外国語を保ち続ける方法

修道院での蝋燭の列。

 

サヨコさんの手料理をご馳走になりながら、リースリンクの白ワインを飲む。至福の時間である。サヨコさんの料理は、凝っているようで、シンプルなようで、実は凝っているという印象。いくつかはレシピを教えてもらって自分でも作ってみたい。

三人で話していて、面白かったのはヴェルナーさんの日本体験記。ご夫妻はこれまで何度も日本を訪問されている。ヴェルナーさんが日本語をどれ程理解されるのかは知らない。しかし、彼なりに、外国人として日本を理解しようと、努力しておられるわけである。彼の日本の事物に対する印象、彼が日本を理解しようという過程が非常に興味深かった。日本人が当たり前だと思っている事項が意外に彼にとって面白かったり、逆に日本人が重きを置いている部分に意外に彼の冷たい反応があったりして。

奥さんのサヨコさんとも、ずっとドイツ語で話していた。もし、日本語で話したら、ご主人が理解できない。それは「フェア」ではないという気持ちがあったからだ。欧州では、その場の皆が分かる言葉で話すという「不文律」がある。ドイツ人の社員が九十九パーセントを占める会議でも、一人でもドイツ語の分からない人が混じると、会議は英語で行われる。ご夫妻も、そんな欧州の文化の中で生きてきておられるのがよく分かる。

後日談になるが、サヨコさんが僕の従妹のサチコに三人で撮った「証拠写真」とともにメールを打たれたとき、

「モトさんがどんな日本語を話すのかどうか知らないよ。」

と書かれたとのこと。その通り、全然日本語で話してないもの。

 今回、ドイツで色々な人と交わした会話を、このエッセーで紹介したが、それらは全てドイツ語で行われたわけである。そう言った意味では、今回の四日間のドイツ訪問は、「ドイツ語を思い出す」という意味では、集中講座的な、実に有意義な時間であった。朝から晩まで、とにかく「ドイツ語漬け」の生活をしていたから。

 英国に住んでいて、ドイツ語を保ち続けるというのは実に難しい。読む方、書く方は何とかなるが、喋る、聴く能力を保持するのは難しい。実質的に、僕にとって、ドイツ人のピアノの先生と週一回話す他、ドイツ語で会話をする機会はないのであるから。

娘のミドリは全然日本語で話す機会がないのに、三人の子供たちの中で、一番流暢な日本語を話す。それが長い間不思議でならなかった。半年ほど前、ミドリと散歩をしているとき、

「わたしは、毎日、寝る前に、死んだ大祖母ちゃんに、今日あったことを日本語で話しているの。」

と言った。僕は、「これだ」と思った。それ以来、仕事から帰りの車の中で、その日あったことを、ドイツ語で自分に話していたわけだ。その効果があったかどうかは分からない。

 ヴェルナーさんが、最寄り駅の「ライプティガー・シュトラーセ」駅まで送ってくれた。「今度は、英国で会いましょう。」

そう言って握手して別れた。彼は、見えなくなるまでホームで手を振っていた。

 

   

ニース家からの帰り道、ツァイルを横切った。誰もいない中、深夜のイルミネーションも良いもの。

 

<了>

 

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