第六章:アンチ・ラーソン作家たちの反撃

 

ラーソンの爆発的な成功は、必然的にそれに批判的な作家の反撃に火をつけた。そして、その矛先は、とりわけ、故ラーソンが北欧の政治と社会の正確な描き手であると受け取られることに対して向けられた。ラーソンは、彼のノンフィクションにおいては、疑いもなく北欧の仕来りの分析者であったとしても。ロンドンにも住んでいるスウェーデンの犯罪小説作家ホカン・ネッサー(Håkan Nesser等からのラーソンに対する反響は、彼らの方がスウェーデンの社会をよりよく消化しているという、異なった政治的な観点を持っている。(ネッサーは架空の国を舞台にしているにしても。)また、犯罪学者とかつての犯罪者のコンビであるロスルンドとヘルストレーム(Roslund Hellström) のコンビも、スウェーデン社会に対する違った分析をしている。

ホカン・ネッサーは、そのふたつのシリーズで、ふたつの場所を使っている。刑事ファン・フェーテレン(Van Veeteren)の小説の舞台はスウェーデンではないが、グナー・バルバロッティ(Guna Barbarotti)を主人公にした小説では作家の故国を舞台にしている。ふたつのシリーズにおいて、何故ネッサーが批評家からも読者からも高い評価を得ているのかを実証できる。「ボルクマンの定理」(Borkman’s Point 1994)や「帰還」(The Return 1995)の最初の数ページで、他の作家のように左翼的ではなく、中道的な立場からの、彼の犯罪小説家としての洞察力を容易に知ることができる。ネッサーの作品には目を見張るものがある。他の北欧(と限っているわけでないのだが)の犯罪小説の書き方は、消化不良のように思えてくる。ネッサーの描く、ひたむきな捜査官、ファン・フェーテレン警視は、この分野において最も魅力的な主人公であると言える。それは、権威者、コリン・デクスター(Colin Dexter)による「(ファン・フェーテレンェは)欧州の偉大な探偵の中のひとりである」というコメントを待つまでもない。またファン・フェーテレンが扱う、暗い、迷路のような事件は、現代の犯罪小説のなかでまれにしかお目にかからない「厳しさ」と「論理性」を兼ね備えている。しかし、ネッサーの成功は一夜にして成し遂げられたものではない。スウェーデンで一番有名な刑務所のあるクムラ(Kumla)で生まれ育ったことが、彼を犯罪の道に精通させたのかも知れない。(犯罪の道に通じることは何も逮捕されるだけではない。)しかし、彼が二十年間教職に就きながら密かに書き溜めたものが(教職は彼の生甲斐であった)が、彼の作家としての技術を磨いたと言える。

長閑な海岸の町で起こった斧による殺人事件を描く「ボルクマンの定理」で、ネッサーの描く、チェス好きの刑事、ファン・フェーテレンが英国に初登場し、その後、すぐに二冊目が英語訳され出版された。二冊目がスウェーデンで出版されたのは一九九四年であった。ファン・フェーテレンは休暇中である。彼は刑務所から仮出所していたティーンエージャーの息子エリックとの関係を修復するために休暇を取ったが、上手く行っていなかった。彼は上司から電話を受け、近くのカールブリンゲン(Kaalbringen)の町で起こった斧による連続殺人事件の捜査を手伝うために、その町に赴くよう依頼される。ファン・フェーテレンは自分の右腕であるミュンスター(Münster)をその町に送るように上司に要求し、それは認められる。彼は地元警察の同僚と会い、そのチームの強みと弱みを知る。彼は捜査の指揮を執るが、地元警察チームは、若い女性警察官ベアテ・メーク(Beate Moerk)等の努力にも関わらず、成果を上げることができない。ネッサーは幾つかの展開を盛り込んだ後、予期しない、独創的な結末へと物語を導く。ネッサーは不安だらけの同世代の作家を軽視しているようだ。またローリー・トンプソン(Laurie Thompson)の繊細な翻訳も一役買っている。

第二作目の「帰還」は第一作目の成功をより確固たるものした。かつて連続殺人事件が起こった、美しい森の中の中に、カーペットで巻いた死体が発見され、それをファン・フェーテレンが捜査をする。手足を切り取られた死体発見の知らせを受けたとき、ファン・フェーテレンは病院にいた。その死体は、かつてふたつの殺人事件の容疑者として有罪判決を受け、仮出所したものの数ヶ月前から行方不明になっている男のものだった。入院中のベッドから捜査に指揮を執ることで、ファン・フェーテレンの能力が試されることになる。彼の捜査の結果は周囲の期待を混乱させるものであった。探偵が遠隔で捜査を進める苦労は新しいものではない。しかし、大抵は信用できる代理人を持っていた。(ネロ・ヴォルフェ、Nero Wolfe米国のレックス・スタウトRex Stoutの創作したアームチェア探偵、やジェフリー・ディーヴァーJeffery Deaverの創作したリンカーン・ライムLincoln Rhymeの例がある。)驚くには当たらないが、ネッサーは主人公にそれ以上の課題を与え、その挑戦に冷静に対応していく。心理的な迫真性の層がネッサーの文中に巧妙に築かれていることは、驚くに値する。彼のモデルのひとつはジョン・ル・カーレ(John le Carré1931-英国諜報機関で働いたあと小説家に転じた)であり、大衆小説のジャンルの中でもっとニュアンスと野心をもってそれを真似ようとしたとき、ネッサーは同じような如才のなさを見せる。

 刑事ファン・フェーテレンはこの分野にライバルが数多くいるなかで、最も記憶に残る、非英語圏の探偵である。彼は、ユーモアを解し、文化を解し、本を読み、我々が慣れ親しんでいる、気難しい北欧の探偵像と対称をなすものである。そして、ファン・フェーテレンが事件をシニカルに扱う様は、ネッサーが犯罪小説を非慣習的に扱う様を反映している。ここにある全ては人間性とその弱点に対する容赦のない観点とを通して屈折されられている。しかし、そこには一筋の共感がある。このファン・フェーテレンの世界に入っていく一番良い作品は「あざのある女」(Woman with Birthmark 2016)であろう。劇作家のテレンス・ラティガン(TerenceRattigan)は自分に取って代わろうとする若い世代の劇作家(John Osborne)の怒りに対して寛容であった。同じように作曲家のヴォーン・ウィリアムス(Vaughan Williams)は自分の後継者となるベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten)を保護した。しかし、どちらの場合もその寛容さに対して感謝の念が払われたことはなかった。古い世代の作品が、無愛想に否定されただけであった。インスペクター・モース(Inspector Morse)の作家であるコリン・デクスターが若い作家であるネッサーに対して賛辞を述べ始めたとき、このような歴史が繰り返されないことを願わずにおけない。前にも述べたがデクスターはネッサーが創作したファン・フェーテレンを「欧州の偉大な探偵の中のひとり」と評している。そして、三冊目の「あざのある女」(Woman with Birthmark 1996)は、デクスターの賛辞を否定することは難しいことを証明している。探偵のポジティブな性格が今回は影を潜め、暗い語りがこの本を支配している。

若い女性が死んでいく母親からショッキングな事実を告白される。彼女は、ゆっくりと、静かに、血に塗られた復讐の計画を立てる。彼女は最初に犠牲者の胸にまず弾丸を撃ち込み、つぎに股を狙う。二週間後に第二の犠牲者が。ファン・フェーテレンが立ち上がったとき、その女性は不可解な聖戦の対象として、三十人の人間に銃口を向けようとしていた。

もし「あざのある女」への賞賛がためらわれる部分があるとすれば、会話が前の二作ほどこなれていないという点かもしれない。(翻訳者のローリー・トンプソンの努力にも関わらず)それは英国人だけの印象かも知れない。ともかく、ネッサーはデクスターの賛辞に感謝し、古い世代を消し去るわけではないこと明らかにした。

ネッサーの他の小説と同じように、二〇〇二年に発表された「親愛なるアグネスへ」(Dear Agnes 2002)の言葉の使い方には卓越したものがある。そこには同時に遊び心のあるプロットの捻りがあるにせよ、探偵小説に通常使われる比喩の使用を断固として拒否する著者の姿勢が見受けられる。アグネスとヘニーはかつてほど親密ではないにせよ、付き合いを続けている、裕福なドイツ人の中年の女友達である。アグネスの夫が亡くなり、その後ふたりは文通を始める。しかし、文通のテーマはだんだんと不吉なものになってくる。ヘニーの浮気性の夫ダヴィットを殺す計画をふたりは始める。よく考えられた陽動作戦が練られる。ネッサーは読者が殺人計画の詳細に興味があることを知っている。しかし、夫から経済的な独立や美術等、ふたりの女性の生活の偶発的な出来事が描かれる。作者はじらすような舞台裏の記述が延々と続こうが、読者は読み進まざるをえないことを知っている。

「夫は殺されて当然、そしてそれをあなたに助けて欲しい。」

という一言で、不屈の意思を持つアグネスは、関与した誰もに冷酷な結果をもたらすような一連の出来事をセットする。読者はここで、ネッサーがアルフレッド・ヒチコック(Alfred Hitchcock)とパトリシア・ヘイスミス(Patricia Highsmith)の「列車の中の見知らぬ人々」(Strangers on a Train)の交換殺人からヒントを得ていることに気付くであろう。しかし、ネッサーはこの良く使われるシナリオに、読者をあっと言わせるような変化を付け加えている。

犯罪小説の翻訳が一般的に行われるようになり、作家にとって未知の設定や習慣などにおける斬新さを前面に出すだけでは十分でないことをネッサーは実感している。良い小説の前提は、考えられるあらゆる要素の剃刀のように鋭い実現である。それは、テンポのよい語り口であり、凝縮された筋書きであり、何にも増して、パワフルな卓越した主人公である。これらの要素を、ネッサーは「心の眼」(The Mind’s Eye,2008)の中で提供している。捜査官ファン・フェーテレンは、数多くのライバルのいるなかで、非英語圏では卓越した主人公であると言える。好感の持てる博学のファン・フェーテレンは、これまで我々が慣れしてできた、北欧の不機嫌な捜査官の典型の対称をなすものである。また彼が取り組んでいる事件に対する確固たる観点は、作者の犯罪小説というジャンルに対する、非慣習的な捕らえ方を反映するものである。全てのものが明確な、しかし苦味のない人間性とその弱みにたいする観点によって屈折させられている。そして、ネッサーは安易な比喩の使用を引き続き避けている。ネッサーは同世代の作家よりバランスが取れており、断定的でない。他の作家に似ず、ネッサーの観点は共感に貫かれている。

「カーミン街の蛆虫」(The Worms on Carmine Street, 2009)はネッサーの二十三作目の小説であり、犯罪に巻き込まれた登場人物たちの心理に集中した、独立した作品である。舞台は、北欧に住んでいたスタインベックという男が、幼い娘サラが行方不明になるという事件の後、妻と一緒に越してきたニューヨークである。前回の結婚の際に生まれた娘も亡くしている妻のウィニーは、物語の最初で精神的に参っており、自殺も企てる。しかし、マンハッタンでの生活は、ふたりにとって、故国に置いてきたもの以上に次々と問題をもたらす。ネッサーがあまりにも使う手なのだが、登場人物の心の狡猾なな状態を巧みに扱い、あまりにも厳密になので小説の筋が偶然のもののように思えてしまう。これは作者が不精をしているという意味ではない。このふたつの要素の結合により、作者の最も興味をそそる作品が生まれたのである。

「警部と沈黙」(The Inspector and Silence, 2010)はネッサーが描く渋い刑事を知る絶好の作品と言えるだろう。そして、彼の作品の中でも、最も凝った筋立てとなっている。そこには、北欧の社会が、たっぷりと、鋭い洞察で描かれている。(もちろん、それがどの国であるかは直接的に示されていないが。)しかし、全てが悪い方に向かっているのではないということは微妙に感じ取れる。ネッサーが直接そのための斧を手に取ろうとしないとしても、ある種の改善の可能性を感じることができる。

 まったく違ったタイプの作家が、ヨハン・テオリン(Johan Theorin)である。彼の「死者よりの呼びかけ」(Echoes from the Dead, 2007)は、どんどんと入ってくる北欧の犯罪小説の中でも卓越したものとして、スウェーデンと英国の両方で受賞したということに値するものとして受け入れられている。テオリンは読者をスウェーデンの島エーランド(Öland)への旅に誘う。そして、風が吹き荒れるシーズンオフのスウェーデンの島の雰囲気が比類のないやり方で語られる。過去と現在の間を行き来する語りは完璧に扱われている。しかし、彼は同時に一風変わった人物を器用に描いている。霧の中で息子を見失った母親と、彼女の父親の関係が描き分けられている。彼は同世代の作家よりも読者を混乱させることに長けている。それが、二〇〇九年に「ガラスのキー賞(Glass Key Award)」に輝いた「最も暗い部屋(The Darkest Room)」で達成されたキーとなる要素である。

 テオリンの衝撃的なデビュー作である「死者よりの呼びかけ」はスウェーデンで出版される前から既に八カ国に売られた。そして、これまでにない、伝統を否定する才能の到着を告げた。小説は一九七〇年代、若いイェンス・ダヴィドソンが北エーランドが行方不明になったところから始まる。それから二十年が過ぎたある日、少年の母、ユリアは息子の失踪の裏に隠されたヒントを引退した船長である父親から受け取る。ユリアと父親は、少年に何が起きたかを知りたいという情熱を失っていなかった。躊躇しながらもユリアは島に戻り、当時島中を恐怖に陥れた島民の話を聞き始める。ヨハン・テオリンの他の作品と同じように、残酷な要素がここでは巧みに呼び起こされ、ミステリーの標準的な装備はここでは見つからないか、テオリンの手馴れた手法によって微妙に拡散させられている。人物の描写は厳密になされている。特に息子を奪われたユリアに対して。しかし、それは小説の舞台となっている北エーランドの雰囲気に敏感に呼び起こされた雰囲気である。デビュー作として、「死者からの呼びかけ」ほど幸運な成功を収めたものはなく、その後すぐにこの極めて例のない作家は読者を獲得した。

テオリンはまた幸運なことに、マーレイン・デラージー(Marlaine Delargy)という優秀な北欧の小説の翻訳者に出会った。デラージーは翻訳の際に挑戦しなければならいことは、原作者によって違うと述べている。

「例えばヨハンは時々極めて頻繁にエーランド独自の言葉を使う。そして、それに当たる英語を見つけるのはトリッキーな作業かも知れない。また説明が必要とされるような文化的な事物も登場する。例えばクリスマスイブは北欧では最大の祝い事で、皆家で過ごす、そんなことは北欧の読者には自明なことだが、それ以外の読者には混乱を起こさせるかも知れない。また、警察組織の中の相当するランクを見つけることや、司法制度の違いについて説明するのが難しい。そして、節を取ろうとするチャレンジが、本そのものより、出版社や編集者から来ることもある。あるフレーズや抑揚を残すかどうかを真剣に議論することがときには必要となってくる。もちろん、最終決断をするのは出版社だが。

私はスウェーデン北部のことやストックホルム周辺のことはよく知っている。しかし、私の仕事は原作者が書いたことを翻訳し伝えることである。私はラース・ケプラーの『催眠術師』をストックホルムの地図を机において翻訳した。なぜなら、原作者が車で街を回る詳細な記述をしていたからだ。しかし、その詳細な記述は編集段階で省略されたり割愛されたりした。しかし、それらは原作者と直接やりとりをしながら行われた。」

デラージーは、翻訳という作業を通じて、偶然に生じる出来事にある要素を楽しんである。

「私はエーランドについては殆ど何も知らなかった。だから島の地形や伝統について知ることは面白かった。私は最近ノルウェーの作家アンネ・ホルト(Anne Holt)の作品をマイ・シューヴァルのスウェーデン語訳より英語に翻訳している。これまでノルウェーの社会については余り知らなかったが、経済的な成功や、国民の権利についてはかなり学んだ。

北欧の犯罪小説については『暗さ』が強調されすぎている。PDジェームス(PD James)やルース・レンデル(Ruth Rendell)は彼らの品質以上に評価されているし、コリン・デクスターは正確に言うと笑いの集合体ではない。私は、マルティン・ベックやクルト・ヴァランダーが我々英国の探偵の何人よりももっと機能不全である必要はないと思う。しかし、欠けているものがあるとすればアンディ・ダルジールやジャック・フロストの作品の中にあるようなユーモアだと思う。アンネ・ホルツの『1222』の中に登場するハンネ・ヴィルヘルムセンの辛らつな冗談を私は好きである。スウェーデンではいつも冬であると感じられているのだと思うが、ヨハン・テオリンの三冊目の本「採石場」は春が舞台であるし、マリ・ユングステッドの本も、色々な季節が舞台になっている。」

英国や米国において、犯罪小説や犯罪扱ったテレビシリーズに大きな興味が持たれていることに対して、デラージーは外国の作家が一度壁を破ると、英国人や米国人にとってt、翻訳を読むことに対する抵抗が弱まると考えている。

「ドイツでは北欧の犯罪小説が何年も前から人気を博している。実は、私はヘニング・マンケルのヴァランダーの本を最初、友人の家にいるときドイツ語で読んだ。それまでマンケルの名前を一度も聞いたことがなかった。私はまた翻訳の質は改善されていると思う。多分、編集段階での過程が改善されたからだと思う。私はマルティン・ベック・シリーズの十冊を、五人の翻訳者の本で読んだが、品質には大きなばらつきがあった。下手な翻訳を読まされたら、全ての過程で降りてしまうだろう。私たち翻訳者の目標は、もちろん、読者に翻訳を読んでいるということを忘れさせることなのだ。

オーサ・ラーソンの最初の作品の翻訳はひどいと思った。米国で『太陽風』というタイトルで出版されたが、最初はペンギンで、次の非英国風のハードカバーはもっとひどい『野蛮な祭壇』というタイトルで出版された。マーケティングもなければ、その努力もない。四冊目からはクリストファー・マクレホースに変わって、ローリートンプソンが翻訳を担当し、オーサ・ラーソンの作品は本来の成功を勝ち得たと思う。

私のお気に入りの作家はヨハン・テオリンだ。私は『死者からの呼びかけ』は私が色々な言語で読んだ犯罪小説の中で最高のもののひとつだ。私はテオリンの描く登場人物、環境の描写、筋の捻りが好きだ。また、彼は共同作業者としても最高で、常に協力的で助けの手を差し伸べてくれる。そして、私は『死者からの呼びかけ』が英国でも本来の賞賛を得られて嬉しく思う。

最近までヨハン・テオリンの出版者であったダブルデイ社のセリナ・ウォーカー(Selina Walker)は、既存の北欧の犯罪小説作家たちが、とりわか彼女が担当するスター作家たちが、この人気のあるジャンルで長寿を保てるかを挙げている。彼女の挙げる出版に必要な必要項目とは、ストーリーテリングの品質と翻訳の品質であるという。翻訳の過程において、ウォーカーは翻訳者と良い関係にあることに努力を惜しまない。テオリンの翻訳者であるマレイネ・デラージーとは、仕事をどのように進めるかについて翻訳中頻繁に会話をしている。デラージーはコピー編集された原稿を見て、証拠をチェックする。ウォーカー自身は不恰好で耳障りな翻訳には耐えられない。

「出来る限り液体のように流れる翻訳を好みます。」

とウォーカーは述べる。

「テオリンの翻訳は、嬉しいことに、回を重ねるごとに良くなっている。それは彼の初期の作品が達成したものを思えば簡単なことではない。我々は二〇一一年に『採石場』を出版した。その作品は重苦しく、非常に雰囲気的で、前二作と同じようにスウェーデンの島、エーランドを舞台にしている。テオリンは作家としては活動を始めたばかりだが、大きな将来の可能性を秘めている。」

テオリンは、自身を地理的に限定されている作家だと考えている。

「私は常にスウェーデンを舞台にしたストーリーを書くと思う。仮に他の国を舞台にしても、そこを訪れたスウェーデン人について書くと思う。その国と、そこに住む人々を知るにはとんでもない長い時間がかかる。私は若いとき二年余り米国に住んだが、アメリカ人を主人公としたストーリーは書けなかった。そこはまだ未知の国である。」

「場所に関して言えば私のゴールは私が書いている場所の描写が真実であるということだけである。私はこれまでスウェーデンのエーランド島についての本を三冊書いたが、その島の様子と島のフィーリングを出来るだけ正確に描こうと努力した。また、そこに登場する人物を、実際島に住んでいる人たちに出来る限り近づけようと努力した。しかし、『ホーム・ブラインド』、そこに住んでいる人にはそこの特徴はは分からないということも知っている。私は今英国のジャーナリスト、アンドリュー・ブラウンの書いたスウェーデンに関するノンフィクションの『ユートピアでの釣り』という本を読んでいる。ブラウンは数年間スウェーデンに住み、スウェーデン語も話せる。彼は、この国ついて奇妙な、感激するような事物について書いているが、それらは私にとって余りにも当然のことで、書く気にもならないことなのだ。そして、どの国に住むどの作家に対しても、同じことが言えるのではないだろうか。」

「私はこれまでのスウェーデンで国政選挙で、五つの違った等に投票したくらいで、私の政治的な観点は明確に定義できていない。私は一九七〇年代に育ち、そのころに多くの本を読んだが、当時の子供向けの本は、今にくらべてもっと政治的だった。たいていはサブタイトルに左翼の政治的なメッセージが入っていたし、それ以来、政治的と分かる本には用心深くなっている。」 

「スウェーデンの犯罪小説は、外国で、特にドイツでは、政治的なものとして捉えられることが多いようで、私はスウェーデンの社会に対してどんな政治的なメッセージを作品に託しているのかという質問を数多く受けた。しかし、私は、最も繊細な小説は特定の政治的なテーマを追求しないと思っている。(ジョージ・オーウェルのように明確な例を除いて。)我々の社会の何かが政治的に正しくないから人々が犯罪者になってしまうというのは、話を単純化し過ぎている。どのような社会でも犯罪はある。全体主義でも民主主義でも、裕福な社会でも貧しい社会でも。いかなる理由であるにせよ、法を破ることを決心する少数の人間はいるものだ。私は犯罪者や、警察、犠牲者を、中傷的なシンボルとしてではなく、ある社会の中に生きる個人として捉えようとすることにより興味を感じる。」

「私は自分を色々なやり方で充電しようとしている。例えば、社会全体をターゲットにするのではなく、汚職をした人間を語ることによって。スウェーデンは、一般的に言って、それほど汚れた国ではない。もし、暴露される違法行為も、些細なことが多い。例えば、、役人が契約に便宜を図るために車一台の賄賂を受け取るとか。はっきり言って、それらは他人を感動させるドラマにはなりにくい。」

「ヨーロッパの外から来た移民とその子供たちは、ずっとここに住んでいる我々とは違った風にスウェーデンを見るだろう。そして、彼らは面白く、挑発的な作品を書くだろう。何人かはもう書き始めているが、犯罪小説の分野ではまだ移民出身の作家はいない。」

「オロフ・パルメは多分、自分が守ろうとした理想社会を、社会民主的に先取りしようとした最後の人物だ。彼に追随していたものは皆現実主義者だった。今日何かに反対はする人は多いが、理想を具現化しようとする人は殆どいない。」

「私のテーマのひとつは、人々は成長するにつれて潔白さを失い、直接的に、あるいは間接的に、暴力、犯罪、嘘、売春、麻薬、その理想的な世界ではあり得ないものと直面していくことである。」

他の国に比べて英国人は海外の犯罪小説と同化することに対し積極的である。英国の読者の雑食性は英国が優越しているという観念からの寛大さから来るものかも知れないが、ありがたいことに、どんどん増えていく翻訳された犯罪小説の中で、偏狭さを排除してくれている。ヘニング・マンケルやカリン・フォッスムの小説の中にある、暗く宿命論的な視点は、特に英国中心的でその偏狭さが一般に受容された。しかし、一方、ジャーナリスト出身のオーケ・エドワードソン(Åke Edwardson)は、他の同世代の作家ほど英国で成功を収めていない。主人公の警視エリック・ヴィンター(Erik Winter)と彼の年長のもっと哲学的な同僚のリングマー(Ringmar)を配し、マンケルのヴァランダーの様式を打ち破るものとして、良い前兆はある。しかし、エドワードソンの小説における都市の設定は、活気はあるが危険な都会での生活の特徴へ焦点を置いている。そして、英国や米国の同様の小説では滅多に見られない厳しさを組み込んでいる。(もちろん語りの設定に対する雛形がエド・マクベイン(Ed McBain)の「八十七分署」小説から引き継がれという点に注目するにしても。)興味深いことに、エドワードソンはの警察の働きというようなメカニズムを、不安だらけの、実存的に苛まれている、この領域では必須条件であった主人公と、このジャンルにおける大抵の主人公よりもっと良心の危機を持っているにも関わらずまだ現実味をもったエリック・ヴィンターという悩めるヒーローとを対以させることができる。

「凍った線路」(Frozen Tracks , 2001)は、それなりの達成度は持ちながら、作者を商業的に高い成功の層まで押し上げる作品とはならなかった。秋のイェーテボリが舞台になったその本の中で、ふたつの連続して起こった事件が警視エリック・ヴィンターの頭痛の種になっていた。ふたりの子供が、菓子をあげるという男によって車で誘拐されたのだ。報告書は作られていた。しかし、別の幼稚園で、別の警察署が関与していたため、報告書は互いに関連付けていなかった。(エドワードソンは英国と同じようにスウェーデンでも警察の非協調、セクショナリズムが広がっていることを暗示している。しかし、ヴィンターにはもうひとつ差し迫った問題があった。大学の学生が、次々と一見無差別に暴行を受けているという一連の事件であった。暴行は変わっていた。正体不明の加害者が、誰も判別できないような物を振り回していたのだ。それは被害者の頭蓋骨に血だらけの十字架を刻んだ。もうひとりの子供の誘拐が起こり、その子は森の中で怪我をしているところを発見された。クリスマスが近づくにつれ、ヴィンターは悪辣な方向へ展開するふたつの事件に直面する。

「終わりなき」(Never End, 2000)のようは作品で、エドワードソンは、簡潔に特徴付けられた捜査官たち迷路のように錯綜した筋書きの両方において技量を示している。危険な小児愛者の心理に対する揺れ動く洞察が、巧妙に、責任を担って取り扱われている。そして、語りの技巧は、犯罪小説の記述のうるさ型を満足させるものである。しかし、読者は外国の犯罪小説に、新しい環境、新しい何かを常に求めている。実際どこか疎遠で、どこか親しみ易いものを。「凍った線路」はそれ以前の作品の中に読者が感じたようなローカル色が希薄になっている。場所や登場人物が変えられ、それはもう英国を舞台にしたもののようになっている。筋書きは著者が関わりあったものである。これは「凍った線路」の巧妙さを減じるものではない。しかし、それは場所の感覚を少なくし、エドワードソンの作品に対する変化を表す鍵となる要素である。

エドワードソンの作品で最初に英国で出版された興味深い「太陽と影」(Sun and Shadow, 2005)は、裏表紙に筋書きが紹介されている。動きがありエッジの効いた英国や米国の警察のやり方に沿って、読者が何かを期待するような書き方で。我々が与えられたものは少し違っている。エドワードソンが優先するものが従来のものとは違うだろうということが最初の数ページで既に示唆されている。スウェーデンの第二の都市イェーテボリで、警察官のモレリウスとバルトマンが、大都市では一般的な出来事だが、ディーンエージャーの無茶な飲酒を扱っているのを見る。同時に、ジャズを愛しスマートな格好をしたエリック・ヴィンターは、四十歳に近づきもはやスウェーデンで一番若い警視の座を明け渡していたが、彼の身辺の変化を嘆いている。彼はガールフレンドのアンゲラとアパートに一緒に住むことになっており、数ヶ月後には、最初の子供が産まれることになっていた。第三の主要な要素は、巧妙に書かれているため、読者は最初それが現実か想像の世界か判然としないのだが、殺人者となるべき人物が紹介されている。小説のアクションは市の「世紀変わり」の祝いの前後の七ヶ月を舞台にしている。そして大規模な捜査のきっけとなる一連の殺人は最初の二ヶ月間に発見される。しかし、その間も生活(と低いレベルでの警察の仕事)は続いている。我々は女性の従軍牧師、彼女の問題の多い娘、その娘のボーイフレンドと出会う。我々に、潜在的な殺人者の回想が提示される。しかし、我々は父親が心臓発作に遭ったために母親から呼ばれてスペインへ向かうヴィンターの旅に、もっぱら付き合わされる。ヴィンターは結論の出ないままにスペインの女性警官と関係を持つ。これらは全て計算済みである。殺人現場が発見されても、彼はペースを上げることはない。捜査はそれ自身に吸収されつつ、時期が満ちるを待って、開始される。(筋の一部をなすヘビメタ音楽の色々な形が訳者のトンプソンの絶妙の翻訳と相まっている。)テンポはゆっくりしたままである。(例えば、肝心の犯罪現場の結果は時として描かれるだけである。)書き方は、一方で英国の作家ジョン・ハーヴィーの静かなヒューマニティーと匹敵するものだが、ヴィンター自身と同じように、あからさまであることは稀である。そして、クライマックス、それがやってきたときにも、ドラマは潮のように引いてしまう。それに代わって、エドワードソンは一括して、移り変わり、終わり、始まりにおける生命の強い感覚を描いている。それはエドワードソンが、アングロサクソン的な伝統の支配に、常に反旗を翻しているかのように思える。スウェーデン、推理小説協会賞を三度受賞することによって、エドワードソンはスウェーデンの犯罪小説作家として確固たる名声を刻んだ。そして、辛抱強く彼の本を読んだ読者には、報償が用意されている。

「最後の冬」(The Final Winter, 2009)はエドワードソンが粘り強い主人公のエリック・ヴィンターを配した十冊目の本である。(彼の登場は一九九七年のことであった。)そして、この本では、彼の登場する最後の物であると考えられている。これが告別の書となるであろう理由は、エドワードソンが犯罪小説以外の分野で活動をしたいという望みを明言しているという事実がある。「最後の冬」の主題は、ひとりの男の復讐に対する圧倒的な衝動である。マルティン・バークナーは警察に対して、目が覚めて、恋人のマデリーンが顔に枕を当てて窒息死しているのを発見したとき何かを見たと告げる。彼は少なくとも自分は侵入者を見なかったと語る。警察は彼の証言に重きを置かず、彼に殺人の疑いを向ける。その直ぐ後に、また、マデリーンの死の状況と殆ど同じような殺人事件が起こる。しかし、今回も、警察は、その殺人現場にいた一番明白な男、エリック・レントナーに疑いをかける。しかし、入ったばかりの新米刑事であるゲルダ・ホフナーは、ふたつの事件を初動捜査から担当していたが、一連の不自然さに気付き、警視のエリック・ヴィンターにふたりの容疑者は無罪であると主張する。いつものようにあ、警察の捜査の全てのお決まりの手順が、エドワードソンによって提示される。そして、プロットは、読者が読者の盲信の拡張という面があるにしても、機械で測ったような正確さで展開していく。もし、これが本当にヴィンター・シリーズの最後であるとすれば、その終幕を飾るのにふさわしいものである。

 

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