前書き

 

バイキングが西ヨーロッパを席巻してから十三世紀後の現在、再び北欧が西欧を征圧しようとしている。ミステリー、犯罪小説の世界である。北欧の犯罪小説が、これまでの英国、米国の常識を打ち破るものとして、読者に迎え入れられている。次々と英語の翻訳書が発刊されることが、その品質と人気の証明であろう。その一例として、デンマーク製作の、ソフィー・グロベールが主演する「The Killing」は、英国においては大きな人気を博し、一種の社会現象となった。

この本は、何故、北欧の犯罪小説が英国において人気を博しているか、その背景に触れたいという意図の基に書かれたものである。出版社は、次は誰の、どの本を翻訳したら売れるかということを常に考えている。この本では、まだ英語に翻訳されていない作者と作品にも触れてみたい。「北欧」「スカンジナビア」と英国人は一括りにしたがるが、実は国によって地域によって文化が異なる。また、賢明な読者は、小説を読みつつ、その政治的、社会的な背景を理解しようとするだろう。この本は、北欧の、政治的、特に社会民主主義的な背景に注目し、以下の二点を明らかにすることを目的としている。

@    作家と作品を、それぞれの国の社会的な変化と関係させて分析する

A    それらの社会的変化を通じて、英米における、「北欧」「スカンジナビア」に対するイメージを見直す。

これまで、北欧の犯罪小説を包括的に分析した本はなかったが、本書はそれを最初に試みようとするものである。

二〇〇〇年まで、北欧の犯罪小説は、本国とドイツでは人気を博していたが、英語圏では、目立って人気のある分野ではなかった。しかし、ヘニング・マンケル、スティーグ・ラーソンが爆発的な人気を獲得した後、現在では北欧の新人作家の作品に対して、翻訳権の獲得合戦が繰り広げられている。そこには、「北欧の犯罪小説」と聞いただけでよだれを流してしまう、読者の「パブロフの犬」的な条件反射さえ既に培われているようだ。その人気ゆえに、単に作者と読者の関係だけではなく、翻訳、映画化等、マスメディアを意識して書かれる小説も数多い。しかし、北欧の犯罪小説には、日常性を打破し、新しいものを取り入れ、読者を刺激しようという作者の努力が現れている。「安心して聞いていられる『型』から脱却しようとする努力」、これが北欧の犯罪小説の特徴と言えるであろう。

デンマークは、北欧の中でも最も他のヨーロッパに近い、首都コペンハーゲンを中心にまとまった、コスモポリタンな雰囲気を持った国であろう。それと対照をなすのがノルウェーで、厳しい自然と、入り組んだフィヨルドの中に点在する町や村に人々は離れて住んでいる。それぞれの地方が自立している。北欧の他の国の住人にとって迷惑なのは、スウェーデンが北欧の代表選手のように語られることである。確かに、スウェーデンは文化的にも商業的にも輸出するものが多く、その社会民主主義的政治体制は、ヨーロッパの範と見なされている。そして、犯罪小説作家の数も、他の三国に比べて圧倒的に多い。しかし、そのスウェーデンといえども、数々の湖と鬱蒼とした森が広がる国なのである。フィンランドは長らくスウェーデンの支配下にあり、その後ロシアの圧政に苦しみ、いまだにその独立と戦っている国である。フィンランド人は、その特異な地形と、語源的に他の北欧の言語と全くことなるフィンランド語を誇りに思っている。

ストックホルムなどの大都市は別にして、北欧の土地は、英国の人々にとっては未知の場所であった。北の方に「別の場所」があることを最初に英国に知らしめたのが、デンマークの作家、ペーター・ホゥの「Frøken Smillas fornemmelse for sne」(シミラ嬢が雪の上に遺した足跡、1992年)である。その後、スウェーデンの地方都市を舞台にしたヘニング・マンケル、また大都市ストックホルムを舞台にしたリザ・マークルンドやイェンス・ラビドゥスがそれに続く。風が吹きすさぶゴッドランド島を舞台にするマリ・ユングステッド、イェーテボリを舞台にしたオケ・エドヴァルドソン、アイスランドを舞台にしたアルナルドゥール・インドリダソン等がそれに続いた。またノルウェーのカリン・フォッスムも挙げられる。しかし、英国の読者を虜にしたという点では、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」の上を行くものはない。一種の社会現象を巻き起こし、映画もまたヒットを収めた。現在、ラーソンに続く作家として、ヨー・ネスベーが注目されている。本書では、後の章で、ラーソンとネスベーの比較をやってみたい。

北欧の犯罪小説が翻訳され、商業的に成功を収めていることは、文学的だけでなく、政治的、社会経済的に観察されなければならない。しかし、そこに翻訳が介在していることを忘れてはならない。北欧の言語と英語というふたつの違う言語は、とりもなおさず文化、観点の違いを意味する。ヴァランダー・シリーズは、スウェーデンの俳優を使ったシリーズと、英国の俳優を起用したふたつのシリーズが存在する。英国での翻案の方が、スウェーデンの美しさを強調した構成となっている。

セーラ・デスは現在、北欧の犯罪小説の英語への翻訳の第一人者である。彼女は、オリジナルに存在する作家独特のスタイルを、英語で再現することの難しさを述べている。彼女は、翻訳を通じて、オリジナルで描かれる場面を再現しようと試みる。しかし、環境、文化、政治、機構が違うので、それは非常に難しいことであると述べる。彼女は、その場所へ行き、事物を現象的に目に焼き付けるのが一番良いとことだという。セーラ・デスは、政治的な背景を知ることは、文化的な背景を知ること以上に大切なことだと述べる。彼女は、翻訳を始めるまえに、その国について知るように努める。(しかし、一度翻訳を始めてからは、文体、語彙、表現等、ミクロなことしか頭にないと言う。)当然、英米の読者は犯罪小説で読んだことだけでその国をイメージするが、それは仕方のないことだと彼女は考える。需要があるから翻訳が出るのである。しかし、スウェーデンの作家には既に注文に応じて書く者も多数おり、英米の読者も、エキゾチックではあるがそれほど自分達と違わない世界を受け入れている。また、読者はストーリーに興味があり、スタイルなどには余り興味を示さない。「慣れ親しんだ世界」と「新しい世界」の微妙なミックスが、翻訳の目標だと言える。

英国と他の欧州の人間が描く、北欧のイメージとは、人の手の入らない雄大なフィヨルド、そこに住むトナカイ、金髪の均整のとれた人々、清潔な都市と、行き届いた社会福祉などであろう。しかし、北欧の犯罪小説が崩そうとしているのは、まさにこうしたイメージなのである。

北欧の風景は、夏の短い夜と冬の長い夜の中にある。長い夜の間に、家族や同僚たちとの間の憤りがつのるということは十分考えられる。北極圏に近い辺りは、まだ手付かずの自然と、古くからの風習が残っている。しかし、犯罪小説の作家たちは、不思議とそのような伝統的な事物を題材として使わず、南部の近代的な都市を舞台にすることが多い。しかし、都市を舞台にしていることが、英米の読者に、作品が違和感なく受け入れられるひとつの要因になっていること否めない。マンケルのヴァランダー・シリーズが二度目に映像化されたとき、ケネス・ブラナーを始めて英国の俳優が起用され、英語での会話がなされた。(撮影はスウェーデンで行われたが。)英国の視聴者はそれに熱狂した。しかし、基本的に視聴者は舞台を「英国の延長」としか捕らえていないように、私には思われる。

バイキングの頃から現れる北欧文学には、跡継ぎを巡って血で血を洗う、残虐な話が多い。これが、現代の殺人事件をテーマにした犯罪小説の盛況に影響していることは否定できない。ノルウェーの作家ヘンリク・イプセンや、同世代のスウェーデンの作家アウグスト・ストリンドベリは直接犯罪を扱った小説は書いていない。しかし、ふたりとも、秘密が徐々に暴かれる過程を描くことを得意としていた。映画監督であるイングマー・ベルイマンも、(彼はヘニング・マンケルの義父である)人間の魂の暗さと並び、暴力、葛藤を描いている。彼は、「暗い映画」(film noir)と呼ばれる米国の犯罪映画の影響を受けている。これらの前任者は、北欧の犯罪小説を織りなす縦糸と横糸と言ってもよい。

北欧の犯罪小説は、北欧の誇る「ヴォルスンガ・サガ」(北欧の神話)からも、直接的、間接的な影響を受けていると考えられる。北欧神話の影響は北欧内に留まらず、英国やドイツの作家や作曲家の多くも北欧神話から影響を受け、ワーグナーのオペラ「ニーベルンゲンの指輪」や、トールキンの「指輪物語」などが書かれている。神と英雄の織りなす北欧神話の世界の中の、生贄、儀式、語源などは、現代の作品の中に、再利用されている。

しかし、北欧の小説が英米に紹介されるに伴い、また英米の作家がそのスタイルを模倣するにしたがい、北欧の人たちはそれを誇りに思いながらも、極端な北欧のイメージが世界に流布することを恐れている。本来、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンにおける犯罪発生率は、他の欧州諸国のそれよりもはるかに低いのである。

英米を訪れたスウェーデン人が、時には羨みの目で見られながら、辟易するほど受ける同じ質問、それは、スウェーデンはフリーセックス、性的に解放された国なのかということである。しかし、一九六〇年代の性の解放運動は、何も北欧に限ったことではない。スウェーデンがフリーセックスの国と思われているその原因は、「私は好奇心の強い女」(I Am Curious)等の映画にあるようだ。(この映画は、その過激さから、公開を巡って米国では大きな論争を巻き起こした。)ベルイマンなどにも、映画の中でセックスを過激に描く傾向があった。しかし、犯罪小説の世界では、シューヴァル/ヴァールーがタブーを破ろうとしたが、その後も、性の問題は扱われることは長らくなかった。そして、故スティーグ・ラーソンが、初めてヴィヴィッドな性描写を行ったことで注目された。しかし、今なお、北欧の犯罪小説の多くが取り上げるのが、セックスではなくフェミニズムである。「性」の問題でもうひとつ注目すべきなのは、最近相次いで登場する女性捜査官であろう。彼女たちは、都市と田舎という対比以上に、男女の対比として、重要な対極をなしている。

東欧の崩壊、移民の増加など社会問題を扱うヘニング・マンケルなどの作家を「社会・歴史の記録者」として扱うかどうかには異論がある。しかし、それらの社会問題が、他の何よりも、彼らに小説を書かせる起爆剤となっていることは確かである。殆どの作家が、一九八六年のスウェーデン首相、オロフ・パルメの暗殺事件により、社会民主主義の楽園的なイメージが崩壊するのを感じ、自分たちの国も、大統領が暗殺された他国とそれほど変わりがないというショックを受けたという。その後、社会的な要素が、シューヴァル/ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズから、マンケルのヴァランダー・シリーズに至るまで、重要な背景となっている。また、ノルウェー、アイスランドなどの他の北欧諸国との対比も、その背景となっている。

シェークスピアの描くデンマークは英国のミラーイメージであった。現在再び同じことが言えるのではないか。ホカン・ネッサーは、北欧と英国の違いは大きくなく、それは年々縮小していると述べている。また新しい世代として、アイスランドのステファン・マニ、デンマークのスザンネ・スタウン、ノルウェーのウニ・リンデルなどが注目され始めている。

 

<次へ> <戻る>