「破片」

Splitter

2009

 

 

<はじめに>

 

自分の起こした交通事故で妊娠中の妻を失うという悪夢から何とか立ち直りたい男。彼は「記憶を人工的に消す」という某クリニックの治験に応募する。彼はトラウマから立ち直れたであろうか。

 

<ストーリー>

 

マーク・ルーカスは深夜、精神分析医のニコラス・ハバーラントを訪れる。遅いので明日にしてくれという医師に対して、マークはピストルを突き付け、自分に対して精神分析をするように要求する。マークは怪我をしていた。医師はそれがマークの自傷行為によるものであることを知っていた。マークは全てを知りたいと言う。医師は、

「後で、やっぱり聞きたくなかったなどと言わないでくれ。」

と言って話し始める。マークは自分の存在に疑問を感じ、それを確かめたいがために自分を傷つけたのだった。

 

マーク・ルーカスはカウンセラーとして、ベルリンのノイケルンにある、青少年相談所の責任者として働いていた。彼は、その日も、水の入っていないプールに、飛込台から飛び降りようとする少女の説得に当たっていた。彼は、弟のベニーが病院から出たという知らせを受け、その場を離れる。彼は、数週間前、自分の起こした交通事故で、妻ザンドラと、彼女の腹に居る子供を失っていた。彼自身も、その事故で大怪我をし、肩に車の破片が入っているということで、治療を受けていた。

歩いているマークの横に、白いリムジンが停まる。その中に乗っていたのは、パトリック・ブライプトロイという医者であった。数週間前、マークは義父、ンスタンティンの経営する病院の待合室で、「忘れることを学びませんか」という雑誌の広告を見て、その広告の主、「ブライプトロイ・クリニック」対してEメールを書いていた。彼はそのとき、何とか死んだ妻のことを忘れる方法がないか、あがいていたのだった。ブライプトロイは、人間の特定の記憶のみ、選択的に消し去る方法を研究開発したという。そして、ぜひ、マークに対してその方法を試みたいと述べる。

精神病院から出たマークの弟、ベニーは、友人のエディー・ヴァルカを訪れる。ベニーはHSP(他人の苦しみを自分の物として感じてしまう)患者であった。ベニーはヴァルカに借金があった。ヴァルカは借金とベニーの病気を利用し、ベニーに、自分を探るジャーナリストを殺させようとする。

マークはブライプトロイと話す。マークの妻ザンドラは女優であり作家でもあった。彼女は妊娠していた。彼女の書いたシナリオの映画化の話がまとまり、その祝杯を挙げるために、ザンドラとマークは、ザンドラの父のコンスタンティンの屋敷を訪れた。その帰り道、事故に遭ったのであるが、マークは事故の数時間前からの記憶を失っていた。ザンドラの父、コンスタンティン・ゼナーは、外科医であり、大きな私立病院の経営者であった。マークは、妻と息子を殺した自責の念に常に苛まれていた。ブライプトロイは、自分は人間の全ての記憶を一度消し去り、必要な記憶だけを再導入する、つまりコンピューターをリセット、工場出荷時の状態に戻す方法があるという。しかし、何となく胡散臭さを覚えたマークは、契約書への署名を拒否し、ブライプトロイのクリニックを去る。

自分のアパートの前まで戻ったマークを、レアナ・シュミットという女性が待っていた。彼女は病院で、マークの弟ベニーの担当であったという。マークは、自殺をしようとしていた弟を見つけ、彼が精神病院に収容されるように取り計らった。そして、その際、マークは弟が確実に、強制的に病院に入るように、裁判官やソーシャルワーカーに嘘をついていた。看護師のレアナは、ベニーが退院寸前、食生活を改める、運動を始める、聖書を読むなどの変化が見られたことを告げる。そして、ベニーの退院後、彼のベッドの下に、一万五千ユーロの現金を見つけたと言う。

マークは自分のアパートに戻り鍵を開けようとする。彼はザンドラを亡くしてから、彼女と一緒に住んでいたグルーネヴァルトの家を引き払い、アパートに引っ越していたのだった。ドアを開けようとするが、鍵が合わない。表札の名前が変わり、「ゼナー」となっている。ザンドラの旧姓だ。ベルを押すと中から亡くなった妻ザンドラの声が聞こえる。しかし、彼女は、

「あんたなんか知らない。これ以上しつこく言うと警察を呼ぶ。」

と言ってドアを閉めてしまう。

彼はアパートの駐車場へ行く。しかし、自分の車が停まっているはずの場所には別の車が停まっている。彼は携帯で友人や同僚と連絡を取ろうとするが、携帯の中に保存してあった電話番号は全て消されていた。定期的に薬を飲む必要のあるマークは、薬がアパートと車の中にしかないこと思い出す。彼は薬局に寄り、クレジットカードで薬を買おうとするが、カードが使えなくなっていた。タクシーの運転手に頼み込み、自分の携帯に電話を掛けてみる。そこにはマーク・ルーカスと名乗る男がいた。彼は、自分が責任者をやっている青少年相談所へ行く。彼は自分の持っている鍵でオフィスに入ろうとするが、そこでも鍵が合わない。ちょうどオフィスから出てきた男がいたので問い質すとその男は、自分こそこの相談所の責任者であると言った。その男は、マーク・ルーカスという名前も、マークの秘書の名前も聞いたことがないと言った。思い余ったマークは、義父のコンスタンティンの病院に電話をする。しかし、電話に出た秘書は、マークのことは知らないと言い、マークの電話をコンスタンティンにつなぐことを拒否する。自分がブライプトロイ・クリニックにいる間に何かが起こったと感じたマークは、クリニックに戻ろうとする。しかし、彼がその場所を訪れると、そこは大きな穴の開いた工事現場であった。マークは自分の父親が精神分裂病であったことを思い出し、それが自分にも発病したのではないかと疑い始める。

その頃、ベニーは、エディー・ヴァルカから殺害を命令されたジャーナリスト、ケン・スコフスキーの家に向かっていた。彼は玄関のベルを押し、そのジャーナリストに招き入れられる。

ブライプトロイ・クリニックがあったはずの工事現場に茫然とたたずむマークに、一人の黒人の女性が声をかける。

「私はあんたを助けることができる唯一の人間だ。」

と彼女は述べる。エマ・ルードヴィヒと名乗るその女性は、マークが事故で妻を失ったこと、彼がその日ブライプトロイ・クリニックを訪れたことを知っていた。彼女は、マークを自分の泊まっているホテルの一室に連れて行く。エマは、ブライプトロイが数か月前から、マークの記憶を消し去るための準備をしていることを知ったという。彼女は、マークとブライプトロイの間で交わされた契約書のコピーを持っていた。巧妙に出来ているその契約書の日付は交通事故の日になっていた。エマは自分も、ブライプトロイの「人工的、選別的記憶喪失」プログラムの犠牲者であり、自分が治療を受ける前のほとんどの記憶を失ったと述べる。しかし、ブライプトロイが他の男と、マークへの「治療」について話している内容を偶然聞き、その危険な内容を恐れたエマは、書類を盗み出し、クリニックを逃げ出した。そして、工事現場でマークの来るのを待っていたという。何者かが、マークの中にある「危険な記憶」を消そうとしているとエマは主張する。その証拠として、マークが義父の病院の待合室で見ていた雑誌の中の「忘れることを学びませんか」というブライプトロイ・クリニックの広告を見せる。それは、一冊の雑誌だけ、ページを巧妙に入れ替えたものであった。トイレから出たマークは、エマが携帯で話しているのを聞く。彼女は、現在彼らがいるホテルの名前を誰かに伝えていた。

「この女こそ、誰かと通じている。」

そう思ったマークはホテルを飛び出す。

マークは警察に向かい、警察官に今日自分の経験したことを説明し、自分が陰謀にはめられていると告げる。しかし、警察官は相手にしない。そこに、義父のコンスタンティンが現れ、マークを警察から連れ出す。マークはティーンエージャーの頃、エディー・ヴァルカや、弟のベニーと一緒にバンドをやっていた。マークは十八歳のときに、コンサートにやってきたザンドラと知り合う。一人娘であるザンドラを、マークのものにしたくない父のコンスタンティンは、マークに多額の手切れ金を渡し、娘から手を引くように言うが、マークはその金を暖炉に投げ込んでしまう。それを機に、コンスタンティンはマークが娘と付き合うことを認め、彼を精神的、物質的に援助した。その後ふたりは結婚。十三年前、ザンドラは妊娠したが、その時強盗がコンスタンティンの屋敷に押し入り、ちょうどそこにいたザンドラは、ショックで流産してしまう。今回ザンドラが妊娠したのは、それ以来のことであった。

マークは、自分のアパートへ向かうように義父に頼む。何故か携帯はまた使えるようになっていた。今回は問題なくアパートの鍵が開いた。部屋の中も、自分が出て行ったときのままであった。しかし、マークは、ザンドラのものと思われる長い金髪が、流しに落ちているのを見逃さなかった。部屋の中では、電池で動くイルカの電灯が、青い光を放っていた。

玄関のベルが鳴る。マークがドアを開けると、エマが立っていた。

「コンスタンティンはブライプトロイの協力者で、ザンドラはまだ生きている。」

とエマはマークに言う。エマと一緒に玄関を出たマークは、停まっていた救急車から降りてきた男たちに襲われる。マークは、エマを拉致しようとした男たちを何とか撃退し、エマを救う。エマは、自分はザンドラが生きているという証拠を持っていると言う。その証拠として、その日携帯で撮ったという、コンスタンティンと若い女性が話している写真を見せ、その女性が乗っていた車のナンバープレートをマークに教える。

その頃、ジャーナリストの家から戻ったベニーは、ヴァルカの指示で国外に高飛びしようとしていた。彼は一度自分のアパートに帰る。そのアパートの浴室には、虐待されて殺された少女の死体が横たわっていた。

マークはエマを連れ、ベニーに協力を頼むために彼のアパートに向かう。マークはベニーにナンバープレートから車を見つけるために協力を頼むが、ベニーは自分には時間がないと言って断る。浴室に入ったエマが気を失う。ふたりはエマを病院に連れて行くために外へ運び出す。マークはベニーがピストルを持っていることに気付く。ベニーは、

「この女を信用してはいけない。」

と言う。外へ出たベニーは、停まっていた救急車のナンバーを示す。それはエマがザンドラの番号だとマークに言ったものだった。

「この女の言うことは口からの出まかせだ。」

とベニーは言う。突然銃声がする。それはベニーがエマを撃ったものだった。弾は逸れ、エマは耳に負傷を負っただけだった。ベニーは突然消え去っていた。途方に暮れるマークに、犬を連れたひとりの浮浪者が近づく。

「俺の仲間があんたの財布を掏ったんだが、あんたに返す。」

と財布をマークに渡す。その財布の中にはメモが入っていた。そこにはザンドラの字で、

「グルーネヴァルトで会う、早く来て」

と書いてあった。マークは負傷したエマを車に押し込み、かつて自分がザンドラと住んでいた、グルーネヴァルトの家に向かう。

家に着いたマークは驚く。そこには引っ越しするときに捨てたはずの家具がそのまま残っていた。そして、ザンドラの部屋にはベビーベッドがあった。ベビーベッドが話し出す。そこにはトランシーバーが入っていた。その声に導かれて、マークは地下室に入っていく。そこには、ひとりの男が縛り付けられていた。彼は、

「自分はザンドラの弁護士だ。彼女は映画のシナリオを百二十万ドルで映画会社に売ることになっていた。そして、父親からの圧力で、遺言状を変更しようとしていた。」

と話す。傍には、ザンドラが書いたとする、映画のシナリオが置かれていた。マークは「破片」と題されたシナリオを読み始め、愕然とする。

「法律家であり、問題を抱えて家を出た子供たちのために、カウンセラーとして働くマーク・ルーカスは、自分の過失のために起こした交通事故で、妊娠中の妻を失う。妻の死の数週間後、彼は雑誌の中にある精神分析クリニックの広告を見つける。そのクリニックは『忘れることを学ぶ』という治療のために、思いトラウマを持って生きている人間を捜していた。生涯最悪の出来事の思い出を記憶の中から永久に消したい人、そのために『実験』に参加したい人、意図を持った記憶喪失の実行、そんな文句に誘われて、ルーカスは院長にEメールを書いた・・・」

シナリオには、マークがその日、その時点までに行ったことが、順に書かれていた。そのシナリオの最後には、電話番号が書いてあった。マークがそこに電話をすると、ザンドラの声で留守電が入っていた。

「直ぐに説明するから。」

とザンドラは言っていた。その時、マークは背後に誰かが立っているのに気付く。縛られていた弁護士が脱出したのだった。マークは殴り倒され気を失う。

気を失ったマークは、夢を見ていた。

「マークはザンドラと車の中で言い争っていた。それは『目的は手段を正当化するかどうか』に関わる問題だった。ザンドラは泣いていた。ザンドラはシートベルトを外し、後部座席から一枚の写真を取りマークに見せる。それは超音波で撮った子宮の中の赤ん坊の写真であった。そのとき事故が起きた・・・」

 

<感想など>

 

 二度と思い出したくないという、ひどいトラウマを経験した人間が、「特定の記憶を消してあげる」と言われたら、どうするか。心が傾く人は多いと思う。マーク・ルーカスもそのプログラム、実験に応募をする。その実験の主催者ブライプトロイは、そのやり方を、「記憶を一度全部消してしまい、特定の記憶のみ選択的に再度導入する」という、コンピューターのリセットに近いやり方を示唆する。現実的に、果たしてそのようなことが可能なのだろうか。フィツェック自身が、この本の「あとがき」の中で、短期的、長期的に記憶を消す薬剤は既に存在すると書いている。しかし、「選択的に」というのは、現在のところ、やはり無理らしい。

 この物語は、「現代人が最も恐れる、考えたくない体験、悪夢」を再現している。それは「自らの存在の否定」である。つまり、「あんたは存在しない」と言われてしまうことだ。マークがアパートに帰ると別人の表札が掛かっていて鍵も開かない。別の住人は「あんたなんか知らない」と言う。停めておいた車もない。携帯も使えない。クレジットカードも使えない。職場へ行くと自分の席には別人が座っている・・・そこで、誰もが「俺は気が狂ったのだろうか」と考えるだろう。主人公のマークも、そこで「自分の存在」に疑問を抱き始める。果たしてこれは策謀なのか、それともマークが狂ったのか、これがこの物語の焦点となる。

 また別の恐怖が描かれる。それは「自分の行動を前もって他人が知っていた」ということだ。自分は、その時々に自分の意思、判断で行動したと信じている。しかし、それを全て見透かしている別の人間がいるとすれば、それは恐怖である。マークは、その日、考えられない、信じられないような体験をする。しかし、その体験が、妻が何か月も前に書いた映画のシナリオに全て書かれていたとすれば。この点も、この物語を読んでいく上での大きな興味となる。

 さて、「破片」というタイトルである。マークは交通事故を起こし、大怪我をする。彼の手術をした義父のコンスタンティンによると、金属の破片が彼の首筋の神経に極めて近い所に入っていて、それを取ることは、神経を痛め、下半身不随を引き起こす恐れがあるという。その破片を身体に入れたまま、マークは生きて行かねばならない。その「破片」が彼の運命と、策謀を象徴している。そして、妻のザンドラが書いたという映画のシナリオのタイトルが「破片」なのである。

 個人的に言うと、フィツェックの作品を読むのも、これが三冊目となった。確かに、テレビのサスペンス・ドラマを見ているようで、読者をつかんで離さない技量には、毎回感心してしまう。「読み易い」、「スラスラと抵抗なく読める」、彼の文章はその意味では秀でている。また、ひとつの章が、次の章を読み始めたくなるような、終わり方をする。ちょうど、テレビドラマのCMの前のような。前二作は、確かにその技法に影響され、どんどん読み進むことができた。しかし、三作目になると、さすがにその技法が「鼻につく」というか、「そうそう同じトリックでは騙されませんよ」という気分になってきた。フィツェックの作品を、今後も読み続けるか、それともここで別の系統の本を挟むか、まだ決めていない。

 

20142月)

 

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