第四章:スウェーデン、外交と不安定な語り

 

小説の中でこうなるだろうと予想されていたパターンが裏切られることは、読者にインパクトを与える。それにより、読者は未知の領域へと引きずり込まれるのである。全ての読者がそのようなやり方を望んでいるわけではないにしろ。犯罪小説は、他の文学的な小説に比べ、より厳格にフィクションの部分を制御する必要がある。それは隠されたパターンや隠されたロジックが、主人公の心理を比喩的に表すからである。パターンを破ることにより、作者は読者に注意を引かせ、一見して脈絡のない一連の出来事に意味を抱かせることに成功する。このような手口により読者は更に厳格にストーリーを追い始める。これは、北欧の犯罪小説のひとつの特徴と言える。

北欧の犯罪小説の作家のもうひとつの特徴は、読者との関係に対する態度である。作家は決定的な情報を読者から隠し、それを開示することにより、ドラマチックな効果を読者に与える。北欧の作家は、英米の作家に比べて、不透明な動機と、混濁した心理をそのまま描こうとする。逆に言えば、欧米の作家の方が、読者に明瞭な説明を与える傾向が強い。北欧の作家は、断片的な語りで、その間隙を読者に埋めさせるという傾向が強い。

 北欧の犯罪小説では、混乱し、機能しない社会が殺人の背景となることが多い。また、公務員の汚職を取り扱ったものも多く、その結果、北欧で書かれた作品が、外国でどのように受け入れられるかという上での、懸念される点となる。いずれにせよ、読者は語りの下にある社会的な目的を探さねばならない、という世界に足を踏み入れる。現代の優秀な作家たちは、作品という殻の中に、争う余地のない点を作り上げている。それは、社会的な歴史や政治的な現実は、余りにも複雑で多面的で、簡単には分析を許さないという点である。尋常ではないパーソナリティーを持った犯罪者やアンチヒーローは、実際に我々が生きている、その世界へのパイプと言える。その世界では幻想が剥ぎ取られ、何が道徳的なのか簡単には判別できない。北欧の作家たちは、読者が作品から得る結論について、最終責任を取ろうとしない。ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」にあるように、読者がテキストから何を読み取るかは、読者に委ねている。

 先程も述べたが、どのような結論を導き出すかという余地は読者に残される。しかし、それは作家が責任を放棄しているのではなく、読者により広い選択の余地を与えているということである。現代の小説では社会学的な背景は失われ、一流の犯罪小説の中で見受けられる、詳細で知能的な語りが、作品が単に娯楽的なもの以上の価値を持つために、より広範囲な可能性を示している。現代社会に的確に反応する犯罪小説の作家は、今までになく断片的になった社会の構造をまとめる紐の存在を知っている。語りの中に取り入れられた解説は、小説が読者に知性に訴えかけ、無数の可能性を用意する付加価値と捕らえてもよい。それは、社会的、政治的な分析、心理学的な理解の緻密さ、社会がどのように機能するか(あるいはしないか)の検証の可能性を与えている。

 

社会の動きこそが、ひとりの作家の中心にあった。北欧の犯罪小説のファンの多くが一目置く、ストックホルムで活動中のマリ・ユングステッド(Mari Jungstedt)の作品「警視クヌタス」(Inspector Knutas)シリーズは、その社会の動きを描く作品の結晶である。ゴットランド(Gotland)を舞台とした彼女の作品には、動揺する雰囲気が積み重ねられており、古典的な警察の手法を、改めて取り上げ直している。二〇一〇年の「殺人者の芸術」(The Killer’s Art)では、風光明媚な港町の「愛のゲート」と呼ばれる場所で、額縁に入れられた絵のような形で、乱暴された画商の裸の死体が発見される。彼は離婚し、新しい愛人を作っていた。警視クヌタスの粘り強い捜査が始まる。殺された画商が最近発掘した画家の絵がストックホルムで盗難に遭っていた。クヌタスは、美術という一見派手ではあるが、実際はドロドロとした世界に捜査の手を広げていく。この本を読むと、ユングステッドがどうして評価を勝ち得たかが分かり、ティーナ・ナンナリー(Tina Nunnally)の巧みな翻訳も、ストーリーと共鳴するような語り口をよく伝えている。彼女の本は、マンケルなどに比べて売れてはいないが、いつまでも「高尚過ぎて俗受けしない高級品」の位置に甘んじてはいないであろう。世界中の批評家が彼女に注目しはじめている。

「私がゴットランドを舞台に選んだのは、ゴットランド自身が作品の中で重要な役割を演じてくれると思ったからだ。それは『密室』と言っても良い。平らで、独特の海岸の地形、独特の光と影、歴史的な街ヴィスビー(Visby)は城壁で囲まれ、細い路地が錯綜している。これらは、犯罪小説にとって、まさにお誂え向きの舞台である。スウェーデン社会の要素が、自分の作品の中では、登場人部や語りをよって、ごく自然な形で反映している。例えば、私の小説の主人公のヨハンとエマの間の複雑なラブストーリーは小説に想定外の次元を与えている。また、マスコミが犠牲者をどう扱うか、ヨハンが記者としてそれとどう立ち向かうかという点。そこにはマスコミの知的レベルの低下がある。スウェーデンのテレビ局で永年働いてきた私にとって、マスコミが被害者をどう取り扱うかという倫理的な問題が私の小説の鍵となる。

私の作家として人間関係に焦点を当てている。九冊のシリーズを書いた後で、私はその中で繰り返される自分自身のパターンが分かってきた。それは、子供時代の経験が後でどんな影響を与えるかということである。例えば、両親との関係、子供の持つ脆弱性、自分をどのように表現したかなどの経験などある。私にとって、大人がいかに子供を援助し、真剣に話を聞き、救いの手を差し伸べるかは大切な問題だ。それが、まさに私が小説を書く目的なのだ。私はアルコール中毒の父と、三人子育てに疲れ果てた母の間で、子供時代を過ごした。両親は離婚し、母は癌に侵され、私たち、子供たちはとても心配したが、それでも誰も助けてくれる人はいなかった。周囲の大人も、病院も。このような点について触れることは重要だと思う。私はもちろんサスペンスに富んだ読者を夢中にさせるような小説を書きたい。しかし、同時に、読者の心に何かが残る物を書きたい。「危険なゲーム」(The Dangerous Game)は二人のモデルが登場するファッションの世界を舞台にしている。ひとりは成功しもうひとりは拒食症で病院に入る。これは私の八作目だが、十二万部売れ、私なりに成功したと思っている。しかし、自分のやりたい事を達成できた「殺人者の芸術」も私の自信作である。

 

 二〇〇六年「イージー・マネー」で衝撃的なデビューをした、妥協を知らない作家、イエンス・ラピドゥス(JensLapidus)は今までにない辛辣な目で犯罪と社会を眺めている。彼は、どの作家も一度は考えるが、敢えて入って行かない、レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler)やエルモア・レナード(Elmore Leonard、米国の小説家、脚本家、男臭く、歯に衣着せない表現の犯罪小説を書いた)の作風に踏み込んでいった。「イージー・マネー」(Easy Money / Snabba Cash 二〇〇六年)はスウェーデンで記録的な売上げ達成し、映画化もされた。弁護士であるラピドゥスは第二作の「決して寝るな」(Never Fuck Up / Aldrig fucka upp 二〇〇八年)でも同じような成功を収めている。鋭利な作風の「ストックホルム・ノワール」(Stockholm Noir)シリーズは、アメリカの名人と言われるジェームス・エルロイ(James Ellroy)やデニス・ルヘイン(Dennis Lehane)と比べられる。暴走族「地獄の天使」や多国籍のマフィア組織、麻薬を巡る抗争などが、妥協のない、呵責のないやり方で描かれている。

 

 ラピドゥスと異なり、比較的抵抗なくスウェーデン国内の読者にも、英国の出版社にも受け入れられているのがクリスティナ・オールソン(Kristina Ohlsson)である。彼女は社会科学の専門家であり、反テロの組織OSCEで働いていた。彼女はその他の政府組織や、外郭団体で、中東政策の専門家として働いた。現在ウィーンに住む彼女は、二〇一〇年にスウェーデンの年間最優秀犯罪小説作家に選ばれた。

デビュー作である「望まれない者」(Unwanted / Askungar二〇一一)は、フレデリカ・ベルイマン(Frederika Bergman)を主人公とするシリーズの第一作である。ストックホルム中央駅へ向かう列車の中で幼い少女が行方不明になる。不思議なことに誰も目撃者がなく、母親は一つ前の駅に取り残されていた。事件を担当した警視庁のアレックス・レヒト(Alex Recht)は捜査アナリストであるフィレデリカの助けを得て捜査を進める。最初は単に親権争いだと思われていた事件が、少女の死体が「不必要」と額に書かれて発見されたことで、残忍な殺人者による犯罪であることが分かる。このオールソンの処女作は、巧妙に配置された登場人物と、アナリストのフレデリカ、スウェーデンの社会と司法システムの分析を巧みに混ぜ合わせることに成功している。英国の出版社であるサイモン・アンド・シュスター(Simon & Schuster)は、オールソンの他に、スウェーデンの女流作家で、共同で執筆しているカミラ・グレーベ(Camilla Grebe)とオーサ・トレフ(Åsa Träff)とも契約している。

オールソンは、デニス・ルヘイン、ピーター・ロビンソン(Peter Robinson)、ジョン・コノリー(John Connolly)、スティーブン・キング(Stephen King)等の、英米の男性作家に影響を受けたと語っている。彼女はアネ・ホルト(Anne Holt)、オーサ・ラーソン、スティーグ・ラーソン、ヨー・ネスベーなどは一応読んではいるが、自分自身はスカンジナビア作家クラブの一員ではないと感じている。オールソンは、犯罪小説は「大人のおとぎ話」であり、スウェーデンやスカンジナビアについて読者に何かを伝える義務はないと考えている。

「私の最初の小説『望まれない者』は少女が母親から連れ去られ、死体で見つかるという衝撃的な物語。『ひなぎく』(The Daisy)は、スウェーデン政府から受け入れを拒否された難民を匿った神父が妻と共に殺される物語。私は自分がかつて担当したスウェーデンにおける難民問題に、幾分でも光を当てることができたことを誇りに思っている。

自分の作品の中では『天使に守られて』(Guarded by Angels)が一番気に入っている。物語を通じて、次第にテンポを速めていくということができたことを嬉しく思っている。私の最新作は映画を巡る伝説をテーマにしている。二年間行方不明だった学生が、ストックホルムの小さな森に、他のふたりの死体と一緒に埋められているのが見つかる。警察の捜査は二十五年間喋らない、年老いた作家に行き着く。」

 

リーフ・ペルソン(Leif Persson)は、スウェーデンは作家としてよりも、犯罪の専門家として知られている。彼の「テレホンカード」小説が「夏の憧れと冬の終わりの間で」(Between Summer’s Longing and Winter’s End)である。一九八六年のオロフ・パルメの暗殺は、いまだに犯人が捕まらないこともあって、スウェーデンのトラウマとなる事件であった。その事件は、スウェーデンの国民を、自分たちだけは特別であるという夢から醒めさせ、自分たちも周囲と同じような世界に住んでいることを気付かせるきっかけとなった。パルメ暗殺事件は、スウェーデンの犯罪小説の分岐点となった。ペルソンが最初の三部作で試みたような、社会を変えるリアルタイムな犯罪を題材にすることは、野心的な作家による大胆な試みとして受け取られた。ペルソンはジェームス・エルロイに匹敵するような国家を舞台にした犯罪を詳細に語れる作家であることが照明されている。しかし、彼の本は、読者にとって、気楽に読めるような種類のものではない。

ペルソンはエルロイと同時に米国の警察小説の大家、ジョセフ・ウォンボー(Joseph Wambaugh)とも比較される。出版社はウォンボーに、ペルソンの本に推薦文を書かせている。確かに、忙しく混乱した警察内部の描写は共通点がある。そして、ふたりとも徹底した女嫌いであることも。

ペルソンの小説では、オロフ・パルメが凶弾に倒れる前に、もうひとつの事件が起こっていたことになっている。高層アパートから飛び降りた男が、下を歩いていた老人に連れられた犬を巻き添えにしてしまう。その死は他殺なのか自殺なのか。まったく対照的なふたりの捜査官がその事件を追う。警察は性的な差別と悪臭に満ちた、汚い場所として描かれている。

ペルソンが政治的な小説を書き、高い目標を掲げていることは明らかである。そして、権威に裏づけされた題材を扱っていることも否定しようがない。彼はスウェーデン司法省のアドバイザーであったのであるから。しかし、読者に、息も尽かさずページをめくらせるというタイプの作家ではない。彼の淡々した語りに慣れないとかなり苦痛であり、ペルソンはそれに耐えられる読者だけに書いているように思われる。

しかし、作者がどのような、ゆっくりとした、簡単には気付かれないやり方で、主題を料理してくのだろうか。その方法こそ、「夏の憧れと冬の終わりの間で」の成果と言える。何重にも渡り腐敗し、機能しない警察や司法の中で、読者は、スウェーデンの持っていた「夢」が死んでいくかを知ることができる。一見して派手なものを求める読者には向かないが、犯罪小説を本当に深刻なジャンルとして捉える読者にはペルソンの長大な三部作は、満足を与えてくれる。

 

テーマの深刻さということなら、ラース・ケプラー(Lars Kepler)も同じジャンルに属する。出版と同時に、このペンネームの後ろにいる作家は誰かということが話題になった。その結果、アレクサンドラとアレクサンダー・アーンドリル(Alexandra & Alexander Ahndoril) という夫婦が書いていることが判明した。処女作「催眠術師」(The Hypnotist)が話題を集めた後、英国の出版社が翻訳権を獲得している。ケプラーに対する評価は賛否両論があるが、英国で翻訳権を獲得したパトリック・ジャンソン・スミス(Patrick Janson-Smith)は、以下のような賛辞を述べている。

「このようなスカンジナビアの犯罪小説の売れ行きは常に上昇するでしょう、なぜならマンケル、ネスベー、レックバリなどが常に良質の作品を供給しているからです。出版社として私の会社は、スカンジナビアの小説家として、ラース・ケプラーの『催眠術師』としか契約していません。私がこの本を選んだのは、単にスウェーデンの出版社からの推薦だけではなく、私なりの理由がありました。この本はロンドンの国際ブックフェアで二〇〇九年に最優秀賞に選ばれました。その後、市場が翻訳小説を貪欲に求めていることを知って、私も貪欲にそれを捜すようになりました。今ドイツのゾラン・ドゥルヴェンカー(Zoran Drvenkar)の『Sorry』という本の翻訳権を買ったところです。また、それらの本が、読者の翻訳小説に対する食欲をそそるということになります。」

出版の過程での翻訳はかなりに困難が予想される。オリジナルの良さが、どのように伝えられるかということに、大きく左右されるからである。ジャンソン・スミスは次のように述べる。

「多くの場合おいて、『編集』というのは、翻訳者、出版者、作者の共同作業です。『催眠術師』において、作者は我々の提案、例えば構成の変更、外国の読者のための説明の追加等を、受け入れてくれました。その結果、スウェーデン語のオリジナルより良い本ができたと思います。」

「ケプラー・デュオ」は自分たちが、スウェーデンの犯罪小説の伝統を純粋に受け継いでいると考えている。

「我々は伝統の一部を担えて喜んでいる。しかし、何か革命的なことをやろうとしたら、それに反旗を翻すことも考えられる。」

と彼らは述べている。

「現在スウェーデンで行われている法医学的な捜査は、多かれ少なかれ、世界のどの国とも同じだろう。スウェーデンは他の国に対して、ちょっとエキゾチックだが、受け入れ易い国だと思うし、これは魅力的なコンビネーションだと思う。我々はそのことを作品に利用しようとしている。『催眠術師』では、舞台はスウェーデンになっているが、ストーリー自体はどこにも置き換えられる。『催眠術師』では家族の絆の強さがテーマになっているが、それは肯定的に作用することもあるし、とんでもない結果をもたらすこともある。それがまさに、我々が強調したいことだ。例えば、人間の『欲』をテーマとしたストーリーは何千年も前から存在する。我々は人間のキーとなるジレンマに、これまで誰もやらなかった角度から光を当て、伝統的なものに新しい情報を使って息を吹き込んでいきたい。最終的に、我々が感化を受けたのは本よりも映画だ。映画的なテンポを、小説に持ち込めたら良いと思う。我々の小説に登場する刑事のヨーナ・リンナ(Joona Linna)はまさに、その映画的な人物なのだ。

我々の最新作は、人間の創造的な面と破壊的な面の大きなギャップを描いている。具体的に言うと音楽と武器産業だ。ある夏の夜、女性の死体がストックホルム湾で見つかる。彼女の肺はある液体で満たされているが、その液体は身体の他の部分には全く付着していない、そんなストーリーだ。」

 

スウェーデン以外の国には知られていない、つまりまだ翻訳されていないシリーズも沢山ある。例えばカリン・ゲーハードセン(Carin Gerhardsen)の「ハマービー・シリーズ」(Hammarby)である。彼女は数学者で、十五年前に一度小説を書こうとしたが、その後情報システムの世界に入ってしまった。その後、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」の先駆けとなるような「ハマービー」シリーズを書いた。映像的な表現で、読み出すとなかなか止められない本である。彼女の描く殺人者は極めて残忍で、暗い雰囲気に包まれている。

 

ゲーハードセンほど残忍でないのが、ラース・グスタフソン(Lars Gistafsson)である。一九三六年生まれのグスタフソンは「犬の物語」(The Tale of Dog)のような、明確なジャンルに分類できないような小説を書いている。この本の中には、存在とアイデンティティに対する瞑想があり、物語は、自分は残虐な殺人の犯人であるという主人公の語りで始まる。しかし、その主人公の主張を信じてよいのだろうか。グスタフソンはテキサス州のオースティンに住んでいて、そこに明らかにナボコフ風の小説の舞台になっている。連邦破産裁判所の判事であるコールドウェル、彼の先輩であるオランダ人の死体が湖で発見される。コールドウェルはその殺人に自分が関与していると述べる。「犬の物語」は、読者が語りを基に作り上げたイメージを崩していく。そして、人生における判断が、信用するに足らない他人の言葉によって行われることを指摘する。

 

 額面どおりに物事を受け入れることへの疑問を、北欧で最も挑発的だと言われるカリン・アルヴテゲン(Karin Alvtegen)も同じように投げかけている。彼女は性に対する国の政策を攻撃している。二〇〇三年に発表された「行方不明」(Missing)で彼女は北欧ミステリー大賞を受賞している。

読者が最初に出会うのが、三十二歳のシビラ・フォーレンストレーム(Sibylla Forsenström)が、ブランド品に身を包み、ストックホルムの高級ホテルで、ビジネスマンを手玉に取っているシーンである。彼女は売春婦なのだろうか。いや、彼女の着ているものはセカンドハンドショップで買ったものであり、彼女は、ストックホルムで一番贅沢なホームレスなのであった。翌日彼女はホテルから追い出されるが、一緒にいたビジネスマンが殺され、彼女はその容疑者として逮捕される。しかし、他にも犠牲者が出て、シビラが犯人でないことが明らかになる。彼女はホームレス等「裏の社会」のコネクションや、不幸な少女時代に身に付けた技を使い、自分で犯人を見つけようとする。登場人物はその過程の中で成長する。ふたつの性の間の関係を痛烈に描いている。アトヴテゲンは、それらの題材を彼女の周囲から見つけ出したという。彼女の興味は驚異的な人間の脳の働きと、その中で人間の恐れや、欲求が隠されている場所だという。

「私にとって不可欠なことは、登場人物を心理の深みに押しやることだ。私は、自分の物語を人間に共通する感情、例えば羞恥、罪の意識、嘆き、裏切りなどの周りに作りたいと思っている。それらの感情が、人間の行動を左右する過程が私を魅了する。自分の小説の登場人物を理解し、彼らに共感を覚えることが私にとっては基本的なことだ。しかし、彼らの行動を私が常に許しているというわけではない。一作ごとに、私は言葉の使い方や語り口をより巧妙なものにしようと努力する。私は常に全ての面で自分の前作を上回ろうとしており、そのためには常により多くの努力が要求される。最初の『行方不明』は六ヶ月で書いたが、最新作はすでに三年を経過している。私の本は三十カ国語以上に翻訳されているが、自分が読むことができるのは英語だけである。英語の翻訳を出す際、翻訳者と一緒に作業をしたが、それは実に得がたい為になる経験であった。

政治的な視点から見ると、社会経済的な乖離は一九九〇年代以降一段と大きくなってきている。貧しい人々やハンディキャップを背負った人々に対する援助は、年々少なくなってきている。二〇〇六年に、それまで実質的に政権にあった社会民主党から、中道右派政権がに代わってからは、その格差が一段と大きくなった。その他にも、政府は所得税を減らし、失業保険制度を改正し、長期の病欠に対する保障も削減した。グローバライゼーション、周囲の世界との競合は、社会福祉システムに対する挑戦でもある。今日の国際的な協業化は世界支配を目指している。

私の本には共通のテーマがある。それは、世間の風に晒された脆弱な子供たちについて書いているということだ。その子供たちは大人になっても社会との関係に問題を持っている。私は、家族の中で何世代にも渡って植えつけられた事柄に興味がある。良心が今私たちがそうであるような子供を作る。私たちを育ててくれた者が、我々の脳細胞の中に記録されている。肯定的な意味でも、否定的な意味でも、繰り返された対応、対話が、記憶となり、将来の行動の基礎となる。大人になってからも、子供の頃から学んだことを思い出させるような状況や関係を作ろうとする。したがって、暴力的な家庭に育った子供は、同じような境遇に陥ることが多い。アルコールやドラッグについても然りでる。私は生涯で一番大切なことは子供たちに隣人に共感し、隣人を尊敬することを教えることだと信じている。より良い世界を作るためのキーは、安全で、お互いに愛し尊敬する子供たちの中に見つけることができると信じている。

私の最新作『ありえそうな話』(A Probable Story)は犯罪小説ではない。自分を変えて、暴力や犯罪が関係しないサスペンス小説を書いてみたかったのだ。私はサスペンスを登場人物たちの内面生活やその関係に直接吹き込みたかった。この本のテーマは、愛、人間関係、嘆き、偏見、量子力学、変革や未知の物への恐れである。どのようにして我々は固定した考え方に囚われるようになるのか、人間を根底から変えることがいかに難しいか。しかし、これは悲観的なものではなく、何か明るい、希望を感じさせるような小説を書く必要があったのだ。」

 

「希望を感じさせる」ということではヘレーネ・トゥルステン(Helene Tursten)がそれを実現してくれる。彼女の空気のような書き方は、賞賛を浴びている。一九五四年、イェーテボリ生まれのトゥルステンは、一九九八年の、「刑事フス・壊された唐の馬」(Inspector Huss / Den krossade tanghästen)を発表するまでは歯科医であった。周到に練られた現在まで七冊発表された「イレーネ・フス」(Irene Huss)シリーズは、スウェーデンでベストセラーとなっているだけではなく、ドイツでも百五十万部以上売れている。また、最初の六作はスウェーデンにおいてではあるが、ドイツのテレビ局ZDFの協力の下で映像化されている。また、彼女はフランスの権威ある翻訳小説に対する賞にも、ノミネートされた。彼女の作品は、ローラ・ワイドバーグ(Laura Wideburg)、スティーヴン・マレイ(Steven Murray)、カタリナ・タッカー(Katarina Tucker)によって英訳されている。

「私の作品の中では、常に『語り』を大切にする。私の住んでいるスウェーデン西部のイェーテボリを取り上げることは私の小説の中の大切な部分である。しかし、あくまで筋がそれを必要とする限りにおいてであるが。世界中の読者が、スウェーデンがどんな場所で、人々がどんな生活をしているのか興味を持っていると感じている。その要求に対して応えるのは楽しいことだ。

正直に言うと、周囲のセンシティブな人々が、何が政治的に正しいかと考えていることに対し、私は余り興味がない。私は与えられた事項について自分なりに考え、自分の意見を導き出す、それに対して他人が異論を唱えようと、余り興味がない。しかし、それがあからさまには出ないように背景の中に隠す努力はする。しかし、明確に言わなくても、賢明な読者はそれを感じ取ってくれることを期待している。

政治的な事項は、他の地域の作家と同じように、スカンジナビアの作家においても、それほど関連がなくなってきている。私は英国や米国の作家が、政治的な事項を挑発的に書いているのを読んではいるが。例えば、英国のイアン・ランキン、ヴァル・マクデミッド、米国のジョセフ・ウォンボー、デニス・ルヘインなどである。

 ヘニング・マンケルを尊敬はしているが、彼は男性の目からしか我々の社会を捉えていない。過去に、男性と女性のバランスをとろうとした女性作家がいただろうか。マイ・シューヴァルがいたが、彼女は夫とふたりで書いていた。男性とは違う視点から見た本を書こうと私は決心し、最初の本を書き始めたのである。

 現在の私の小説のテーマは、子供たちに対する犯罪、インターネットを使った非合法なデータの公開、人身売買、近親相姦などである。これらは小説の題材としては暗く、不穏なものだ。しかし、これらに光を当てることは大切だと思っている。私の最新作は二〇一〇年の八月に発表された「闇を見つめる者」(Den som vakar I mörkret)であり、インターネットを使った、また実際の行為としてのストーキングを描いている。」

 

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