教がローマ帝国に浸透していく。四世紀にはキリスト教が、ローマの国境となった。しかし、ゲルマン人へのキリスト教の浸透は遅かった。ローマ教皇の命を受けたボニファティウスは、フリース人への宣教を試みるが、754年に暗殺されてしまう。

 

<権力の交代>

クロードヴィック一世の開いたメロヴィング王朝では、有能な王が出なかった。彼らは宰相に政治を任すことになる。カール・マルテルも二十五年間に渡って、実質的に王朝を支配した。彼の最大の功績は、732年、「トゥール・ポワティエの戦い」で、ピレネー山脈を越えて侵入してきたイスラム軍を撃退したことである。これにより、ヨーロッパはその後、キリスト教社会として生き続けることができた。彼は現在でも「ヨーロッパを救った男」と呼ばれる。彼の息子ピピンは、ローマ教皇からのお墨付きをもらい、メロヴィング朝の王を廃し、751年自らが王となる。これがカロリング朝である。(名前はカールから来ている。)彼は、キリスト教会より認定された、つまり「神」によって許された王として、政治、宗教、教会を統一した最初の王である。王が「政治、宗教、教会」に対して力を握るというパターンは、その後二十世紀まで続く。

 

<カール大帝>

カール大帝と800年という年は、「ヨーロッパの父」と呼ばれる彼が神聖ローマ皇帝となった年として皆に記憶されている。カールは、771年に王位に就いた後、数々の戦いを制した。特に、まだフランク帝国に属していなかった他のゲルマン諸族、ランゴバルト、バイエルン、ザクセンを王国に引き入れ、キリスト教化した。また、彼は国中を巡り、庶民の事情に通じようとした。彼が滞在した場所は、宮殿、「プファルツ」と呼ばれている。カールは、同時に輪作の提唱、学校の創設など、国の発展に尽くした。彼はその意味でも、「民族の父」、「ヨーロッパの父」という尊敬を受けている。800年、彼がローマを訪れた際、ローマ教皇は、彼にひざまずき、彼に「ローマ皇帝」の称号を与えた。カール自身もこれには驚き、もし教皇の意図を知っていたら、ローマに行かなかったと言ったそうである。彼は814年、アーヘンで亡くなったが、彼の業績は、彼の死後も受け継がれる。

 

<ドイツの形成>

広大なフランク帝国を支配、維持することは困難なことであった。当時の交通事情を考えれば、国王の意思を国中に伝達することは非常に難しく、強い権威で国を統一したカール大帝の息子ルードヴィヒ敬虔王の時代には、既に相続争いが起きた。彼の息子たちである、カール、ルードヴィヒ、ローターがそれぞれ東フランク、西フランク、ロートリンゲンとイタリアを相続、王国は三つに分かれた。しかし、ローターには子供がなく、家系が断絶。ローターの国はそれぞれ東フランク、西フランクに割譲された。この時の線引きがそのまま現在のドイツ、フランスの国境となった。また、東フランクでは古ゲルマン語、西フランクでは古フランス語が使用され、両者は言語的にも別であった。936年にザクセンのオットー一世が、他の東フランクの諸侯により国王に推せられたが、ドイツと言う国が歴史に登場するにはまだまだ時間がかかる。

 

<中世の秩序>

カール大帝から150年経ってから、オットー一世が、強力な支配者として登場した。彼は、諸侯の権力を制限し、王権を強めた。また、度々侵入したハンガリー族の騎馬舞台を、955年、レッヒフェルトの戦いで、完膚なまでに叩きのめした。彼は後に教皇に、カール大帝に続き神聖ローマ皇帝に任ぜられる。広大な国土の支配は、依然難しものであった。オットー一世は、信用のおける家臣たち(Vasallen)に土地を貸して自由に使わせた。(その土地はLehen、封建領土と呼ばれる。)領主となったその家臣たちも、またその家臣たちと土地を貸し、そのまた家臣たちも・・・という具合に、土地を通じての制度ができる。これは封建制度と呼ばれた。家臣たちは土地だけでなく、そこの領民、裁判権、貨幣の発行権なども引き受けた。領主と家臣は強い忠誠心で結ばれた。土地に対する権利は、次第に世襲制のものとなり、諸侯の力が強くなる原因となった。封建制度と共に中世の秩序の核となったのが「身分(Stand)」である。人々は「身分」によって、行動ばかりではなく着るものも制限された。

 

<農民の生活>

カール大帝の治世のころ、現在ドイツとなっている地域の人口は約四百万であったと推定される。大部分が農民で、彼らは土地を所有し、同時に武器を携える権利も持ち、戦争の際には兵士として参戦しなければならなかった。その兵役から逃れるために、貴族や、司教、修道院などに隷属する農民が増えた。彼らは徴兵から逃れる代わりに、農産物の一部を主人に年貢として差し出し、主人のために労働奉仕にも出なければならなかった。彼らは「Hörige(隷属農民、農奴)」と呼ばれていた。彼らは、「人間」とは捉えられず、「物」として、あるいは家畜並に扱われていた。1000年ごろには、自由農民はますます少なくなり、隷属農民が増えた。いずれにせよ農民は、社会の最下層で暮らしていた。農民は、20から30戸が集まって暮らし、共同で作業に当たっていた。耕地は3年単位の輪作のために、三つの部分に分けられ、各々の農民がその一部に権利を持っていた。耕地の他に、共同管理地である森や牧場があった。当時の農民は、一日二食で、日の出から日没まで、粗食に耐えて働いていた。肉を口にするのは、滅多にないことだった。また、居住空間が一間だけの家で、家畜と一つ屋根の下で暮らしていた。子供たちも重要な働き手であった。女性は13歳から14歳で結婚、男性は18歳から20歳で結婚し、平均68人の子供を設けた。しかし、生まれた子供たちの中で成人するのは半数であった。農民には教育の機会が与えられず、ほぼ文盲であった。このような状態は、18世紀ごろまで殆ど変らなかった。

 

<町の空気は自由か>

今から一千年前、ドイツには200の「町」があった。殆どの町の人口は千人以下で、現在の「町」の概念とはかなり違う。トリア、ヴォルムス、ケルンなどのようにローマ時代からある町に加え、商業の発達と物流の増加にともない、交通の要地などの新しい町が作られていった。それらの町の中心は「市の開かれる広場」で、そこでは商人、手工業者、農民などが、物を売ることになる。町の所有者である王や貴族は、関税や商売の権利金が良い収入源となるため、街とそこで商う者たちを保護した。そのために、町の周囲には壁が作られることが多かった。商人は「Gilden(ギルド)」と呼ばれる、手工業者は「Zünfte(ツンフト)」と呼ばれる同業組合を作った。その組合は、厳しい規則を作り、同業者にそれを科した。商人や手工業者の中には、裕福になり政治力を持つものが生まれた。彼らは「Patrizier(貴族)」と呼ばれ、都市での新しい支配者層として成長していった。しかし、それ以外の町の住民は、低い賃金と、劣悪な労働条件の下で働き、貧しい農民とほとんど変わらぬ暮らしをしていた。町では場所が不足し、次第に何階建てもの建物が作られるようになった。町に住む特殊なグループがユダヤ人であった。彼らは、金利を取って金を貸すことが出来るため、金融業を営み、裕福になる者もいた。それが、キリスト教徒から妬みの対象となった。彼らの住んでいる場所は「Gettos(ゲットー)」と呼ばれ、その行動には多くの制限が設けられていた。彼らはまた1215年から特殊な服を着ることを強要された。町が次第に膨れ上がるにつれ、その生活環境は劣悪になり、何度もペストやコレラなどの伝染病が流行り、多くの住民が死亡した。また、当時の町の住人は、政治に興味を示すことはなかった。

 

<誰が権威を持っているのか>

オットー一世が「ローマ皇帝」に任命され、世俗の最高権威者となった後も、精神的な最高権威者であるローマ教皇とは並立の関係であった。彼の家系が途絶え、ザリア朝の皇帝が即位しても、その並立関係は変わらなかった。しかし、王権が次第に強まり、国王が教皇の選定に口を出すようになった。ハインリヒ三世は、ローマ教会に圧力をかけ、七人のドイツ人の教皇を次々と即位させている。しかし、ハインリヒ三世の死後、ローマ教皇側の巻き返しが始まる。教皇グレゴール七世は、司教の任命権を教皇側に取り戻そうとし、それに反対するハインリヒ四世を「破門」してしまう。諸侯たちは、ハインリヒ四世が教皇と和解しなければ、退位させると迫り、ハインリヒ四世は、ローマ教皇に謝罪し、破門を取り消してもらうためにローマへと向かう。その道中、カノッサでハインリヒ四世はローマ教皇と三日間待たされた後でやっと面会がかなう。彼の破門は解かれる。この後も、王と教皇の権力争いは中世の終わりまで続く。

 

<高貴な騎士>

現在ドイツで見られる城や、城の廃墟の大多数は「騎士の時代」のものである。重装備で馬に乗り戦う「騎士」は、何時しかひとつの独立した身分になった。彼らは、「Pagen Knappen(小姓)」と呼ばれる時代から、独特の教育を受け、私利私欲を捨て困った者を助けるという独特の道徳観を持った階層となった。彼らは戦のないときは、狩りと試合で過ごすことが多かった。試合は、「ミネ」と呼ばれる高貴な女性のために行われることが多く、女性を讃える「ミネザング」という詩が書かれた。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ等が書いた詩は、それまでのラテン語に代わり、ドイツ語での初めての詩であると言える。騎士たちは、アラブ人に占領された「聖地」を奪還するという目的の十字軍に参加した。彼らが行った殺戮は騎士道からかけ離れたものであったが。1189年から1192年までの第三次十字軍に参加し戦死した「バルバロッサ、赤ひげ王、フリードリヒ一世」は特に人気があり、死後も人々に慕われた。

 

<誰が皇帝になりたいか>

13世紀に皇帝の権威は失墜し、誰もが皇帝になりたいと思わなくなった。七人の選帝侯は自分の都合の良い皇帝を選ぶことに終始し、1254年から1273年は皇帝がいないという事態になった。支配者のいない国内では、略奪が横行し、人々の安定した生活は窮地に立たされた。1273年、選帝侯はハプスブルク家のルドルフは皇帝に選ぶ。ハプスブルク家はスイスの小さな家柄で、諸侯たちは、弱い王を選んでおけば、自分たちの好き勝手ができると思ったのだ。しかし、ルドルフは有能な男であった。彼は略奪行為を働く騎士たちを厳しく取り締まり、国内の窮状を自分の眼で見て、対策を講じていった。ボヘミア候のオットカーは彼に反旗を翻したが、戦いに敗れ死亡する。ルドルフは巧みな政略結婚により、ヨーロッパに支配力を強め、わずか20年ほどで、ハプスブルク家を欧州最強の家系に育て上げる。このハプスブルク家によるドイツ、オーストリア支配は、1918年まで続く。

 

<暗黒の時代>

13世紀から14世紀にかけては動揺の時代であった。1308年にハプスブルク家の王、アルブレヒト一世が暗殺されてから、ルクセンブルク家のハインリヒが王となり、彼が数年後死んでから、選帝侯は統一した王を選ぶことができなかった。ハプスブルク家のフリードリヒとヴィッテルバッハ家のルードヴィヒの二人が同時に王になるという異例の事態になった。この辺り、選帝侯に依存しているドイツの王の権限の弱さが露呈されている。同時にペストが国を襲った。人口の三分の一が死亡し、農村や都市が荒廃した。しかも、民衆の支えとなるはずだったキリスト教会は、世俗の利益を追い求め、民衆の役には立たなかった。各地で反乱が起きたが、その大部分は残虐な方法で弾圧された。このようなことから中世を「暗黒の時」と呼ぶ人がいる。しかし、真の暗黒の時代は中世の末期だけで、中世は政治、科学、文化の発展の時代でもあった。ヴォルムス、スパイアー、フライブルク、ケルンなどで、優れた建築技術を背景に大聖堂が着工された。また、プラハ、ウィーン、ハイデルベルクなどでは大学が創設された。また、ケルンなどでは民衆の政治への参加が始まった。

 

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